04.自覚した恋心(2)
ハルさんが不在だったのは一日だけで、ハルさんは熱を出した翌々日の朝には玄関ホールでと朝食を乗せたワゴンと一緒に待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。あの、もうしばらく寝てらしたほうがいいのでは……?」
「ご心配をおかけしていたらすみません。少し疲れをためてしまっただけなので、大丈夫ですよ。一日寝たらすっかり元気です」
世の中には〝過労死〟という言葉があるくらいだし、その疲れただけってのが心配なんだけど。
でも〝なんとなく心配〟以上の理由を挙げられないわたしは、ハルさんの「ふたりともお腹を空かせてると思うので、早く行きましょう」という言葉に押し切られた。
ワゴンを押すハルさんの一歩後ろをついて離れに向かう。
一昨日までのわたしなら、何も考えずにハルさんの隣を歩いていた。
でも恋心を自覚した今となっては、どうやってハルさんの隣に並んでいたのか、そんなことすらもうわからない。
細い背中、首にかかる青銀色の髪。
見慣れたはずのそれらすら一昨日までとは違って見えて、つい目が離せない。
でも不意にハルさんが振り返ったので、わたしは慌てて顔を背けた。
「あの、リッチェル様」
「今日もお花、きれいですよね!」
「あ、はい……」
ハルさんがちょっと困ったように見えたけれど、まさか素敵な背中を眺めてましたなんて言えるわけがなく、わたしは庭に顔を向けたままごまかした。
ユルくんたちの部屋に入ると、ソアラちゃんが花がほころぶような笑顔で迎えてくれた。
「ハル! リーフタッツィ?」
よかった、今朝はソアラちゃんの調子がいいみたい。
寝具がハンモックに変わったことの効果なのかはわからないけれど、ソアラちゃんが昨日も今日も元気そうでわたしも嬉しい。
まだ食事は残しがちだけど、少しずつ食べてくれる量も増えてきた。
「心配してくれたのかな? ありがとう、大丈夫だよ」
ハルさんはワゴンを押している間も食事の乗ったトレイを運ぶ様子も、これまでと変わらない。
一日寝たら回復したというのもあながち嘘ではないようでほっとした。
ユルくんからも、ソアラちゃんが元気だからかハンモックが気にってくれたからか、理由はわからないけど前ほど警戒心を感じない。
ハルさんが運んだ食事を、ユルくんは黙って椅子に座って食べ始めた。
ソアラちゃんもユルくんの向かいに座って、フォークで野菜を口に運んでいる。
ユルくんとソアラちゃんの食事の様子を見ていたハルさんが、にこにこしながらわたしに顔を向けてきた。
「もうひとつのハンモックも今日の夕方に届くんです。ソアラちゃんも元気そうだし、隣の部屋の準備もできたので、夕食の前にふたりには新しい部屋に移ってもらいましょう」
ユルくんたちが今使っている部屋の向かいの二部屋は、昨日まで大工さんたちが数人出入りしていた。
大工さんたちが二つの部屋の間の壁に作ってくれていたのは、大人の拳がギリギリ通る程度の小さな窓。
ユルくんとソアラちゃんが別の部屋になっても会話できるようにと、ハルさんが工事を発注していたものだ。
「やっぱり部屋は分けるんですか?」
「今となっては同じ部屋でもいいかなとも思いますが、大きなハンモックのフレームを一部屋に二つ入れると狭いので、一応分けようかと」
部屋の奥に置かれたハンモックに目を向ける。確かにハンモックはフレームが大きいのでベッドより場所を取る。
「じゃあ部屋を移動するっていう説明の絵を、
「助かります。できたらもう一枚、昼は外に出ていいけど夜は部屋に戻ってねって伝えられるような絵を描いてもらえると嬉しいです。蝋板は用意させますので」
「う、頑張ります」
夕方、ハルさんが届いたばかりのハンモックを片方の部屋で組み立ててから、ユルくんとソアラちゃんを新しい部屋に案内した。
格子のない、大きく開閉できる窓。鍵のついていない扉。
ふたりとも新しい部屋の前で戸惑ったような表情を浮かべていたし、ソアラちゃんもユルくんも離れるのを渋った。
でも部屋と部屋の間の小窓を教えたら、小窓ごしに手を繋いだり内緒話をしたりして遊び始めた。
ハルさんがハンモックを元の部屋から新しい部屋に移動させる間に、ふたりの遊びはタオルを使ったひっぱり合いっこから、蝋板に大きく描いた絵を部分的に見せて当てるクイズゲームへと変わっていく。
初めて案内された部屋のはずなのに、ふたりとも次々と新しい遊びを考え出すから見ていて飽きない。
「ふたりが新しい部屋も気に入ってくれたみたいでよかったです」
新しい部屋でふたりに夕食を食べさせてから、ハルさんとふたりで本邸に戻る。
空を見上げればもう星が瞬きを始めていて、薄暗い。
