05.モルト伯爵(2)

 ハルさんは視線を下に向け、お腹の前で両手の指先を交わらせる。


「結婚式でお会いしたあなたが、その、ええと」


 ハルさんの声はどんどん小さくなっていき、最後には聞こえなくなってしまった。


 わたしが聞き返すと、ハルさんは少し言葉に詰まってからまた口を開く。


「リッチェル様があまりに綺麗だったので、緊張してしまったんです!」


 綺麗。

 心臓が軽くはねて、頬が熱くなった。


「じゃあ、結婚式で目が合わなかったのは」

「リッチェル様がまぶしすぎて直視できませんでした……」

「一度も話さなかったのは」

「声が出ませんでした……」

「誓いのキスは」

「勇気が出なくて」

「初夜は」

「そんなっ、……ごめんなさい、もう勘弁してください……」


 ハルさんの耳がどんどん赤くなっていくので、心がむずむずして、口が締まらなくなった。

 なんだ。じゃあ、わたしは伯爵から避けられているわけではなかったんだ。


 ハルさんがモルト伯爵なんだったら、わたしが結婚した相手は、ハルさんだってことだよね?

 綺麗だって言ってくれたなら、緊張すると言ってくれたなら、脈がないわけじゃないんだよね……?


「じゃあわたしは、ハルさんが好きだって言ってもいいんですか?」

「はい、それは――はい!? えっ、それはどういう」

「もちろん特別な意味で」


 ハルさんが半歩後ずさった。


「な、なんでっ。僕、このとおり男らしくもないですし」

「でも、すごく優しいです」

「不器用で気の利いたことひとつ言えません」

「一生懸命なところがいいです」


 口をぱくぱくさせたハルさんを見上げながら立ち上がる。

 一歩前に出て、ハルさんの目がありそうなあたりをまっすぐ見つめた。


「ハルさん。わたし、ずっとこのお屋敷にいたいです。だってわたし、ハルさんのこと――」

「まっ、まっ、待って、待ってください!」


 わたしの両肩をハルさんがつかんで止める。

 気持ちがしぼんでしまったわたしは、しゅんと眉尻を下げた。


「ご迷惑でしょうか」

「そっ、そうではなくて、もし本当に特別な意味で言ってくださろうとしているなら……それは僕から言わせてください……」


 耳も首も真っ赤になってうつむきながらも、ハルさんはそう言ってくれた。


 そんなことを言われたら期待してしまう。

 わたしは一度だけうなずいて、ハルさんを見上げた。


 部屋の中が静かすぎて、自分の心臓の音がやけに大きく感じる。


 わたしの心臓の音が、ハルさんに聞こえないかな。

 逆にハルさんの心臓の音が、わたしに聞こえてこないかな。


「どこから話せばいいのでしょうか」


 ハルさんは両手を降ろすと、ふうと息をついた。


「リッチェル様はご存知ないと思いますが、僕は二年ほど前にリッチェル様をお見かけしたことがあるんですよ」

「そうなんですか?」


 二年前といえばわたしが社交パーティに顔を出すようになって、父様が何度かパーティに連れていってくれていた頃だ。


 でも、ハルさんのことは覚えていない。


「僕は華やかな場が苦手なので、招待はできる限りお断りしています。でも二年前に友人の結婚式と披露パーティには参加しました。その時に、お父様といらしていたリッチェル様をお見かけしたんです」


「すみません、まったく覚えてなくて」


「いいんです。友人に祝福を伝えてすぐに会場のすみっこに逃げ込んで、必死で気配を消していた僕のことなんて、覚えていなくて当然です。受付でも〝伯爵様の代理の方ですか〟と聞かれましたし……」


