01.買われた結婚(2)

 ダイニングに準備されていたのは一人分の食事だけだった。


 奥の席は空っぽ。

 モルト伯爵の姿はない。


 昨日もこうだったから予想はしていたけれど、新婚だというのにモルト伯爵はわたしと食事をする気もないらしい。


 ため息をついてから、ハルさんが引いてくれた椅子に座る。


「どうぞ、お召し上がりください。お飲み物は何がよろしいですか?」

「ではお水をいただけますか?」


 クセでついそう答えたけれど、貧乏くさかったかな。


 お金がなかった実家では節約のために水だけを飲んでいたけれど、ここはお金持ちの伯爵家。


 モルト伯爵は水なんて頼まないかもしれない。

 変に思われたんじゃないかな。


 不安になったけれど、ハルさんは口元ににこりと笑みを広げ、グラスに水を注いでくれる。


 ちらりと見えたハルさんの手の甲や手首には、小さなひっかき傷がたくさん刻まれていた。シャツの端もところどころ破れている。


 つい手を見つめてしまったわたしに気がついて、ハルさんはさっと手を引っ込めた。


「すみません、お見苦しいものをお見せしました」

「大丈夫ですか?」

「あ、はい……その、猫にやられまして……」


 ひっかき傷を猫にやられたと言うときは、実は女性に爪を立てられたというものだけれど、ハルさんの場合は本当に猫に引っかかれていそう。


「かわいいですよね、猫」


 そう返すと、ハルさんの周りにぱあっと小さな花が咲いたような気がした。


「猫、お好きですかっ?」

「ええ、まあ――」


 人並みには。

 口にしかけた言葉を飲み込んだ。

 ハルさんがすごく嬉しそうに見えたから。


「いいですよね、猫。背中の曲線はたまらないし、肉球はぷにぷにで気持ちいいし。普段は呼んでも来ない子が、気まぐれに膝に乗ってきてくれたときの嬉しさと可愛さったらもう!」

「……」


 ああ、うん。

 手のひっかき傷は本当に猫なんだろうな。


 ハルさんは両手をぐっと握り、前のめりになって猫の良さを語り続けている。


 しばらく黙って聞いていたら、はっと我に返ったハルさんが、長い前髪の下を両手で覆った。


「すっ、すみません、つまらない話をお聞かせしてしまいました」

 

 もともと顔は前髪で隠れているから、改めて手で隠す意味はない。


 耳も腕も真っ赤。

 ハルさんはまた細長い体を丸めて小さくなっている。


「ふふっ」


 自然とこみ上げてきた笑いが、気持ちの沈みを吹き飛ばしてくれた。


 よかった。

 モニカさんもハルさんもいい人みたいで。


 この二人が使用人をまとめてくれているなら、伯爵家でもやっていけそうな気がする。


「スープもパンも冷めますので、どうぞ……」


 細い声にうながされ、朝食に手をつける。


 実家では久しく食べられなかったやわらかなパン。

 父様や母様たちは、今頃ちゃんとご飯を食べられているのかな。


 モルト伯爵は結婚の見返りに、借金の肩代わりだけじゃなくて当面の生活費も援助してくれるって話だったから、大丈夫だと思うんだけど。


 しばらくしてようやく普通の顔色に戻ったハルさんが、こほんと一つ咳払いをした。


「では食事をしながら聞いていただけますか?」

「はい、お願いします」


「旦那様は基本的に屋敷にはおられませんので、リッチェル様は自由にお過ごしください。書面上の偽装結婚ですので、妻としての役割などは気にされなくて大丈夫です」 


 偽装結婚。

 妻としての役割は不要。


 察してはいたものの、改めて告げられると胸がずきりと痛んだ。


「……やっぱり、旦那様はわたしに興味はないんですね」


 目を伏せ、ふうと息をつく。

 とたんにハルさんが慌てた様子で両手をバタバタと動かした。


「ちっ、違うんです! あなたがあまりに可憐なので、緊張してしまうといいますか!」


 奴隷商人のお得意様という噂の伯爵が、緊張なんてするかしら?

 きれいな人だったし、女性にはモテそう。


 わたしみたいな小娘相手に緊張はしないんじゃないかなあと思ったけれど、ハルさんの優しさに少しだけ気持ちが浮上した。


「ありがとう。なぐさめてくださるんですね」

「あっいやその……」


 また赤くなってる。

 可愛い人だなあ。


「では、わたしはこの家で何をすれば?」

「特に何も。自由にくつろいでいただければ。リッチェル様が笑って過ごしてくたされば、僕らはそれでいいのですよ」


 自由にと言われても、逆に困る。

 とまどうわたしをよそに、ハルさんは続けた。


「ただ、制約事項が一つだけ。庭園の向こうにある離れにだけは入らないようにしていただけますか?」


「離れには何かあるんですか?」


「具合が悪い子と、気が立っている子がいまして。僕も毎日引っかかれているので、今は危ないんですよ」


 気の立っている子――母猫でもいるのかな?


 子猫を連れてる母猫は気が立っていることが多いし、怖がらせちゃうから、用もなく近づかないほうがいいと言われればそうかもしれない。


「言葉が通じないと意思疎通が難しくて……薬も飲んでもらえないんです」


 ハルさんがそう言って肩を落としたけれど、相手が猫じゃあ言葉が通じないのは仕方ないよ。


「薬を飲んでもらえないのは心配ですね」


「そうなんです。ともかく、離れにいる子たちは僕らで世話をしますので、あの子たちが慣れるまでは入らないでくださいね」


「わかりました」


 でも、自由に過ごすといっても何をしよう?

 実家ではずっと家事の手伝いをしていたし、趣味なんて時々歌うことくらいしかない。


 うーん、モニカさんに手伝えることがないか聞いてみようかな。


「では、僕は下がらせていただきます。何かあればそこのベルを鳴らしてください。誰かがご用をうかがいにまいります」


「えっ、待って」


 部屋を出ていこうとしたハルさんをつい呼び止める。


 昨日もこの広いダイニングで食事をしたけれど、ぽつんと一人で残されるのは正直さみしい。


「お仕事がお忙しくなければでいいんですけど……食事中の話し相手になっていただけるととても嬉しいです」


「あっ、はい! 僕なんかでよければ喜んで……」


 また少し顔を赤くしながら、ハルさんはにこりと笑ってくれた。

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