第4話 何も起きないはずがなく……
普段と違い静寂に包まれた廊下の上。コツコツと、二人分の足音だけが響き渡る。
「それ、大丈夫? 結構酷いけど」
「え、ああっ、うん! 意外と、そんなにはっ……」
横から問われた颯希は、緊張からぎこちない返事を返した。
「ふーん?」
「は、ははっ……」
が、それも当然のこと。何せ、すぐ横を歩いているのは、あの学園のアイドル的存在──しかも、銀髪姿にパワーアップした氷銫深恋なのだ。
ただでさえコミュ障の颯希が、冷静でいられるわけもなかった。
──しかも、めちゃくちゃ目立ったし……!!
加えて、あの状況で氷銫さんを呼ばれたせいで、全男子の注目の的になる追い打ちつきである。
体育館を出る時に四方から向けられた嫉妬の眼差しを思うと、今頃何を言われているか分かったものでは無かった。
──お、落ち着け……ただ、保健室まで付き添ってくれるだけだ。
ただ、これ以上の動揺はさらなる恥を生む可能性が高まるだけ。なんら特別なことでは無いと、颯希は自分に言い聞かせた。
「失礼します」
そうこう悩んでいるうち、二人は何事もなく保健室にたどり着く。少し前を歩いていた氷銫さんが扉をノックし、声をかけながら開いた。
「あれ……先生いないみたい」
が、どうやら中には誰もいなかったらしい。颯希も続いて室内へと入っていくが、確かに人影は見当たらなかった。
「と、とりあえず、待ってようかな。ありがとう氷銫さん、先に戻ってていいよっ」
とはいえ、そう長くは席を外さないだろう。
早々に彼女とお別れしたかった颯希は、親切心を前面に出しつつ、ご退室を願った。
「…………」
が、ここに来て何を思ったのか。彼女はジッと見つめてきた後、怪我をした右膝へと視線を移す。そして、無言で歩き出すと、医薬品などが入っているであろう戸棚を漁り始めてしまった。
「あの、氷銫さん……?」
「消毒くらいはしといた方がいいかなって」
まさかと思い確認してみるが、やはりそのまさかだったようである。勘弁してほしくはあったが、彼女の良心を無下にするのも気が咎めた。
「これ……かな?」
「た、たぶん?」
少しして、それっぽい容器を取り出した彼女に颯希も曖昧な頷きを返す。
「自分で言い出してあれだけど、こういうのあんまやったことないから、間違ってたらごめん」
「あはは……たぶん、大丈夫だと思うけど……」
どうやら、本当に思いつきの行動だったらしい。
それぞれが椅子に座った後。ガーゼに消毒液を染み込ませ、それをピンセットで掴んだ彼女の表情は少し固くなっていた。
「それじゃ、いくね?」
「ど、どうぞ」
彼女が慣れていないことを思うと少し不安になるが、見た感じそこまで間違ったこともしていないはず。
ここは男の見せどころだと、歯を食いしばり颯希は痛みに備えた。
「だ、大丈夫?」
「うん、全然。ちょっと、ピリッとするくらい」
「そっか、なら良かった」
それが功を奏したのか。無事リアクションを抑えられたことで、氷銫さんに無駄な心配をかけさせずに済んだようである。
「じゃあ、もうちょっとだけ我慢して」
「わ、分かった」
おかげで彼女の緊張も取れ、そこからは淀みなく作業が進んでいった。
──うっ……というか、この状況……。
すると、今度は颯希の方に問題が発生し始める。
何せ、窓から夕陽が差し込む中、二人きりの状況で甲斐甲斐しく世話を焼いて貰っているのだ。これで、何も思わない方がおかしいというものだろう。
──こ、これはやばいっ……。
チラリと視線を下にやれば、傷口の消毒に集中する氷銫さんの姿が映る。
少し袖の余ったジャージに、寒さよりオシャレと言わんばかりの短パン。そこから伸びる白い脚は、思わず目を奪われるほどに眩しい。
加えて、髪は運動の邪魔にならないよう一本に束ねられており、距離が近いこともあって綺麗なうなじがはっきりと見えてしまう。
ただでさえ女子に耐性の無い颯希が、この状況を平常心で凌げるわけも無かった。
「──ん、こんな感じかな」
「え」
幸運だったのは、そこまで時間のかかる作業ではな無かったことか。
気がつけば膝には大きめの絆創膏が貼られており、痛みも和らいでいた。
「あ、ありがとう、氷銫さん」
彼女の一言で夢から覚めた颯希は、内に湧いた下心を見透かされていないか心配になりながら、もう一度感謝を告げる。
「ん、どういたしまして」
対し、彼女はなんてことないように頷きを返してきた。これが強者の余裕かと、颯希は己の小者さ加減にがっくりと肩を落とす。
「…………」
兎にも角にも、今度こそお別れだろう。そう考えた颯希だったが、消毒作業を終えたはずの彼女は、不自然にその場で固まっている。
「氷銫さん?」
何か言いたげな様子に颯希が問いかけると、
「……あの、さ」
彼女は改まった様子でおずおずと声をこぼした。
「実は話したいこと、あったんだけど」
そして、視線を逸らしながら、照れくさそうにその銀の髪をいじり始める。突然変わった空気に、颯希は面を食らうしかない。
「は、話したいこと……?」
「あ、えっと、別に大したことじゃなくてっ」
不安になった颯希が神妙に問うと、彼女は少し慌てた様子でそう付け加えてくる。
「ほら金曜日、委員会あったでしょ? 結局ほとんどやってもらっちゃったから、申し訳ないなって思ってて」
言われてすぐ、颯希は思い出した。ちょうど今朝そのことを考えていたので、当然と言えば当然である。
「え、あ、気にしなくていいよ、全然……!」
