05.モルト伯爵(1)
「リッチェル様、どうなさいました? ずいぶんぼうっとされているようですが……」
モニカさんの声で我に返って、わたしは顔を上げた。
周囲を見回せば自分の部屋。
ハルさんと本邸に帰ってきたあと、夕食を食べて部屋に帰ってきたことはなんとなく覚えている。何を食べたかまでは思い出せないけれど。
「どこかお悪いようでしたら医者を呼びましょうか」
「あっ、いえ、大丈夫です。その、ハルさんから〝モルト伯爵に会って欲しい〟と言われまして……」
モニカさんに話しても仕方がないのに、つい口から出ていってしまった。
「ハル様がそんなことを!? いつお会いになるんですか!?」
ぐわっと前のめりになって聞いてきたモニカさんに、つい身を引く。
「えっと、このあとです」
「このあと!? まあまあまあまあ! 大変、急いで準備しなくては!!」
ぱあっと笑顔になったモニカさんは、力強い足音を立てて部屋を飛び出していく。
――準備って、何の!?
ぼうぜんと待っていると、モニカさんは女性の使用人さんをたくさん連れて戻ってきた。
湯浴みをさせてもらってマッサージを受け、香油を塗られる。
「夕食のあとって聞いたので、そろそろモルト伯爵がいらっしゃるのでは……」
そう言ってみても、
「準備ができるまで待ってくださいとお願いしたので大丈夫ですよ!」
と、モニカさんは満面の笑みで答えるだけだ。
他の使用人さんたちも、
「香油、もっと塗っときます?」
「だめだめ、こういうのはほんのり香るからそそるんじゃない」
「先輩、ドレスどっちがいいですかね?」
「リッチェル様は可憐だからゴテゴテしてないほうが絶対似合う! 右!」
と、きゃっきゃしながらわたしの身体を磨いてくれた。
仕上げに胸元の開いた薄いドレスを着せられ、「ではっ、頑張ってくださいね!」とそれぞれ満足げな表情を浮かべたモニカさんたちは引き上げていった。
怒涛のようだった。
っていうか、これどう考えても〝夜伽の準備〟だよね!?
てっきりモルト伯爵に会って少し話をするだけだと思っていたのに、まさか初夜のやり直しってことなの?
「……どうして今さら?」
どうせ抱かれるなら、ハルさんに恋する前がよかった。
この家に来た当日なら、何をされても受け入れられたのに。
モルト伯爵との結婚は、実家の借金を返してもらうための契約だ。
だからわたしに選択権なんてない。
頭ではわかっているのに、ハルさん以外の男性に触れられるのは嫌だと心が抵抗している。
「……はあ」
少しでも気分を変えようと、窓を開けてテラスへ出た。
空はもう真っ暗で、星と月の明かりだけ。
テラスの下を見下ろしてみると、ランプの灯りに慣れた目では漆黒が広がっているだけに見えた。
真っ黒で少し怖い。
でも、二階のわたしの部屋から地面まではそんなに高さがあるわけじゃない。
……逃げてしまおうか。
頑張ってくれたモニカさんたちには悪いけど。
もちろん屋敷から逃げ出せるわけじゃない。
でも、夜じゃなくて昼に話したいって交渉できれば、初めて話すのにいきなり押し倒されるようなことだけはないんじゃないかな。
テラスの手すりを乗り越えて、外側に立つ。
風にドレスの裾があおられ、バタバタと音をたてる。
外の暗さに目は慣れてきたけれど、それでもよく見えない地面が怖い。
両手で手すりをしっかり持ち、ゆっくりと腰を落とした。あとは手を下側に移動してからテラスにぶら下がれば、下に降りられるはず。
片手を下に移動させようとしたところで、ノックの音がした。
「失礼します」
もう来ちゃった!
