第10話  前へ

「あんたは春樹と違って出来損ないのただの人形。落ちこぼれ。商品価値のないゴミ。そんな人間がまだ生きてるなんてね。早く焼却処分でもされたら?手筈なら整えてあげるけど?」

「いらない。死ぬときは私自身の意志で死ぬ。あなたの手は借りない」

「そう?残念。面白そうだったのに」


 この人は変わらない。自分の快、不快で動いて気に入らなければ誰かに当たる。原因が分かる子どもの方がまだマシだ。なまじ金を持ってるからより質が悪い。


「あんたが何しに来たのかは分からないけど、私には迷惑かけないでね。もしそんなことが起こったらね…」


 言う必要はないとそこから先は何も言わなかった。私も何をされるのかは大体想像はつく。昔からされていることだ。


「……」

「分かってるなら良い。それじゃあね」


 ハイヒールを高々と周囲に響かせながら母親はどこかへと向かっていった。今日はまだ比較的機嫌が良かった日だったみたいだ。まだ話が通じる日で良かった。


「これでマシだと思えてしまう私も変ね…」


 話が通じない日だったらいきなり暴力から始まる。ただの蹴りならまだマ良い。酷いときはハイヒールの踵で殴られたり、服を破かれたりする。それと比べれば今日はマシな方だ。


 急にどっと疲れが来た。あの人と会うのは精神的に負担をかけていたみたいだ。肉体は全く疲れていないのに、精神はもうズタボロだ。あの人と会うといつもこうだ。母親と会って精神的に落ち着いたことなんて一度もない。


 枯れきった精神を持ち直すために軽く頬を叩く。こんなところで疲れている場合じゃない。ここからが本番だ。まだあいつらが来る気配はない。でもそろそろ来てもおかしくはない。心を切り替えないと。


 家の周辺にあるベンチに座ってあいつらを待ち続ける。母親に会ったのは最悪だが、出かけたのならしばらくは戻っては来ないだろう。その点で言えば、遭遇したのは最悪だったがもう気にしなくても良いのは良いことだ。


 温かい風を体で感じていると家の周囲をグルグルと回っている黒いセダンが頻繁に目に入ってきた。黒いセダンを乗り回している知り合いに覚えはない。それにスピードをあまり出さずにじっくりと対象を探しているような運転の仕方だ。スモークガラスで誰が乗っているかは見えない。けれど、恐らく奴らで間違いない。


「ようやく来た」


 あいつらから逃げ回っていたのに、来るのが待ち遠しかったなんてすごい心境の変化だ。人生何がどう転ぶか分からないものだ。


 人生は予想通りには進まない。分かっていたつもりだったけど、まだまだ分かっていなかったみたい。まだまだ知らないことだらけだ。


 あいつらは私の家の近くの道路沿いに車を止めた。そこで誰かが家に入るのを待つためだろう。このまま私が待ち続けているのも馬鹿らしい。私から行こう。


 黒いセダンまで近づく。こんなに間近でセダンを見たのは初めてだ。ただ黒を塗ったような色ではなく、黒が紫や濃い青が混ざっている色だ。妖しく光を飲み込んでいるようだった。


 無遠慮に車の窓を軽い力でノックする。軽い音が出るかと思ったが意外と鈍い音が響き、ノックした右手にもその重さが広がった。


「もしもし?」

「あ?誰だ…お前!!」


 良かった。人間違いじゃない。こんな暑い日なのに全身黒ずくめのスーツで身を固めている。運転手も私を追いかけていた年長者の方だ。話が通じそうだ。


「探してた?」

「…ああ。だが一体どういう訳だ?」

「?」

「俺たちから散々逃げてきたお前が急に俺たちの前に現れたんだ。聞きたくもなる」

「そういう事か。うーん…」

「誰かに強制でもされたか?」

「それは違う。誰かが決めたことじゃない。これは私の意志」

「そうか…それで覚悟はもう決まってるのか?」

「どう思う?」

「聞いた俺が失礼だな。乗れ。後ろの方は空いてる」

「わかった。よろしくね」

「よろしくも何もないけどな」


 後方のドアを開けて車内に入る。車内には革張りのシートが張られており、座ろうと手を突いた時に柔らかな感触が手を包む。高そうというか間違いなく高価なものだ。今まで触ってきた物とはまるで違う。


「すごいなぁ…」


 初めての感触にただ呆気に取られていると車はゆっくりと動き始めた。これからどこへ向かうのかは分からない。もう車は進み始めた。後は流れるままに。徐々に加速していく景色を眺めながら褌をいや、言葉が悪いね。心を締めなおした。

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