第48話 地獄のような朝飯
「おはよー……って何であなたが此処に……?」
「随分なご挨拶ですね。おはようございます。村澤様からの呼び出しに応じた形です。一週間よろしくおねがいしますね?」
「……よろしくお願いします……」
普段とは違って人に起こされるという珍しい体験をした後に待っていたのは出来ることならもう二度と会いたくなかった人がリビングでお茶を啜っていた。
「真希、どうされましたの? おばばさんとはあまり気が合わないのですか?」
「いや、合わない訳じゃないんだけど……、ちょっと苦手なだけなんだ」
「よく本人の前でそのようなことを言えますね。また教育が必要ですか?」
「それだけは……どうかご勘弁を……‼」
思い出すのは初対面の時。居候が決まった次の日、朝起きる今日と同じようにおばばさんがお茶を啜っていた。そうして、初めしての挨拶を交わしたと思ったら第二声がこれだった。
「では、貴方の家事力を試させていただきます。居候をなさるのであれば当然、家事くらいは出来ますよね?」
その一言から生き地獄が始まった。掃除は慣れていたから少しの小言で済んだが、料理を始めてからおばばさんは本気を出し始めた。
『肉にはしっかりと火を通さなければ食中毒を起こします。きちんと焼いている肉に目を向けなさい』
『肉を切った包丁とまな板はそのまま野菜を切ってはいけません。洗ってから使用しなさい』
『このネギ、切れていませんよ。力任せでいいというものではありません。切ることに慣れていないのであればまずは力を抜いて包丁の刃がしっかりと入っていることを確認なさい』
『それは塩です。砂糖ではありません。貴方が料理をすることに慣れていないのは分かりますが、せめて、せめて調味料くらいは理解していください。……それは胡椒』
『全て強火で炒めれば良いというものではありません。料理の基本は中火からです。……違います。そっちは弱火です。……それはまた強火に戻してます』
まだまだ言われていたが、私の料理センスが相当壊滅的だったのか途中からおばばさんも諦めていた気がする。これで弟を食べさせていたんだけどなぁ。
『……分かりました。貴方は食べることを専門にしなさい。その方が良い。絶対に。坊ちゃんには私から伝えておきます』
料理指導が終わってからおばばさんがポツリと此処までとは……と途方に暮れていたが、そこまで酷かっただろうか? 今思い返しても問題は……多少はあっただろうけど、そんなに大きな問題は無かった気がする。
とまぁ、そんなことがあったから少しおばばさんには苦手意識が残っている。良い人なのは分かっているが、どうしても家事研修が先に思い出してしまう。
「真希さん。まさか貴方……料理はしていませんよね? 食べることを専門にするように伝えたはずですが」
「していません。勿論です。食べるのを専門にしてますよ」
「では、何故リビングの天井が凹んでいるのでしょうか? 坊ちゃんが暴れるような性格ではないということは分かっています。無論、貴方も。正直に話した方がお互い話は早いと思いますよ?」
「……」
――これはバレてるんだろうか。祈が告げ口をしたとは思えない。そんな性格ではないことは昨日の夜に少し話しただけで分かった。明るくて優しい陽だまりのような子だった。
となると、昨日の料理をした痕跡が残っていたんだろうか。まさか、おばばさんがくるとは思っていなかったから普通の片づけで済ませてしまった。そこからかな?
「……昨日しました。天井が凹んでいるのは村澤君が吹っ飛んだからです」
「……説明になっていませんが? 何故料理と坊ちゃんが吹き飛んだのが関連してくる……あぁ、そう言う事ですか。確かに説明になっていましたね。失礼しました」
「いえいえ」
「さて、私は謝ったことですし、約束を破った貴方に何か要求しても問題はありませよね?」
「へ?」
そんな話一切していないけど……? しかし、約束を破ったのは事実。先に謝られたのもまた事実。おばばさんめ、こうなることを予測して先に謝ったな?
