03.亜人の兄妹(3)

 ユルくんとソアラちゃんに名前を教えてもらってから三日、ハルさんと一緒に毎日食事を部屋に運んだ。


 ハルさんは仕事があるからといつも名残惜しそうにすぐ本邸に戻ってしまうけれど、暇なわたしはふたりの部屋に残ることにしている。


 ソアラちゃんの熱は下がったり上がったりをくり返しているので、ソアラちゃんの調子がよさそうなときだけだけど。


 ふたりが食事をとる間に絵の描かれた木の板を持って文字を読んだり、ふたりと蝋板ろうばんに絵を描いたり、歌ったり。


 ユルくんはまだ警戒をといてくれないけれど、ソアラちゃんは「リチェ」と少し変わった発音で呼んでくれるようになってすごく嬉しい。


 あとは、ソアラちゃんが元気になってくれれば言うことなしなんだけどな。


 でも骨と皮だけに見えたユルくんとソアラちゃんの体が少しだけふっくらしてきたから、このまま栄養をたっぷりとってくれたらいいな。



   ◇



 夜。外はすっかり暗くなり、そろそろ着替えて寝ようかと考えていたら、わたしの部屋の戸を誰かがノックした。


「失礼します」


 入ってきたのはモニカさん。

 寝巻きを持ってきてくれたのかと思ったら、モニカさんは手ぶらだ。


「どうかしましたか?」

「リッチェル様に、ひとつお願いをしてもよろしいでしょうか?」

「なんでしょう?」


「書斎に行って、ハル様にたまには早く休むよう言っていただけないでしょうか」


 頬に手を当てたモニカさんは、ちょっと困ったような顔でため息をついた。


「実はハル様、いっつも遅くまで仕事をされていて……私らが休めと言っても聞かんのですよ。近頃の様子を見て、リッチェル様が言ってくださればあるいはと思いましてね」


 わたしはそろそろ寝ようかなんてのんきに考えていたのに、ハルさんはまだ仕事をしているの?


 ハルさんは確かにユルくんたちの食事を置いて少し話したら本邸に戻ってしまうけれど、ハルさんの周りの空気はいつものんびりしていて、あまり忙しそうに見えなかった。


 仕事が多いなら、ふたりに食事を運ぶのは任せてくれてもいいんだけどな。


「わかりました、言ってみます」


 モニカさんが書斎の位置を教えてくれようとしたけれど、毎日屋敷を探検していたから場所はわかっている。


 月が床を淡く照らす廊下を歩いていたら、書斎の扉から男の子が出てきた。


 まだ十代半ばの幼い顔立ちの上に大人びた表情を浮かべた男の子は、わたしに気がついてさっと廊下の端によけてくれる。


 男の子の藍色の髪が、暗い廊下では黒く染まって見えた。

 子供用の小さなスーツを着た男の子は、左手にだけ白っぽい手袋をはめている。


 きっちりした固い礼を維持したまま動こうとしない彼の前で立ち止まり、わたしは「こんばんは」と声をかけてみた。


 彼は初日に紹介された使用人さんたちの中にいたけれど、あまり関わる機会がなくてまだ話したことはない。


 名前は確か、エヴァンくん。

 年齢に似合わない大人びた目が気になったから印象に残っている。


「こんばんは。おやすみなさいませ」


 礼と同じく固い声でそう言ったエヴァンくんは顔を上げない。

 厚い壁を感じてしまって、それ以上会話を続けられなかった。


 エヴァンくんに会釈だけして、わたしは書斎の扉をノックしてみる。


「はーい」


 中からハルさんの声がした。本当にこの時間まで働いてるんだ。


 もう遅い時間だけれど、モルト伯爵も中にいるんだろうか?


