第12話 誘い

「やっと八階かよ! 体が汗でびっしょびしょになっちゃったぜ!」

 たまらず中谷は汗でぬれた黒いシャツを脱いだ。体には赤い雲に乗った弁財天の刺青が胸から背中全体にかけて色鮮やかに彫り込んであった。

「すごーい! それ本物?」

「当たり前だろ。全部入れるのにで三百万かかったかな」

「へーっ!  私も入れてみたい気もするけど、痛いの駄目だからこういうの無理かもー」

 風俗で働いている加奈にとって、刺青を見ること自体は、そんなに珍しいものではない。ただ経験として、どの男も彫っている刺青をほめてあげると機嫌がよくなるのを知っているだけだった。加奈はこの仕事を始めてから間もないころ、背中一面に入れた刺青の模様をダサイと言ってしまった時があった。結果、顔を思い切り何回も殴られた苦い思い出があった。それ以来、反射的に刺青を見ると褒めるようになっていた。

「それにしてもエアコンが効いてないラブホって本当つらいですね……」

 遥は眉をひそめながら右手で顔を扇いだ。

「まあ、金が見つかるまでの辛抱さ。ところで、俺は801と804の鍵を持ってるけど、彼女達は八階の鍵をいくつ持ってる?」

「私は802の鍵をもってますけど……」

 おどおどした口調で遥が答えた。

「私はないわー。七階の鍵なら三つもあるけどね」

「それじゃ、801から調べていくことにするか。早く三千万の札束を拝みたいもんだよな」

 鍵穴に鍵を差し込み左に九十度回す。なめらかにドアの錠が外れる音が響いた。

「中に入るぜ」

 声を潜めて中谷がドアのノブをつかんだ。

「まさか誰か隠れているなんて事ないですよね?」

 最後尾の遥は不安でいっぱいだ。

「それはありえないと思うよ。こんな蒸し暑い部屋にずっといる事なんて出来っこないよ」

 目の前にいる加奈が振り向かずに答えた。

「それもそうですね……」

 遙はドアの向こう側に不吉なものを感じずにはいられなかったがそのまま黙った。中谷が中の様子を伺いながらドアを押し開く。密閉された部屋の熱い空気が、三人の素肌をなまめかしい感触でなでた。室内はしんと静まり返っていて、逆にその静けさが不気味だった。

「誰もいないみたいだな……」

 中谷は目を凝らして真っ暗な室内を見回した。

「早く部屋の電気つけなくちゃ!」

 加奈が部屋の照明のスイッチを押す。暗黒の空間に光が灯った。

「このベッド貝殻の形してますね。すごーい……」

 ラブホとはあまり縁のない生活をしていた遥は、貝殻のデコレーションのベッドに素直に驚いた。

「今はそんなことに感心してる場合じゃないだろ。よし、みんなで手分けして探すとするか。三千万が入ったケースなら、すぐ見つけられるはずだ。気合入れていこうぜ!」

 中谷はベッドやソファの下や隙間を注意深く覗き込んだ。

「私、入り口の方を探してみます!」

 遙は壁につくり付けのロッカーを開けて上から丁寧に調べはじめた。

「じゃ私はバスルームを探してみよっかな」

 加奈は洗面台の周りを注意深く探し賞金ケースがない事を確認すると、バスルームのドアを開けた。

「俺達が持っている鍵は三人全部で二十一個もあるんだから、急いでやらなきゃな!」

 中谷はかすかな期待を込めてベッドの掛け布団をめくってみた。

「布団の中に隠してあるなんて出来すぎか……」

 渋い顔をして、めくった掛け布団をもとに戻す。

「入り口のロッカーやトイレの中にはないです!」

 後ろから遙の声がする。

「こっちのバスルームにも何もないよー!」

 目的のケースがなくてがっかりした加奈だったが、お湯の張っていない浴槽の隅に先の尖った小型のナイフが置いてあるのに気づいた。瞬間、加奈の動作が止まった。無意識に誰も周りにいない事を確認する。淡いパステル調の色彩の花柄をペイントした爪先がナイフをつかむのに躊躇はない。生暖かい金属の感触がなぜか理由もなく加奈を興奮させた。加奈はハンカチを取り出し素早くナイフを包み、穿いているミニスカートの内側のポケットに忍ばせた。

「次の部屋に早く行こうぜ。ここに金はねえ」

 バスルームに中谷がぬっと顔をだした

「そうね。次行こっ、次っ!」

 加奈はびくっとした表情をごまかすために、けげんな顔をした中谷の頬に軽くキスをした。

「次の部屋を探しましょ! それよりお金が見つかったらどうするつもり?」

「そうだな…… 悪いようにはしねえよ」

 唇が触れた頬に手のひらを当てて、にやっと中谷が微笑んだ。

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