Ⅵ
どこか寂しげなさざ波の音が遠いようでどこか近く感じる。ちゃぷちゃぷと、歩くたび水が跳ねた。
長く長い、まるで巨大な山を蛇行するように坂を下れば大半が水に浸かった町に出た。
「人間が偉いだなんて思いたくない。あのコが劣ってるなんてゴミだなんて、そんなの酷いよ」
ぽろぽろと透明な涙を流しケラシーは言った。
「お前を殺そうとした奴でも、酷い、と思うのか?」
「みんな必死に生きているのに。どうしてこんな世界になっちゃったんだろうね」
空はいつも分厚い雲に覆われている。
俺たちはかつての世界を地球を知らない。本――VRデータベースの中にある樹というものが生い茂り、花というものが咲き乱れる、生命の星地球というものなど夢だと思っている。
幾つかの町を見て回ったがそのどれもが滅び朽ちていた。
「きれいだね」
足元に溜まる濁った毒々しい虹色の水を見て言った。決して綺麗だとは思わない。ケラシーの方が断然綺麗だ。
まるで様々な感情が無作為に垂れ流されたように、溶け合い混ざり合うことなく不気味にゆらゆらと流れている。何かの油か溶剤か。垂れ流されて良いものではないだろう。
海と町の様子、匂いや工場の外観から恐らくこの町は石油工業で栄えたのだろう。
そんなことを思いながら進んでいくと開けた場所に出た。
「これが海?」
ケラシーが言う。
どこまでもどこまでも行く手を阻むものがない。砂浜と思われるところには相変わらず瓦礫やらなんやらが転がっていたが、どうでもいい。
寄せては返す波の音。砂浜のしゃくしゃくとした独特の感触。風と共に流れる潮と油のにおい。波打ち際まで近づき海を感じる。黒いようでどこか赤く見える。青とは到底言えないが、それでも美しいと思った。
「海は広いな大きいな♪」
途中に寄った町で見つけたつばの広い白い帽子を被り彼女は歌う。そのまま波打ち際を歩いた。俺たちの間に言葉はなかった。聞こえるのはただ波の音だけ。
ここが何処なのか、今が何時なのか。まるでわからない。だが、それでいいと思った。
静かで温かいこの時間が堪らなく愛しかった。今は、今だけは。この時間がずっと続けばいいのに。
柄にもなくそんなことを思った。これも海のせいだろうか。
「夢見の草って何なんだろ。ベリスさんが言うんだから本当にあるんだろうけど」
「信用するに値するか?あの男が」
一向に手がかりのないそれ。ふふ、とケラシーは微笑った。
「でも、本当にあるんなら見てみたいな。だって、夢見の草って名前だよっ。きっととってもきれいなんだよ」
あと少しで燃え尽きるその命。死、というものを恐れていないのか、実感がないだけなのかは知らないが、泣いているよりは余程いい。
「……早く見つかるといいな」
そんなものが実在するのならば、な。
大岩でふさがった行き止まりについた。
「海はどこまでも続くのに、わたしたちは進めないんだね。どこまでも進んでいけたらいいのに」
岩にもたれかかり一息つく。視界の端に古びた看板を見つけた。
【アクアミュージアム入り口】
「水族館だ」
「行ってみよう、アスター。なんだか楽しいことが起きそうな気がするんだよ」
大岩の裏側が水族館への入り口となっていた。ごつごつとした岩の階段を降りる。ひんやりとした空気が肌を伝う。
館内は電気は一切付いていない。だが足元、互いの顔は見ることができる。薄暗い。明るくはあるが暗くもない。
ねぇ、ケラシーは俺の袖を引っ張った。
「手、繋いでくれる?」
「え?」
上目遣いに彼女は言う。迷子になりそうで、彼女は消え入りそうな声で付け足す。
いつも明るい彼女の意外な一面。俺しか知らない彼女。
「……ぁ」
「離すなよ。いなくなると困るのは」
俺なんだよ。
「ありがとう」
手を取り進む。顔を盗み見れば髪に隠れた頬が薄っすらと染まっていた。
悪い気はしなかった。
「わぁ!」
巨大な水槽の前で足を止めた。見上げるほどの硝子の箱の中に様々な魚が泳いでいた。悠々と。何者にも縛られることなく泳ぐ魚たち。
思わずケラシーの手を握りしめた。
「泣いてるの?」
「……泣いてない」
瞳から生暖かい雫が頬を伝う。目頭が熱く、喉が痛い。
「命って何なんだろうね。わたしもアスターもこの子たちも、あのクマも。みんな生きてる。命に優劣なんてないのに」
言葉を区切り彼女は俺を優しく抱きしめた。溢れるこの身をよく知る雫は止まらない。
ただ感動していた。胸が苦しく息が辛い。
目の前にあるのはただの水槽だ。魚の入った、それだけのものだというのに。
「わたしたちの都合で壊していいものなんかじゃないんだよ」
「俺たちは間違えた」
今なら、星つつむ町のあの手紙の意味がわかる。
雄大な水槽の前で。俺たちはなんとちっぽけな存在なのだろうか。
「ソコニイルノハダレデスカ」
するとロボットの声が聞こえた。
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