第2部 まずはお友達から編
第7話 変わらない朝
五月の下旬にもさしかかろうという日の朝。
湿った空気を
欠伸をこぼしつつ身体を起こすと、さらさらと雨の降る音が耳に入ってくる。
「おはよーさっちゃん」
「おはよう……」
寝ぼけた目をこすりながら起き上がると、部屋を出たところで声をかけられた。聞きなれたその声に、颯希も反射的に挨拶を返す。
「パン焼いといたから、一緒に食べよ」
「ん、ちょっと待ってて」
台所からひょっこりと顔を出すその人は、ボサついた髪を跳ねさせており、どこか眠たげな目をしていた。
「あれ、お姉ちゃん。バター無いんだけど」
「あーごめん! あっちの端の方に置いちゃったかも!」
颯希は洗面所に寄って軽く顔を洗うと、朝食を取るために彼女──すなわち姉の待つリビングへと向かう。
その途中、バター探しに手間取りつつも、順当に食事の席へとたどり着き、
「いただきます」
「いただきまーす」
いつもと同じように、二人で食前の挨拶を口にした。
両親はどうしたのかいうと、二人仲良く単身赴任先で生活している。母の方はもともと家にいたが、姉が成人したのを機に、前々から行きたがっていた父のもとへと向かったのである。
そういうこともあって、今は二人しかいない家の中。適当に点けたニュース番組を眺めながら、しばらく黙々と食事を続け、
「あ、そうだ」
ふと、思い出したように姉が呟く。
「そういえばさっちゃんの学校、有名人いるんだってね」
「え?」
突然なんのことか、と視線で問いかけてみれば、
「ほら、昔アイドルやってた……名前なんだっけ。まあ、結構有名だったその人の娘さんがいるって友達が言っててさ」
「へー」
なんとも曖昧な答えが返ってきた。ほとんど情報が無いその言葉からでは、見当がつくはずもない。
「それ、有名人って言うの?」
「……確かに」
しかも、有名なのは親の方ときた。なおさら怪しい話に、颯希は苦笑いしながら疑問を投げかける。
「あ、そうだ! 学校の名前!」
が、ここで何かを思い出したらしい。
「学校?」
「そうそう、
「ふーん?」
あまり期待せずに聞いていた颯希は、
「で、今の理事長先生の奥さん? がそのアイドルで、今ちょうど娘さんが学校に通ってるとかなんとか」
「あー、それは……ん?」
解説が進むうち、とある事実に気がつく。言うまでもなく、当の人物に心当たりがあったからだ。
「? どうかしたの?」
「あ、いや、なんでもないっ」
顔に出てしまったのだろう。怪訝そうな顔をする姉に、颯希はなんとなく誤魔化してしまう。
特段、隠すようなことでも無かったが、つい先日のこともあって口にするのが躊躇われたのだ。
──氷銫さん、母親の方も凄いのか……。
つい頭の中に思い浮かべてしまうのは、思春期の
「それより、やけに詳しいねその友達」
「うん、妹が通ってるみたい。ちなみに、さっちゃんと同じ学年らしいよ」
「へえ、偶然もあるもんだね」
とはいえ、その情報で何かが変わる訳でもない。変に詮索されないよう、颯希は先んじて話題を切り替えた。
「ちなみにカナエちゃんって言うらしいんだけど、知らない?」
「うちのクラスにはいなかったと思うけど……苗字は?」
「サワヤだよ」
「うーん、やっぱり知らないな」
「そっかー」
どうやら友人の妹が通っているらしいが、名前を聞いても思い当たる人物はいない。そもそも、クラスの女子すら覚え切れていないので当然といえば当然だった。
「まあ、もし会ったら教えてね」
「会えたらね」
話の終わりにそう頼まれ、颯希は適当に相槌を返す。残念ながら、生息域の狭い颯希が顔も分からない女子と接点を持つことはまず無い。
姉も、自分の弟が
「それじゃあ、私はそろそろ行くね」
「ん、分かった」
その後、少し雑談を交わし、姉が先に席を立つ。位置的に彼女の通う大学の方が距離があるためだ。
「じゃあいってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
いつものように玄関まで見送りに向かった颯希は、手を軽く振りながら扉を閉めていく。念のため、鍵を閉めてから自室に戻ると、自身も登校の準備を始めた。
──それにしても、アイドルの娘かー。
着替えの最中、暇になった頭で先ほどの話題について考える。
元々、遠い存在だと感じていた少女だが、想像よりもさらに上位の存在だったらしい。しかも、そんな彼女がファンとして推しているのが、実況者としての颯希だというのだから、奇妙なこともあるものである。
もしかすると、そんな凄い女の子と仲良くなれるかもしれない、という期待が一瞬生まれるも、すぐに首を振る。
──なんか、そういうのは違うよな。
確かに、彼女は魅力的な女子で、付き合えるものなら付き合ってみたいと思わなくもない。だが、それは所詮、下心から生まれた
彼女自身のことを特別好きだとか、一生を懸けて守りたいだとか、そういった
変な期待を寄せるのは、彼女に対して失礼というものであろう。
「……そろそろ行くか」
何にせよ、現実の颯希にとっては高嶺の花であることに変わりない。着替えを終え、鞄を肩にかけた颯希は、くだらない思考を振り払って玄関へ向かうと、
「いってきます──」
傘を手に取りながら誰にでもなく挨拶を呟き、自宅を後にするのだった。
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