ハルさんは今日もこれから仕事に戻るんだろうか。
病み上がりなんだから無理しないでほしい。
今夜は廊下から声をかけるだけじゃなくて本当に早く寝てもらわなくちゃ。
「あの窓はふたりがお互いの顔を見て話せるようにという意図しかありませんでしたが、あんなにいろいろ遊べるとは思いませんでした。子どもの発想力はすごいですね」
ハルさんが上機嫌でそう言って、わたしを振り返る。
わたしはやっぱりハルさんの視線を真っ直ぐには受け止められなかった。
ユルくんやソアラちゃんがいれば問題なく話せたのに、ふたりっきりだと思うとつい意識してしまう。
「あの、リッチェル様、やっぱり」
「そういえば! あの窓の工事の見積もりの時、工事の人と押し問答をされていたように見えましたけど、大丈夫ですか?」
ハルさんに問われそうになって、慌てて話題を変えた。
どうしよう、わたしの態度、間違いなく変に思われている。
立ち止まったハルさんを追い越して歩き続ける。
でもわたしより足の長いハルさんはすぐにわたしの横に並んだので、鼓動の速度が上がってしまった。
「あれは、工事を発注した工房の親方から〝この工事は弟子の練習台にするからお代はいらない〟と言われてしまいまして。練習でも代金は受け取ってくださいとお願いをしていました」
無料で工事をすると言われて、そこでラッキーと思わないあたりがハルさんだなあ。
弟子というキーワードが心に引っかかり、窓の工事に来ていた男の子のことを思い出した。
モルト伯爵に買われた子どもたちはそれぞれ職人の家庭に弟子入りしているって話だったから。
「工事に来ていた男の子も、モルト伯爵が引き取った子なんですか?」
「ええ、そうですよ」
「もしかして、庭師のおじいさんと一緒にいる足の悪い女の子も?」
「はい」
ユルくんとソアラちゃん、エヴァンくん、大工工事の男の子、庭師の女の子。
わたしが知っているだけで五人。
奴隷の子どもを買っているという噂が立つくらいだから、わたしが知っている以外にも同じような子どもは領内にたくさんいるんだろう。
モルト伯爵は一体何人の子どもを引き取ってきたんだろうな。
空の星をぼんやり見つめなら歩いていたら、石畳の凹凸に足を取られた。
「きゃっ」
「リッチェル様!」
ハルさんが支えてくれたおかげで転ばずにすんだけれど、ハルさんの腕がわたしのお腹から腰まで回されていて、急に体温が上がった。いっそ転んでしまいたかった。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
鼓動がお腹まで伝わるわけがないのに、ばくばくうるさい心臓の音がハルさんに腕ごしに気づかれているんじゃないかと不安になる。
今すぐ離れたい。でも、このまま支えられていたい。
ハルさんの腕に触れてみる。
父様より細くて、骨の感触がよくわかる。
でも筋肉がまったくないわけではない。
ふにふに。
さわさわ。
無心で薄いシャツの下の腕を観察していたけれど、
「リッ……チェル様、何を……」
ハルさんの途切れそうなほど細い声で我に返った瞬間、顔が熱くなりすぎて頭が燃えたかと思った。
「あっ、その、男の人の腕って不思議だなあって!」
顔を上げたらハルさんが赤い顔を手で押さえながら明後日の方向を見ていた。
ピンク色に染まった耳が可愛い。
熱を帯びた大きな手に触れてみたい。
自分が男の人の体に興味を持つなんて思わなかった。
幸せと不安とが同時に押し寄せてくるような、こんなふわふわした気持ちなんて知らなかった。
前髪のわずかな隙間をじっと見つめてみる。
薄暗いし前髪は長いし、表情なんて見えない。見えないけれど、真っ赤になって照れたハルさんはどんな表情をしているんだろう。
「……あの!」
急に両肩をつかまれ、ぐいっと押された。
ハルさんから引きはがされるみたいに。
うつむいたハルさんの表情はやっぱり見えない。
「あの、リッチェル様……〝モルト伯爵〟に会っていただけないでしょうか」
「え……」
モルト伯爵に? どうして??
今まで一度も会いに来なかった伯爵に、どうして急に会ってほしいなんて言うの?
「夕食のあと部屋に伺いますので、今夜は自室にいていただけますか」
熱に浮かされていた頭がすうっと冷えていくのを感じる。
――ああそうか、わかった。
「……はい」
わたしはきっと、遠回しにフラれたんだ。
これ以上近づくなって、モルト伯爵と結婚したことを忘れるなって、そう言われたんだ。
ワゴンを押して歩き始めたハルさんの後ろをついていきながら、わたしは浮いてきた涙をこっそりぬぐった。
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