 必死で気配を消していたハルさん。

 想像すると笑ってしまいそうだけれど、今は想像するのはやめておこう。


「その時も、可愛らしい方だなあとずっと目で追っていました。あとで友人からからかわれるくらい。リッチェル様の家の状況も、友人が教えてくれたんです」


 わたしが二年前くらいに参加した結婚パーティといえば、実家から近くて家同士の交流があった、カルロス子爵のところだけだ。


 カルロス家のバロンさんは結婚式にも来てくれたけれど、家同士の付き合い参加かと思ったら、ハルさんとお友達だったのか。


「寄付で済ませるには金額が大きすぎたのと、領地の経営状況を見る限りしばらく継続的に支援させていただく必要があるとお見受けしたので、援助には婚姻という名目が必要でした。ただ、望まない結婚であなたを縛り付けたくはなかったので、債務処理が片付いてそちらの領地経営が安定したら、実家にお返ししようと思っていたんです」


 ――手放されたくなかったら、はっきりそう言ったほうがいい。


 エヴァンくんがそう忠告してくれたのは、ハルさんの考えを事前に聞いていたからなのかな。


「でも、結婚式で久しぶりにお会いしたリッチェル様に、改めて一目惚れをしました。〝家令のハル〟として接するうち、どんどんあなたの内面に惹かれていって、だから、その……」


 ハルさんの声はまた小さくなって途切れてしまう。


「……はい。どうか最後まで聞かせてください」


 固く握られたハルさんの手に、そっと自分の手を乗せる。


 真っ赤な手に触れてもそれほど熱を感じないのは、きっとわたしの体温も同じだからだ。


 ふたりとも熱くて、熱くて、一緒にとけてしまいそう。


 ハルさんをじっと見上げる。

 厚い前髪ごしでも、視線はきっと交わった。


 一度唇をぐっと引き結んだハルさんは、わたしの手を握り返してくれる。


「リッチェル様、僕はあなたが好きです。もし本当にあなたにも望んでもらえるなら、どうかこのまま僕のお嫁さんになってください」


「はい……っ」


 ハルさんに抱きついて、胸に顔をうずめる。


「わたしも、ハルさんが好きです」


 固まってしまったハルさんはなかなかわたしを抱きしめ返してくれない。


 でも改めて腕に力を込めたら、ハルさんの大きな手がやっとわたしの背中におそるおそるといった手つきで触れた。


「でもハルさん、わたしたちもう結婚してますよ」

「そうでしたね……」


 顔を上げ、目の前の前髪のカーテンに手を伸ばす。


 ハルさんは少しビクッとしたけれど、わたしが前髪を横によけて耳にかける間、じっとしていてくれた。


 翠色の二つの瞳をじっと見上げる。

 ハルさんの目は一度泳いでしまったけれど、またわたしに向け直してくれた。


「わたし、食事は一緒にとりたいです」

「はい、では明日から僕もダイニングに行きます」

「これからはリチェと呼んでください」

「えっ、ぜ、善処します」


 努力目標じゃなくて確実に呼ばれたい。

 ぷうと頬をふくらませたら、困り顔になったハルさんが、恥ずかしそうに小声で「リチェ……様」と言ってくれた。


 嬉しくて、くすぐったくて、自然と笑顔がこぼれる。

 本当は敬称もやめてほしいけれど、今日はここまででいいことにしよう。


「わたしはどうお呼びすればいいですか?」

「これまでどおりハルとお呼びください。僕、来客には〝家令のハル〟として応対することがほとんどなので、ハルと呼んでいただけると呼び間違いがなくて助かります」

「はい」


 使用人さんたちがハルさんを一度もハロルド様と呼ばなかったのは、みんな元からハル様と呼んでいたからなのかもしれない。


「じゃあ……キスしてください」

「えっ、ぼ、僕、そろそろいっぱいっぱいなので、明日以降でもいいですか……?」


 ハルさんが心底困っているのは、表情からも声からもわかる。

 ずっと顔から火が出そうになっているし、そろそろ倒れそうにも思えた。


 でも、どうしてだろう。

 そんなハルさんがとても可愛く見えて、ついいじわるを言ってしまいたくなる。


「だめです。今がいいです」

「はい……」


 ハルさんの服の袖をつかんで、目を閉じる。

 やわらかな唇を重ねてもらえるまで、わたしはそのままじっと待った。


 

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