手すりの下側をまず右手でつかみ、急いで左手も手すりの下側に移そうとしたら、焦って足が滑った。
「きゃっ」
がくんと体が下がって、足がぶらんと宙に浮く。
「リッチェル様!?」
駆け寄ってきたハルさんがわたしの左腕を強くつかんだ。
「右手も上げられますか!?」
下の手すりをつかんでいた右手をハルさんに向かって伸ばすと、ハルさんはわたしの右手をつかんで手すりの上に手をかけさせてくれた。
「支えているので、足をテラスに乗せてください」
「は、はい」
一度踏み外した足をテラスに戻し、手すりを乗り越えて内側へ。
緊張のせいか汗だくになってテラスにへたり込んでしまった。
「リッチェル様、屋敷の中で自由にしていいとは言いましたが、今のは危ないですよ」
「すみません……」
「とりあえず、外は冷えますので中へどうぞ」
「はい」
緊張しながら部屋に戻ったけれど、わたしとハルさん以外には誰もいない。
あれ? モルト伯爵は? 後から来るのかな?
椅子にかけてあったストールをハルさんが手渡してくれたので、肩に羽織った。開きすぎた胸元もストールで隠しておこう。
「リッチェル様、お茶をお持ちしていますので、よろしければどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ハルさんがティーカップにお茶を注いでくれたので、座って一口飲む。温かい液体が喉から胃に流れ込み、少し気持ちが落ち着いた。
「テラスで一体何をされていたんですか?」
そう問われて言葉に詰まったけれど、交渉するならモルト伯爵がまだ来ていない今しかない。
膝の上で両手を握り、うつむきながらどうにか声を出す。
「その、いきなり抱かれるは怖いので、まずは日中にお話から始めさせていただけないでしょうかっ」
「何の話ですか!?」
珍しく口を大きく開けたハルさんに、モルト伯爵に会うことになったと話した途端モニカさんたちが夜伽の準備をしてくれたことを説明した。
「モニカさんはどうしてそう――違いますよ? 違いますからね!? 謝罪するなら早いほうがいいと思って、ゆっくりお話しできるタイミングの中で一番早いこの時間を選んだだけです!!」
ハルさんの大声なんて初めて聞いたからびっくりしたけれど、初夜のやり直しではないことにほっと息をつく。
でもハルさんが何を言っているのかよくわからない。
「謝罪というのは何でしょう? モルト伯爵はいつ頃いらっしゃるのでしょうか」
「えっ」
一転して口を閉じたハルさんが、おろおろと両手を宙にさまよわせる。
「リッチェル様は、僕が嘘をついたことに気づいて怒っていらっしゃるのでは……?」
「何の話ですか?」
今度はわたしが聞き返す番だった。
ハルさんの嘘ってなんだろう。
心当たりがなくて首をかしげると、ハルさんも同じように首を横にかたむけた。
「先日僕が熱を出した時に、僕の顔を見ましたよね?」
「いえ、見ていませんよ」
「ええっ!?」
ハルさんは両手で長い前髪の下を押さえると、「そんなあ。僕、てっきり……」と小声で呟く。
どうしていいのかわからず、しばらくハルさんを見上げていたら、ハルさんは長いため息を吐き出した。
「やっぱりずっと嘘をつき続けるのはよくないので、謝罪させてください」
ハルさんの指が厚い前髪の中央から覗いてどきりとする。
ゆっくりと前髪を左右に分けて耳にかけたハルさんは、わたしに視線を向けてきた。
翠色の透きとおった目がわたしをじっと見つめている。
息を呑むほど綺麗な顔立ちのその人は、結婚式の日に隣に立っていた男の人だった。
「この顔、覚えてますか?」
「モルト伯爵……?」
「はい。ハロルド・モルトです。嘘をついてすみません。結婚式の翌日、あなたが僕に気がつかなかったので、つい乗っかってしまいました」
「どうしてそんな嘘を?」
わたしが目を瞬くと、ハルさんは眉尻を下げてぱぱっと前髪を元に戻した。
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