文化ノート

雑記

往日時光

作家の研究にとって、人々が時折作家の著述と行状に視線を向けるが、これは当然だ。しかし、一人の作家の具体的な生活状態もおろそかにはできない。私たちが見ていたのは大体平面的で、立体感のある人ではない。


"魯迅はカントが純粋理性批判や実践理性批判のなかでこころみたような抽象的自我の確立で、近代資本主義につらなるのではない"

じゃあどうしたのか。

"社会に堆積する習慣と思想に対する闘いを不断に堅強に持久することによって、歴史的に自己を形成していった"


魯迅は階級論者になったが、別にプロレタリア文学が書けるようになったわけではない。

なぜか?革命の渦中にいなかったこと、文芸理論を駆使できなかったことによる。


魯迅が小説を書くことが少なくなり、代わりに"雑文"を書くようになったのは政論を展開することで階級論を創作に当てはめようとした結果のようだ。

魯迅によると、雑文は匕首にたとえられる。雑文は理論的であるが、抽象的ではなくイメージを駆使して具体的な分析を社会に施すもので、

雑文のなかの一部分としてエッセイがある。


・雑文のなかで表現は率直か、婉曲かの種類がある。魯迅の雑文は次第に曲折の感じを帯びるようになった。

魯迅の雑文の表現は、

物語を使う、歴史的な事件・人物を使う、日常生活での事柄・プライベートについて述べながら議論を展開する、比喩を使う、イロニーを使うなどして暗に社会批判をした。これらはすべて検閲から逃れるため。


・散文って


日本ではコラムはあまり進化していないんじゃないか。作家の生存にとってもコラム文化が普及したらいいな。


散文は書いた人の思想を記すだけではなく、その思想を揺るがしていく。

散文を書くことが自分との対話になり考えの整理につながる。

ライティングの価値は自分について討論する経験でもある。

散文はもちろん分散しているところに特徴があって、内容がほどけて緩んでいても、問題はない。読者もそんなに厳密さを求めない。散文は自由だから、自分を説得するために書くもので、無理やり"書くために書く"必要がない。

ライティングの面白さ、魅力を探しつつ書くということに尽きる。

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