第6話 それぞれの夜
その日の夜。夕食を食べ終え、自室でゲーミングチェアにもたれかかった颯希は、ぼうっと虚空を見つめながら物思いに耽っていた。
「はぁ……」
ついため息がこぼれるが、それもそのはず。
──氷銫さんがコウヅキの……俺のファン、か。
数時間前にあれだけのことがあったのだ。精神的な疲労が溜まっているのも当然のことだろう。
ただ、嫌な出来事だったのかと問われれば、それもまた違った。頭が痛くなる程度にキャパを超えた事件であったのは確かだが、同時、胸の奥に込み上げてくるものもあったのだ。
「ヤバい、な」
思わずこぼれたのは、そんな心情を端的に表す言葉で、
「これは、ヤバいっ……」
次第に抑えきれなくなった衝動が、口もとをだらしなく緩ませていった。
──いや、だってあの氷銫さんがだぞ!?
原因は明白。学園のアイドルと言っても過言ではない美少女が、自身に少なからぬ好意を抱いているところにあった。
もちろん、彼女が見ているのは仮初の姿の方だったが、かといって全くの別人というわけでもないのだ。
これを喜ばずして、何を喜べというのか。当時は驚きの感情が勝ったせいで他人事のようにさえ感じていたが、冷静になってみれば嬉しくないわけが無かった。
「ヤバい、ヤバい……」
結果、あの後からずっとそわそわが止まらずにいる颯希は、うわ言のようにそう呟くだけのマシーンと化していた。
──だ、ダメだ、いったん落ち着かないと。
とはいえ、このままでは
そう切り替えた颯希は幾度かの深呼吸を繰り返した後、多少の冷静さを取り戻す。確かに、彼女とは色々あったが、かと言って関係が変わるようなことも無いと気がついたのだ。
彼女には彼女の人間関係があり、颯希はその中にいない。故に、今後の三年間、一度も会話が起きなくともおかしく無いのが現実なのである。
──それに、氷銫さんが好きなのはあくまでコウヅキだし。
加えて、颯希自身とコウヅキに
例えこれを機に近づいたところで、いずれ正体を明かさねばいけない時がくるかもしれない。そうなれば、理想とのギャップで失望されることも想像に難くないだろう。
──結局、俺にできるのは秘密を墓場まで持っていくことだけか。
思春期故の期待は、現実を前に少しづつ冷めていく。はしゃいでいた自分が恥ずかしくなってくるような感覚に、再びため息がこぼれそうになるが、
──いや、そうでもない、か。
ここで、颯希は思い出す。水野颯希はしがない男子高校生であると同時、誰かが求めているゲーム実況者でもあるのだということを。
氷銫さんもその一人であり、今もまたコウヅキの配信を待ち望んでいるかもしれないのだ。
それを思えば現実がなんだというのか。本来、あんな可愛い女の子がファンというだけでも、死ぬほどお釣りがくる出来事であろう。
「……よーし、配信やるか!!」
画面の向こうにいる彼女を楽しませる──それもまた一興だと気合いを入れ直した颯希は、手馴れた動作で配信の準備を進めると、いつも以上のテンションで意気込むのだった。
一方その頃。
「──はぁ……」
別の場所では、颯希とはまた違ったニュアンスでため息をこぼす少女がいた。
「どうしよう」
整理整頓が成され、スッキリとした雰囲気の一室。ベッドの上に横たわる彼女──氷銫深恋は、難しげな顔をして唸った。
「ああ言ってはくれたけど……」
不安からか、誰にでもなく呟かれた言葉は腕に抱えた枕の中へと吸い込まれていき、
「はぁ……」
もう何度目かも分からない嘆息が虚空に消える。
傍から見て、いかにも悩んでいますという様子の彼女だが、保健室での一件が後を引いているのは明らかだった。
「あ──」
と、そうして彼女が答えの出ない自問をしていた時、横に投げ置かれていたスマートフォンが鳴動する。
「──お父さんだ」
反射的に画面を確認した彼女は、途端にその表情を和らげ始めた。
「もしもし?」
『──ああ、すまないなこんな時間に』
「別に気にしなくていいよ。ちょうど暇だったし」
『そうか、なら良いんだが』
先ほどまでの悩みぶりはどこへやら。何事も無かったかのように、声の調子が明るくなっていく。
「それで、どうかしたの?」
『いや、大したことじゃないんだ。しばらく会っていないから、声を聞きたくなってね』
「あー、うん。そういえば、お父さんが海外行ってからもう一ヶ月くらい経つもんね」
その光景はといえば、正しく親子水入らずといったところか。普段、学校では大人びた姿勢を見せる彼女も、父の前では相応のあどけなさが出ていた。
『そっちはどうだ?』
「うーん、別に何も変わってないよ。お母さんは相変わらずだし、お兄ちゃんも……たぶん元気?」
『そうか──』
それからしばらく、電話越しに他愛もない会話が続いていくが、
『──ところで、学校の方は大丈夫か?』
「え」
やがて、話題が学校でのことに切り変わり、彼女の顔が自然と
『……? 何かあったのか?』
「あ、ううん! 大丈夫、なんでもない!」
そんな違和感に目ざとく気がつくのは、流石父親というべか。まさか、今日のことを素直に話すわけにも行かない彼女は、慌てて平静を取り繕う。
『……そうか、深恋もそういう年頃か』
「え」
