第7話 私の原点
「――失礼しました」
職員室の中に向けて頭を下げて、引き戸を閉める。
職員室の中で、爽香先生が笑顔で手を振ってくれているのが最後に見えた。
最後まで扉を閉めて一つ息を吐く。
いくら慰めてもらっても、やっぱり「やってしまった感」は簡単には拭い去れない。
二年生の先輩にして、演出。それは演劇部の要みたいな存在。
そんな私が、初回のリハーサルを台無しにしてしまったのだ。
先輩にも、後輩にも、顔向けが出来ない。
「よっ! ちょっとは落ち着いた? 絵里監督」
「監督じゃないし。……演出だし」
職員室の前では、眞姫那が待ってくれていた。
なんだかそれだけで心が軽くなる。
私も、かなり単純な人間だなぁ。
「うーん。さすがに凹んでいると、突っ込みも精彩を欠くなぁ」
「傷心の乙女に、突っ込みの高度さを求めないで」
「ははは。――それで、爽香先生、何か言ってた?」
「ん? うん、まぁ、『気にすることないよ』って。『毎年、こういうことはあるよ』って。『先輩もみんな完璧じゃなかったよ』って」
「あー、だね。さすが爽香先生。優しい」
顧問の伊東爽香先生は演劇については素人だ。
爽香先生の代より前は、高校演劇界隈で有名な先生が顧問で強豪だったらしいけれど、その先生が病死されてから、爽香先生が顧問を担当している。一時期、OBの大学生がコーチみたいな形で入っていたことがあったらしいけれど、今はもう純粋に爽香先生だけが顧問だ。
「演劇素人」の顧問の下、生徒たちの主体的な努力で、強豪で居続ける洛和高校演劇部は他校から見れば特異的な存在なのだと言われる。
でも私はそんな変なことでもないと思う。爽香先生は良い顧問の先生だ。
爽香先生はどんなことがあっても生徒の味方でいてくれる。励ましてくれる。そんな先生だ。
だから先輩たちも私たちも、好きなだけ冒険できるのだ。良い舞台を作るために。
「疲れている時は、やっぱり甘い物ですか? 絵里監督?」
「うーん。パフェは火曜日食べたばっかりだし、今日はやめとく」
「そっか。うん。だよね。――じゃあ、帰ろうか。――エリー姫?」
そう言うと、突然、眞姫那は左膝をついて、右手を私に向かって差し出した。
まるでシェイクスピアの戯曲に出てくる騎士か王子様のように。
私はまるで舞台の上のお姫様みたいに、自分の左手をそっとその手のひらに載せた。
眞姫那は立ち上がると、私の左手を彼女の右手で握りしめた。
そして廊下をまっすぐ歩き出す。下駄箱置き場へと。
彼女と手を繋いで歩くなんて、いつぶりだろう。
洛和高校に入学して、演劇部に入学して、まだ恐る恐るだった時期の頃のことを思い出した。
どうしてだか、わからないけれど。
*
やらかしたのが金曜日だったのがせめてもの救いだった。
土曜日と日曜日は練習も休みだから。
昔はもっと部活も練習日数多かったみたいだけど、過剰な部活動に対する世間の逆風と、コロナ禍での様々な活動抑制が相まって、現在は大会前でも週四日というホワイトっぷりだ。
だけど夏は本当にステージ上が暑いので、暑さで体力が削られてヘロヘロになる。
だから、まぁ週四日の練習というのは、実際のところは妥当だと思う。
それにステージにいなくても、音響のファイル準備とか、照明プランの清書だとか、小道具や衣装の買い出しだとか、練習時間の外側でやらないといけないこともあって、そういう意味でもこのくらいの練習時間は妥当だと思う。
それに休息は、メンタルケアにも大切なのだ。――今の、私みたいに。
遅めの朝ごはんを食べて、スマートフォンでLINEを見てみる。
昨日のことを心配したのか、一年生の女の子が二人、メッセージをくれていた。
寝ている間に届いていただから、通知に気付かなかったみたいだ。
早速、既読をつけると、「大丈夫、元気だよ」と返して「ありがとう」のスタンプを送っておいた。
こういう風に、なんだかんだで、慰められると、ちょっと心が和らぐ感じがする。
私って、本当にわかりやすい人間だなぁ、って思う。
なんとなく本棚から『幕が上がる』の文庫本を取り出す。
有名な劇作家・平田オリザの書いた高校演劇の小説だ。
中学生の時に読んで、すごく好きな作品になった。私が洛和高校の演劇部に入ったのは、この本の影響もあるのかもしれないな、なんて思った。
お気に入りのシーンを開くと、そこからついつい読み始めてしまって、一時間ほど読み耽ってしまった。
もちろん小説の中の高校演劇と、現実の高校演劇は違う。
でもこれを読むと、やっぱり「頑張ろう」と思えてくるのだ。
お昼ごはんにパスタをゆがいて、ミートソースで食べてから、私はノートパソコンを引き出した。
この中には例の動画ファイルが保存してある。
去年の夏、宮藤先輩たち――当時の三年生チームがWEB SOUBUNに投稿した動画ファイルだ。
本当は全国大会の舞台でやるはずだった作品。
私が中学三年生の夏にブロック大会で見て、そこから全国大会へと駆け上がったあの作品。
コロナが無ければ全国大会で上演され、もしかしたら全国大会の優勝作品になったかもしれない宮藤先輩の脚本作品だ。
HDMIケーブルで、リビングの大型液晶テレビにつなぐと、そのお芝居を、私は再生した。
もう何回目になるのかわからないけれど。
そこに私の原点を見出すように。そこに私の目標を見出すように。
見ている途中でお母さんが返ってきて「また、それ見てるの? でも、久しぶりね」と背中から声をかけてきた。私は「うん」とだけ返して、お母さんの方を振り向かなかった。
最後まで見終わった時、なんだか不思議な気がした。
宮藤先輩たちが駆け上がった、ブロック大会から全国大会への道。
今度は自分が演劇部を引っ張って、その舞台に立つのだ。
京都府中部ブロック大会。八月十一日。その日まで、もう二週間を切っているのだ。
再生が終わり、真っ黒になった画面の前。私はソファの上で、三角座り。
じっとその画面を眺めていると、それがまるで暗転した客席から眺める緞帳みたいに思えてきた。
その時、テーブルに置いていたスマートフォンが、LINEメッセージの通知音を鳴らした。
*
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