が、颯希からすれば大したことをしたつもりはもちろん無い。なので、無駄に気を遣わせないよう、すぐに本心を伝える。
「……でもほら、仕事サボってお喋りしてる人、みたいに思わなかった?」
「ええっと、それはっ……」
ただ、彼女的には気になる部分がある様子。実際、颯希にも心当たりがあったため、つい言葉に詰まってしまった。
「……やっぱり」
「ああっ、いや、ほんの少しだけ……はあるかもってくらいだから!」
結果、拗ねたような声を出す美少女を前に、慌てて弁解を試みるはめに。
「それに今はもう、全然、思ってないし……! むしろこうして話してくれて、好印象みたいなっ……」
必死に無実を証明しようとする颯希は、自然と早口になり、
「っ……水野くん、慌てすぎ」
「え?」
直後、くすりという声と、イタズラっぽい笑みが返ってくる。その、夕陽よりも眩しい表情に不意を突かれ、思わず鼓動が跳ねたのはもはや必然だろう。
「まあでも、気持ちは伝わったかな」
「え、あ、ははは……」
ほんの一瞬の出来事に、颯希は掌の上で踊らされている事実に気がつくも、不思議と悪い心地はしなかった。
「とりあえず、この間はありがと。あの後、急ぎの用事あったから凄い助かった」
「そ、そっかっ……それなら頑張った甲斐、あったかな……!」
そうして、改まってお礼を言われた颯希は、今まで感じたことの無い多幸感に満たされる。
「そういえば、水野くんはなんで保険委員選んだの?」
「あ、ええっと……強いて言うなら、楽そうかなって……」
それから他愛も無い話が始まると、ほどよい緊張の中、颯希は自身の頬が緩むのを感じていた。
──な、なんだ……この幸せな時間は……。
しかし、考えてみれば当たり前のこと。
颯希とて思春期真っ盛りの男子であり、女子とのお喋りが楽しくないわけが無かった。
「へぇ、水野くんもそうなんだ、意外」
「あはは……氷銫さんも、なんだ」
「うん、部活とか仕事とか、他にやること多いから。そういう意味だとハズレ引いたかも」
「ま、まあ確かに、先生の話聞く感じ、結構活動多そうだよねっ」
しかも、相手はあの氷銫深恋である。こうして言葉を聞いているだけでも、より一層の特別感を覚えてしまうもので、
「そ、そういえばなんだけど」
それ故に、この時の颯希は調子に乗っていたのだろう。
「急ぎの用事って、なんだったのっ……?」
ほんの僅か、高嶺の存在に近づけた気がした颯希は、あるかもしれない何かを期待して、自分から会話を広げようとしてしまった。
もちろんそれは、ちょっとした好奇心から生まれた些細な疑問に過ぎなかったが、
「え」
彼女にとってはそうで無かったのだろう。
「あ、ごめん! プライベートな話だったかなっ……」
露骨に表情を固くした彼女を前に、颯希は慌てて取り下げようとする。
「だ、大丈夫。それくらいは、うん」
だが、彼女からすれば断るのも気まずかったに違いない。
「…………えっと」
彼女は難しげな顔で視線を泳がせた後、ボソリと口を開き、
「み、ミューチューブ……」
焦った声色にしては、妙に普通な言葉を呟いてきた。
「え?」
「ミューチューブ、見てた……」
「あ、そ、そうなんだ」
先ほどまでのクールさはどこへやら。何故か動揺した様子の彼女に、颯希はただ曖昧な頷きを返すことしか出来ない。
──急ぎ……ってことは、誰かの配信、見てたってことか?
しかし同時、ここに来て颯希は、ある可能性との結び付きを得てしまう。あの日、あの時、配信を行っていた人物に心当たりがあったのである。
──いや、あれ、本当に……? 流石にそんなこと……あ、でも、実際シルビアと似通ってるわけだしっ……。
結果、今朝から引っかかっていた些細な疑念が、無視できないほどに膨れ上がっていき、
「……あの、氷銫さん」
「な、なに……?」
そこからはもう、胸の内に湧いた好奇心を抑えられるわけもなく、
「もしかしてそれ、ゲーム配信、だったり……?」
聴くだけならタダだろう、と彼女からしたらあまりに突拍子もない問いを投げかけてしまっていた。
もちろん、あの時間に絞ったところで、配信なんてものはいくらでもあったはず。故に、そうでないならそれでいいと、お試し程度の心持ちで放った言葉だったのだが、
「えっ!?」
どうやら、運命の歯車は奇跡的に噛み合ってしまったらしい。
「なんで……そんな、ことっ……」
「あ、いや、その、もしかしたらそうなのかなーって、くらいな感じで……!?」
颯希も、心の底ではそんなわけがないとタカをくくっていたからだろう。あからさまな動揺を見せる彼女を前に、ただただ慌てふためくしかない。
「そ、そうなんだ……あははっ……」
渇いた笑いで相槌を打つ氷銫さんの額には、この距離からでもはっきりと分かるほどに、玉の汗が浮かんでいる。
加えて、声は震え、目の焦点も合っていないその光景からは、言葉にできないヤバい空気が漂っていた。
「あっ、そろそろ授業戻った方がっ──」
これ以上はマズイと、本能で察した颯希は席を立って入口へと誘導しようとするが、
「──っ!!」
不意に、片方の腕を引っ張られる感覚に襲われる。
「…………」
「あの、氷銫さん……?」
振り返れば、そこには俯きながら袖を掴んできている氷銫さんの姿。不安から意図を尋ねるもしばらく返事は無く、
「…………は」
やがて、颯希のそれよりもか細い声で何かが囁かれると、
「話、聴かせてもらえる……?」
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