「若造の考えることなんてお見通しです。今考えていることも。真希さんのことですから、そうですね……こうなることを予測して先に謝ったなと考えてません?」
「いやいやまさかぁー」
怖い人だ。匠郁君が敵わないと言ってた理由がようやく分かってきた。片鱗は見えていたけど、やっと実感した。これは敵わないわ。
「さて、では要求と言っても簡単なものです」
「現金は無理。給料日までまだ二週間もあるんですけど……」
「貴方が私をどう思っているのか今ので分かりました。いえ、そんなものじゃありませんよ。本当に簡単です。あとで買い物に行くので貴方も付き合いなさい」
「買い物? ご飯の材料のですか?」
「いえ、この子のです」
おばばさんはそう言って祈の方を向いた。祈の買い物ということだろう。昨日を思い出すと、祈は下着が無いと言っていた。そっちの買い物なんだろうけど、何で私が一緒に? 別に嫌なわけではないが、おばばさんが行く以上、私がついていく理由が分からない。
「それは良いですけど、何で私も一緒に? 嫌なわけじゃないですよ?」
「最近の子のファッションやら、下着やらは私では分かりませんから。若い子の意見が欲しいのです」
「私の意見って……」
自慢ではないがそういう知識は私には全くない。最近のトレンドも分からないし、何が良いのかもわからない。私の中のファッションという概念は中学生で止まっている。参考にすらならないと思う。
「何もそういう知識を求めているわけではありません。貴方がそういうのに疎いのは初対面の時点で分かっています。しかし、若い人の感性と私の感性ではどうしても世代の違いで出てしまう。知識はなくとも感性は少なくとも似ているでしょう」
「だと良いですけど」
普通の感性は私には無い。環境が環境だったし、今つけているのも店員が勧めてくれたのをただ購入しただけだ。世代の違いがあったとしてもおばばさんの方がマトモなものを勧めてくれそうだ。
自分の感性に自信が無く、付いていって良いのか迷っている私を見かねてか、おばばさんは私の目をじっくりと見つめ言い聞かせるように話し始めた。
「――貴方を責めているわけではありません。これはただの老婆心ですから、聞き流してくれても結構。真希さん。貴方は進むことを選んだのでしょう? だから今こうしてこの家にいる。進むことを選ばなければ今この場に貴方はいない。進むことを選んだ以上、停滞を選ぶのはお辞めなさい。こういう地道なことであったとしても。自身が無くても結構。これから身に付けていきなさい。徐々に身に付けていった自信が将来必ず貴方の役に立ちますから」
「……はい。ありがとうございます」
「礼には及びません。貴方よりも長く生きている先人の余計なお節介です。どうしても礼を言いたいのであれば買い物が終わった後にでも」
そうしておばばさんは一口ゆっくりとお茶を喉に運んでこの話は終わりだと言外に告げた。……やっぱり敵わないや。
「えーっと、後ほどわたくしの下着を買いに行くということでよろしかったですか?」
「はい。下着が無いのでしょう?」
「でも、わたくしはたった一週間の居候ですよ? 買っても無駄になってしまうと思います。費用はのちほどわたくしが負担するとしてもです。時間の無駄にもなってしまうのでわたくしのことはあまり気にせずに……」
「祈さん。村澤様が私に頼みごとをするのは非常に珍しいことです。その頼みごとを叶えたいと思う老婆の心を摘む気ですか?」
「いいえ、そうではなく……」
「分かっていませんね。では、分かりやすく一言で。貴方の意見など聞いていません。分かりましたか?」
「……はい……」
祈はおばばさんのプレッシャーに何も言えなくなったようだ。私も同じ立場だったら何も言えなくなっていただろう。それほどに先程の圧は凄かった。特に村澤君からの頼み事と言っていた時は今までとは比べ物にならなかった。
「さて、祈さんは私とは初対面ということで真希さんにもした、とても重要なことを一点貴方にお伝えします。聞き逃すことが無いように。二度は言いませんからね」
「それは一体なんですの?」
「――あの方を傷つけたら、肉体的であっても、精神的であったとしても私は地の果てでも追いかけて貴方を晒し首にしますから。その際はご覚悟を」
おばばさんは柔和な目つきを一瞬だけ鋭くし、祈を一瞥した。冗談でも、形式だけの宣言でもない。もしそんな状況になったら迷うことなく実行すると鋭くなった目が告げている。
「お約束します。村澤さんを傷つけることは一切いたしません」
「必ずこの約束を順守することをお忘れなきよう。私は貴方達の世話は致しますが、貴方達の味方ではありません。真希さん? あなたもですよ?」
「……はい」