『少し寂しいが、父さんには話しづらいことなんだろ? 無理に聴いたりはしない。ただ、一人で抱え込むのは良くないから、誰か信頼できる人に相談すること、いいか?』
「うっ……」
しかし、今回は相手が悪かった。
彼は娘のことをよく理解しているのだろう。慮るような優しい声色に、彼女の表情が苦いものに変わっていく。
「わ、分かったってば……」
結果、渋々といった様子で唇を尖らせると、
『……いいのか?』
「全部はちょっと、言えないけど。私も誰かに相談したかったし……」
機械越しに聞こえてくる不安そうな声に、仕方ないとばかりの声色で了承していた。
『そうか、ありがとう深恋』
「もう、別にお礼とかそういうのじゃないでしょ」
すると、どちらともなく、くすりと笑い声がこぼれる。その光景は、二人の仲がとても良好であることを如実に表していた。
『それで、何があったんだ?』
「ああ、えっと……」
父の質問に、彼女は少しの間を空け、
「……クラスの子に、隠してたことがバレちゃった……みたいな?」
できるだけ詳細をぼかしながら、今抱える悩みを打ち明けた。
『隠してたこと、か』
「うん。それで、その子は誰にも言わないって言ってくれたんだけど……」
『本当に大丈夫なのか、心配なんだな』
「うん……仲が良い子ってわけでも無いから、どうしようって、思ってて」
よほど父のことを信頼しているのか、彼女の口は素直に事情を語っていく。自然、その声色も、少しづつほぐれていた。
『……ちなみに、隠し事というのは父さんにも話しにくいことか?』
「それは、その……」
『ああ、いや、無理はしなくていい。ちょっと興味があっただけだ』
ただ、流石に次の質問には口ごもってしまうようだった。彼女からすれば、正に思春期ゆえの秘密なのだから、当然といえば当然だろう。
「ううん、お父さんのこと信じてるし、大丈夫」
『深恋……』
だが、それさえも、親子の絆の前では些細なことだったらしい。彼女は何度か深呼吸をすると、覚悟を決めるように唾を呑んだ。
「まあ、それでその、秘密なんだけど……なんていうか、ええっと……」
そして、未だに残る不安感からか、意味の無い言葉で時間を稼ぐと、
「あ、憧れの人っ……というかっ、そういう感じの……? みたいなっ──」
明らかに恥じらいの混ざった口調で自身の秘密を吐露し、
『ゴッ……ッ……!!』
「──!?」
直後、スマートフォンから鈍い騒音が鳴り響き、思わず耳を離すこととなった。
「だ、大丈夫?」
『……あ、ああ、気にしないでいいっ』
向こう側で一体何があったのか。彼女は確認を取ろうとするも、逆にはぐらかされてしまう。
『そい……その人は男……だったりするのか……?』
「えっ」
が、少なくとも相当な事件が起きたことは間違いないらしい。尋ねてくる彼の声は震えており、有無を言わさぬ迫力がこもっていた。
「……い、一応……そうだけど……?」
父親の異変に、しかしその原因が分からない彼女は、とりあえずで肯定の返事を返すしかない。
『……そうか、そうか…………』
すると、電話の向こうから、暫し悩ましげな声が聞こえてくる。
「お父さん?」
『……ああ、すまない深恋。少し取り乱した』
しかし、娘の心配する声に我に返ったのか。
『それで、どうすればいいのか、だったな』
「えっと、うん」
咳払いを一つ挟むと、再び真剣な声色に戻っていた。
『父さんも自信があるわけじゃないが、やはりその子と仲良くなるしかないだろうな』
「仲良く……」
『ああ、敵を知り己を知れば、というやつだな。人は分からないことがあると不安になる。だから、まずはその子と友達になってみるといい。それで駄目なら、また相談する……ひとまず、こんなところでどうだ?』
娘のことを思うその言葉には確かな熱がこもっており、人生の先達者としての優しさで溢れている。
彼女はその一つ一つをしっかりと聞き入れ、少しづつ表情に余裕を取り戻していった。
「うん、分かった。ちょっと、頑張ってみる」
『そうか、役に立てたなら良かったよ』
「ありがとうお父さん。おかげでぐっすり寝れそう」
『ああ。それじゃあ、もう夜も遅い。暖かくして寝るんだぞ?』
「うん、おやすみ」
『おやすみ、深恋』
互いに満足したことで、会話も終わりへと差しかかる。父もいつも通りに戻り、すっかり安心した彼女は通話を切ろうとし、
『でも、そうか……深恋も…………か…………はぁ…………』
しかし、通話を切る直前、ぶつぶつと疲れたような声が入り込んでしまっていた。
「……大丈夫かな」
いまいち不調の理由が分からない様子の彼女は一瞬心配そうな顔をするも、すぐに首を振る。
そこには、父親への信頼感のようなものが見え隠れしていた。
「仲良くなる、か」
彼女は気持ちを切り替えるように、ぼそりとつぶやく。頭の中に思い浮かべているのは、おそらくあの少年の姿だろう。
「……そういえば、水野くん」
が、父と話して緊張の糸が切れたのか。急にまぶたが重くなり始めた彼女は、
「結構、いい声……してたな……」
やがて、完全に目を閉じたままそんな感想を漏らすと、静かに寝息を立て始めるのだった──。
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