第43話 帰宅?

 ほんの微睡から目を覚ますと隣にいるナベが何故か涙目で堀のことを睨んでいた。俺が少し寝ている間に何があったんだと思うが、男が涙目なのだ。ストレートに聞くことは憚られる。かといってナベが涙目なのは流石に見過ごすことが出来ない為、分かり切っている元凶に目を向ける。


「なんですの?」


 それはもう上機嫌といった様子で堀はニコニコと俺に微笑み返してきた。俺に見られて気まずい様子を見せないという事は言えないようなことをしたという事ではないんだろうが、それにしても笑顔が過ぎる。まるで溜まっていた鬱憤を晴らせたような笑顔だ。


「……いや、何でも」


 聞きたいことはあるが、聞くに聞けないこの状態ではその聞きたいことも胸に留めるしかない。幸いと言っても良いのか分からないが、車は既に停止しており目の前には数えるのも億劫なくらいに見た光景がある。さっさと家に入ってしまおう。


 そこまでない荷物を持って車から降りる。堀も同時に降りてくるのを見てまた気分が重くなってくるが、この逡巡も今更だ。周囲にドアが閉まる音が響いたのを聞いて、運転席近くの窓まで近づいていく。その様子を見てかナベは窓を開けてくれた。


「ありがとう。助かったよ」

「あい。何かあったら連絡してください」


 恐らくはいと言ったのだろうが、鼻声のせいであいにしか聞こえなかった。本当に何があったんだ……。


「ありがとうございます。渡辺さん。それと

「……言ってろ。お前は約束を忘れるなよ」

「ええ。ですが、やはりあのセリフは村澤さんに言うべきだと思ってますけど」

「その時は世界が滅ぶ時だから言うべきじゃなくて言わない方が良いの方が正しいな」

「そうですの……」

「一体何の話をしてるんだお前ら?」

「「特に何も」」

「嘘つけ」


 ナベと堀は心底嫌そうな顔で言葉を同調させた。そのままナベは堀を軽く睨みつけながら窓を閉じていった。なんだかその様子が犬が遠吠えをしている風に見える。何故急に脳裏に犬が思い浮かんだ理由は分からないが何故かそのように見えた。


 そうして、ナベは車を滑らかに発進させあっという間に視界から消えてしまった。……バレてないよな……


 我が家の窓には暖かい光が漏れている。ということはもう一人の居候はもう帰ってきているという事だ。さて、どう説明しようか。


 特にやましい理由は無いため、そのままを説明すればいいだけだ。けれど、それでも経緯が経緯だ。助けたと思ったら実は女で、その流れで居候させることになった。簡単に内容をまとめるとこうなるが、これだけで納得するとは思えない。俺もこんな説明をされたらちょっと待てと言いたくなる。だから、面倒臭い。一から事細かく説明しなければ納得はされないのだから。


「怠いなぁ」

「まだ体調がすぐれませんの?」

「ああ、最近も優れてなかったけど、残り一週間は良くならないことが確定したからな」

「あら、お大事に」

「他人事みたいに言いやがって……!」


 のほほんとした様子で堀は俺の家をただ見つめている。俺の家は特に変ではないと思うが、こうも見続けられると何処か変なのかと思ってしまうのは仕方ないだろう。



「……俺の家が嫌なら違う場所を紹介するぞ。俺としてはそっちの方がありがたい。いや、むしろそうしてくれるとお互い得するんだが?」

「いえ、この家に。此処に居候させてもらいますわ」

「じゃあ何でずっと見てる? 不満なんだろ?」

「それは違いますわ。この家はその……暖かい雰囲気を感じられる。その雰囲気にきっと間違いはないですし、それに触れてみたい。見ていた理由はそれだけですわ」


 きっと。この言葉だけで分かる。堀の家庭はロクデモナイ。堀が初めてこの暖かさに触れるのであるならばなおさらだ。家から暖かさを感じることは誰もが当たり前で、それがきっと普通の事だ。それを初めて感じるという言葉だけで、察することが出来る。


「あっそ。ほら、とりあえず入るぞ。家が目の前にあるのにここで談笑するのは馬鹿らしい」


 俺の予想通りドアは抵抗することなくすんなりと俺たちをに道を譲ってくれた。そして、これだけは絶対に忘れない挨拶をする。


「ただいま」


 この挨拶だけは一人で住んでいた時も欠かさずにしていた。これだけはどうしても欠かせない。いや、欠かしてはいけない。この言葉は無くしてはいけないものだから。


「お前も言え。これから一週間居候するなら、この挨拶だけは絶対にしろ」

「……私がその言葉を言っても良いですの?」

「何言ってんだ? 誰にでも言う資格はある。それとも言えないのか?」


 何故か堀はただいまというこの四文字にひどい遠慮を見せた。言うのは簡単。けれど、本当に自分が言って良いのかという迷いと言いたい、言ってみたいという願望が混ざり合った表情を浮かべている。


 その表情が過去の誰かと重なって思い出す。それと同時に自分でも嫌と言うほど思い返した言葉も。


「ただいま。この四文字をまずは口にしてみろ。それが暖かさへの一歩だ。立ち止まってるだけじゃ手に入らないものがある。たった一歩進むだけで手に入るんだ。立ち止まるよりは簡単だぞ」

「た……」


 何も言わない。これは他人が手助けをするべきじゃない。自らで掴まなければ意味が無い。自ら掴まなければそれは進んだのではなく、他人に寄り掛かっただけだ。だから、自分自身で掴まなければならない。


 堀は右手で自分の喉を抑えながら、目を少しだけ細くする。潤んでいるように見えるのはきっと気のせいだ。そのはず。


 数秒自己に没頭したと思うと、堀は右手を使って突然自分の喉を締めた。それに驚いた俺を余所に堀は右手に軽く力を入れ、言葉を紡ぐ。


「た……だいま。ただいま」


 返答はすぐに。


「お帰り」


 初対面。それなのに、お帰り。誰がどう見ても矛盾している。だが、それがどうした。そんな些細な矛盾は暖かさの前ではすぐに崩壊する。気にする必要なんてどこにも無い。前へ進めれば良いんだ。

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