批評と文学の本質たる社会性について今更ながら気づいた
いやあ批評の本質がだいたい解ってきましたよ。批評は社会性という要点がなくては成り立たぬ。文学的真理は社会現象となって初めて完結するのである。芸術的真理も社会性を標準としてこれに決定されなければ現れてこない。
別にどこまでも自己に忠実であっても社会性なくして真実を求められるわけないんですね。真実とはこの薄っぺらなペラペラな自己との一致ではないし決して同値ではない。真実をそんな自己のような貧弱なものと扱われては困る。
もちろん、文学において追求される真実は決して社会的現実と切り離されるべきではなく、それを実行すれば宗教まがいの神秘主義の自己欺瞞にしかならない。
僕が勝手に勘違いしていたのは、批評とか文学とかは全部詩的情緒という概念で片付けられる、総括できると思っていたが、これはまったく本質を欠如していた大変な誤認識で痛手を負った。
文学の本質はポエジーではなく社会性であった。思うにポエジーという主観性は社会的現実と結びつけこれを介さない限り真にそのエネルギーを発動できないし、曖昧で蒙昧で頼りないヘナチョコな自己欺瞞にしかすぎないのだ。
ここで当然のように出てくる疑問点は、批評の本質的標準として働く社会性は具体的にどのような理論的世界観によって確保されるべきなのかということだ。この点に関しては不勉強ゆえ不確実な憶測しか書き出せないのは目に見えているため、ここでは一旦擱筆しようと思う。
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