 ドキドキしながら扉を開ける。でも部屋にいたのはハルさんひとりだけで、わたしはほっと息をついた。


 本棚の前で本を開いていたハルさんは、わたしが扉を開けても振り向かない。


「ハルさん」

「待ってください、もう少――ん? えっ、リッチェル様!?」


 ハルさんはぱっと振り返った途端に本を落とし、慌てた様子でそれを拾う。


「まだお仕事中ですか」

「は、はい。何かご用でしょうか」


 モニカさんに言われて――と、口にしかけてから引っ込める。


「部屋から出てきた男の子とすれ違いまして。こんな時間までまだお仕事なのかな、と」


 口止めはされなかったけれど、正直に言っていいのか迷って、とっさに嘘をついた。


「ああ、エヴァンくんですね」


 ハルさんが扉に視線を向けたので、わたしもつい振り返る。でも閉まった扉があるだけでエヴァンくんの姿はない。


「エヴァンくんも、こんな時間までお仕事を?」

「いえ、彼の仕事は夕方で終わりです。本が読みたいと言ってよくこの時間まで書斎にいますが」


 ハルさんがわたしに向き直る。


「使用人のことなので、この機会にお伝えしておきますね。エヴァンくんの左手は義手です。彼は四年前に引き取って、うちの使用人として雇い入れました」


 なんでもないことのようにハルさんは言ったけれど、エヴァンくんが左手にだけ着けていた手袋を思い出してどきりとした。


 ハルさんは明言しなかったけれど、引き取ったという言葉の意味するところは〝モルト伯爵が買った元奴隷の子ども〟ってことなんだろう。


 ぱっと視線を戻したわたしに、ハルさんは笑う。


「エヴァンくんはとっても優秀なんですよ。頭の回転が速くて、読み書きも計算もすぐ覚えてしまいました。今は僕の仕事の手伝いをしてもらっています」


 ハルさんの声には嬉しさと誇らしさがにじんでいる。


「まだ十五歳なのに僕なんかよりずっとしっかりしていますし、仕事の覚えもすごく速いので、どこの領地でも活躍できる人材になってくれると思うんです」


 興味があるなら学者にもなれるかもしれないとか、執事の仕事も向いているだとか、教えるのも上手だから先生もいいだとか。


 我が子を褒めるお父さんみたいなことをすごく嬉しそうに語るハルさんを見ていたら、わたしは自分でも気がつかないうちに笑みを浮かべていた。


 親バカって、こういう人のことを言うのかな。


 あたたかな何かが胸にじんわり広がっていくようで、顔と名前しか知らない男の子の話なのに、いつまでも聞いていたくなる。


「実は一年くらい前に伯爵家の養子にも誘ったことがあるんですけど、断わられてしまいました」


 断わられたと言っているのに、声も口元もやっぱり嬉しそうだ。


「僕ね、断われるってすごいことだと思うんですよ。自分はこうしたいって意志をしっかり持っていて、しかも断る勇気もあって。僕はそういうのは苦手なので、尊敬します」


 視線を下に向けて頬をかいたハルさんは、はっとしたように顔を上げる。


「――って、ああっ、すみません、また僕ばかりベラベラと……」

「いいえ、いいんです」


 わたしはまっすぐにハルさんを見上げた。


 いつも前髪で隠れて見えないけれど、きっとハルさんは優しい目をしている。


 見てみたい。

 他人のことを、元奴隷の子どもを、こんなに誇らしげに語る人の目を。


 もっと仲良くなったなら、厚い前髪の下を見ることはできるんだろうか?

 それとも手を伸ばしたならば、顔を覗くことはできるんだろうか?


「わたし、ハルさんのお話、もっと聞きたいです」


 もっと知りたいと思った。

 ハルさんのこと。


「あ、えっと……」


 持っていた本で顔を隠したハルさんは、また耳まで真っ赤になっている。


 本を壁にしているけれど、本を持つ手も真っ赤だから、あんまり意味はない。


 今はどんな表情をしているんだろう。

 ハルさんの髪に向けて手をのばす。でもわたしの手がサラサラの髪に触れる前に、


「じゃあっ、この本なんですけど!」


 ハルさんが手にしていた本を開いて見せてきたので、前髪の下を覗くことは叶わなかった。


「これ、今日届いた本なんです。異国の亜人について書かれた本でして。亜人といってもいろいろなので、ユルくんやソアラちゃんみたいな種族の記述は多くはないのですが、わかったこともありました。寝具がね、僕らとは違うんですよ。ハンモックっていうらしいんですけど、こういう形のもので――」


 わたしが聞きたかったのはそういう話ではなかったんだけど、ユルくんとソアラちゃんのことも気になるから、いっか。


 布を吊り下げて作るらしい変わった寝具を一生懸命説明してくれるハルさんを見ていたら、ハルさんが毎日遅くまで仕事をしている理由がわかった気がした。

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