02.立入禁止の場所(2)
昼食のときに亜人の子どもたちについて聞きたかったけれど、ハルさんにもモニカさんにも会えなかった。
仕方がないので他の使用人さんに、用途は言わずに書字用の
本来は板の表面に張られた蝋の膜を、
文字はきっと伝わらないだろうけれど、簡単な絵ならわたしにも描けるかなって。
亜人の子どもたちの部屋の窓に近づいて、中の様子をうかがってみる。
女の子は壁側に顔を向けてベッドに寝そべっていて、男の子はベッドのすぐ傍に座り込んで木の板を眺めている。
あの木の板は何だろう?
気になったけれど、格子状の窓からはよく見えない。
木の板の正体を知るのは諦め、また窓の横に立って、歌を風に乗せる。
今回はわたしの生まれた地方に伝わるわらべ歌にしよう。
「――♪――♪――」
部屋を見ていないから、ふたりが聞いてくれているかはわからない。
でもいいんだ。
少し、ほんの少しでも、あの子たちの耳に届けば。
ざぁっと強く吹いた風がわたしの髪を舞い上げる。
風に吹かれて踊った髪に鼻先をくすぐられ、歌が中途半端なところで止まってしまった。
どうしよう、途中から続けようか。
最後まで歌わなきゃいけないわけでもないし、ここでやめてもいいんだけど――
人の気配に気がついて顔を横に向けると、何枚もの木の板を胸に抱えたハルさんが、ぼうっと呆けたように立っていた。
「ハルさん?」
「あっ」
ハルさんの頬に赤みが走ったかと思うと、乾いた布に水を落としたときのように、赤色が勢いよく耳や首に広がっていった。
「すみませんっ! 盗み聞きするような真似を……!」
ハルさんが持っていた木の板が、バラバラと地面に落ちる。ハルさんは慌てた様子で板を拾い集め始めた。
薄く切られた木板の表面には絵が描かれていたので、おや、と首をかしげる。
高価な布地のキャンバスの代わりに木に絵画を描いたものは珍しくない。
でもハルさんが落とした木の絵はもっとシンプルで、一枚の板の中央に果物がひとつだけ。
絵の横には果物の名前の文字。
板によって果物の種類が違う。
拾うのを手伝おうと木の板に手を伸ばすと、果物以外に家や教会の絵もあることに気がついた。
「この木の板は何ですか?」
「ああ、これは――ええと、どこから説明していいか」
ハルさんがちらと離れの窓に目を向ける。
「ここで歌ってらっしゃったということは、中に子どもたちがいるのをご覧になったのでしょうか」
「はい」
「そう……ですか。この板は、子どもたちに読もうかと。これと同じものを一セット、部屋の中にも置いてあるんです。言葉が通じないので、何度も読み聞かせることで少しでも覚えてもらえたらと思いまして」
ハルさんが立ち上がり、また窓に目を移す。
つられて部屋の中を見たけれど、男の子は近づいてはこなかった。
でも、さっき男の子が部屋で眺めていた板は、きっとハルさんが持っている板と同じものなんだろう。
「こんにちは。僕はハルだよ。今日もこれを読むね」
ハルさんは絵を部屋の中に見せながら、板の文字をゆっくり読む。
ひとつ読んでは板を変え、ひとつ読んでは板を変え。
男の子はやっぱり座ったまま近づいてこない。でもハルさんの持つ板をじっと見つめていた。
いつの間にか女の子も寝転んだままこちらに視線を向けている。
よかった、聞いてはくれるんだ。
しばらくハルさんが板を読む様子を見守っていると、数人の話し声が離れに近づいてきた。
誰だろう?
窓から離れて入り口に向かうと、建物に入ろうとしていたモニカさんと目があった。
モニカさんと一緒にいるのは大きな鞄を持ったおじさんと、十五歳くらいの男の子だ。
身なりしてから貴族ではなさそうだし、ハルさんとモニカさんが部屋と部屋の間に窓をつける話をしていたから、大工さんかもしれない。
モニカさんが扉のノブから手を離してこちらに歩いてくる。
「リッチェル様、離れにいらしてたんですね。ハル様は窓のところですか?」
「はい」
「そうですか。ハル様ー! 工事の見積もりに来ていただきましたよー!」
モニカさんが声を張り上げると、ハルさんが読み聞かせの手を止めてこちらに歩いてくる。
「モニカさん、ダグさん、シズくん。あと半分だから、少しだけ待ってもらえないかな?」
ハルさんが申し訳なさそうな声でそう言ったので、わたしはハルさんに手を出した。
「残り、わたしが読みましょうか?」
「でも……」
ちょっと困ったようにハルさんはわたしとモニカさんたちを見比べる。
来客だし、ハルさんは行ったほうがいいんじゃないかな。
「いいですよ、わたし暇ですし」
「じゃあ、お願いします。教会まで読みました」
ハルさんが板をわたしに差し出して、ぺこりと頭を下げる。
青みがかった長い銀髪の上で光が揺れて見えた。
木の板を受けとって、ハルさんたちが離れに入っていくのを見守っていると、四人の中で最後に建物に入ろうとしたハルさんが、手を止めてわたしに顔を向ける。
「さっきの歌、声も、歌うあなたも、とても綺麗でした。よかったらまた歌ってあげてください」
穏やかにふわりと笑って、ハルさんはそう言った。そしてさっと離れに入っていく。
唐突に褒められたわたしは、すぐには答えられずに息をのんだ。
えっ、あれ?
歌じゃなくて、わたしをほめてもらった?
そのことに気がついたとたん、体中の血が頭まで上ってきたような気がして、顔が熱を帯びる。
「ハル様ー! 何を赤くなってるんですか!?」
「大声で言わないでくださいモニカさんっ」
「わざとやってます!」
「そういう働きは求めてません!」
壁の向こうから聞こえてくるやりとりに、よけいに体温が上がる。
どういうこと、モニカさん。
わざとっていうのは、わたしに聞こえるように言ったってことだよね?
なんで??
そんなことをされたら、すぐに真っ赤になるハルさんの反応に特別な意味があるような気がしてくるからやめてほしい。
ハルさんは使用人なんだから、主人の妻に横恋慕するわけがない。
そう、妻。
モルト伯爵に会わないせいで実感が薄いけれど、わたし、結婚したんだよね……?
――偽装結婚。
――妻としての役割は不要。
ハルさんから告げられたことを思い出し、気持ちが沈みそうになる。
慌てて首を横に振ってそれを振り払った。
早くふたりに、続きを読んであげよう。
わたしは意味もなく早足になって、窓の前に戻った。
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