実を言うと昨日の時点でかなり怪しいが、まだ私の首と胴体が繋がっているという事は彼を傷つけたという判定はされていないという事なんだろう。改めて気を付けよう。
「では朝食にしましょう。準備は出来ています。食べられる分を各自で盛り付けてください。私は村澤様を呼んできます」
おばばさんは立ち上がり、洗面所の方へ向かって言った。残されたのはおばばさんの圧に飲まれている祈とトラウマが若干戻ってきた私だけ。
「怖い人でしょ?」
「ええ。あのようなプレッシャーを持つ人に出会ったのは久しぶりですわ。しかし」
「良い人だよね。言葉はきつく感じるけど、所々に優しさが表れてる」
「けれど、何ですの? さきの言葉をかけられたときは生きた心地がしませんでしたわ」
「私も。最初に会った時も同じことを言われたけど、今日が命日だと覚悟したもん」
本当に怖かった。初めて言われたときに失禁しそうになったのは内緒だ。
「じゃあ朝ごはん準備しちゃおう。そういえばご飯の準備ありがとね。私もしたいんだけど、直々におばばさんと村澤君から禁止されてて……」
「いえいえ、私が勝手にしたことですので、あまりお気になさらず」
私と祈。この奇妙な関係は一週間で終わってしまう。会って間もないこの関係は友達とも、他人とも違う関係性だ。
同じ居候であり、一週間が終わったら解消される関係性。この一週間で友達にまでなりたいが、この先どうなるのか予想がつかない。一週間という短い期間だとしても良い関係性が築けたらいいな。
「で? これは……どんな空気だ?」
顔を洗い終わり、使い込まれ少しゴワゴワとしているタオルで顔を拭いているとおばばから朝食の準備が出来たと言われリビングまで来ると堀と祈は顔を少し青くし、いつでも食べられるように準備を終えていた。表面だけ見ればただ俺が来るまで待っていたかのように見えるが、雰囲気的に何かを、いや誰かを恐れているような空気を感じる。
「おばば、変なこと言っただろ?」
「いえ、変なことなど全く。必要なことを伝えたまでです」
「ほんとかよ……?」
疑わしい限りだ。信頼はしてるが、俺に関係する人と何かを話しているときは信用ならない。おばばと話をした人はほとんどおばばから少し距離を置く。今回もそのパターンのようだ。
「こいつらが大人しいから別に良いけどさ。で、今日の朝飯は?」
「今日は白米とみそ汁。それに、ほうれん草の胡麻和えと鮭の四種類で用意しました」
「豪華だな。大変だったろ。わざわざありがとう、後、祈も」
「いえ、朝食は一日の基本ですからね。これぐらい食べないと」
「お口に合えばいいんですが」
「大丈夫だろ、おばばが味見してるだろうし。冷めないうちに食べちまおう」
盛り付けていないのは俺とおばばだけだったのでさっと盛り付け、リビングの四角いテーブルまで持っていく。
そこで気が付いたが、テーブルが一つだけしかない。今までは金城と二人だけだったから一つで済んでいた。このままではおばばを隣においたとしても金城か掘が隣にやってくる。それだけは嫌だ。せめて飯の時間くらいは安らかに過ごしたい。
「……テーブル持ってくるわ」
「? 此処にあるけど?」
「一つじゃお前らが隣に来る。それは嫌だ」
「しかし、村澤様。もう一つのテーブルはこの間経年劣化で処分したはずでは?」
「あ」
忘れてた。テーブルの脚が歪んで何をおいても滑り落ちていってしまう事にイラついて捨てたんだった。
「……もう一個あるとかないよな?」
「貴方が把握していないのであればありませんね」
グッバイ、安らぎの時間。アンウェルコム、地獄の時間。えっ、俺には安らぎすらないという事か?
「では、仕方がありませんが覚悟の方を決めていただいて。まさか、自分だけ違う時間で食べるなんておっしゃりませんよね?」
「……」
言いたいことを先に言われた。言外にそんなことは許さないと言われているが、飯の時間は俺にとって至福の時間。唯一無二の時間だ。何物にも代えられない。
「けどさ……」
「二度目はありません」
「……はい」
食事前だというのに痛んできた胃を冷蔵庫で冷やされていた麦茶で落ち着かせる。なわけ、落ち着くわけが無い。むしろ、痛みが増してきた気がする。
だが、おばばを怒らせるのは嫌だ。何時間拘束されるか分かったもんじゃない。今日だけは今だけは何とか我慢しよう。
仕方なしに正座で金城の隣に座る。堀はまだ信用できていない。それならまだ、ある程度日数を一緒にと言うのも変だが過ごしている金城の方がまだ若干だが信頼できる。
さらに到来する胃痛、鳥肌。本当に食事前の状態か? これが?
「では、いただきます」
「「「いただきます」」」
こうして安らぎとは完全に程遠い、地獄の時間が幕を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます