7 碧の瞳
惶牙が魔獣討伐に出発してから、海音とシルヴェストルと二人きりの生活が始まった。
「惶牙は大丈夫でしょうか?」
惶牙が出発した翌朝に、朝食の席で海音はシルヴェストルにたずねる。
「あれは魔獣狩りを何百年とやってきてる。凍土の聖獣もいれば心配はないだろう」
「はい……」
一度見た魔獣は禍々しくて、思い出しただけで恐怖に胸がざわつく。海音は心配そうに目をかげらせながら、一人だといつもより多く感じる食事を口に運ぶ。
「確か北方のクレスティアとの国境付近まで行くんですよね。クレスティアにも聖獣がいるんでしょうか?」
「ああ。大国だからな」
「そちらの聖獣と協力するというわけにはいかないんでしょうか」
海音の問いに、シルヴェストルはそっけなく答える。
「クレスの聖獣は気まぐれだ。それに私はあそこの精霊が好かん。重い雲ばかり押し付けてくる」
精霊同士も仲の良い悪いがあるらしい。シルヴェストルがいかにも嫌そうに言うところをみると、クレスティアの精霊とはよほど険悪な仲なのだろう。
「先に言っておくが、明日からは天気が崩れるぞ。買いだめをしておけ」
「あ……はい」
雷が苦手な海音を気遣ってくれたのがわかって、海音はうなずいた。
朝食の後はいつものように少し予習をして、学校に向かった。
海音は朝晩と勉強しているので、書き取りはだいぶうまくなっていた。けれど話し言葉の方はまだまだで、先生の言葉を聞くので精いっぱいだ。
「今日は地理の勉強をしましょう」
海音は半分以上聞き取れないのを承知で、年上の子供たちに混じって授業に出席していた。
「大陸の中央地方の中の一つに、ル・シッド公国、私たちの暮らしている国があります」
三日月を少し太くしたような、緩く弧を描いた大陸の地図が前に張り出されていた。先生はその横に立って、中央部分を指でぐるりとなぞる。
「中央地方には他にもたくさんの自治都市があります。古くはそれらを合わせた宗主国があったのですが、現在国として残っているのはル・シッド公国だけです。約三百年前の建国以来、代々の大公殿下がお治めになっていらっしゃいます」
それから先生は指を北へ滑らせる。
「北には、クレスティア帝国があります。クレスティアの皇帝の武勇譚は聞いたことがありますね? ル・シッド公国はクレスティアと同盟関係にあります。亡き公妃殿下もクレスティアから嫁がれた方です」
続いて、先生の指は地図を南へ滑る。
「砂漠を超えると、千年の歴史を持つアストレア帝国があります。奴隷兵軍団が領土を広げてきました」
先生はそこで一呼吸置いて、生徒たちを見た。
「ここまでで質問はありますか?」
「せんせー」
ぱっと手を挙げた子を指名すると、その子は興味津々といった様子で問いかける。
「クレスティアとアストレアが戦争したら、どっちが勝つのかなぁ?」
他の生徒たちもその質問に振り向く。
「クレスの皇帝はすごく強いんでしょ。一人で百の騎兵を倒したんだよね? でも奴隷兵軍団も強いんだよね?」
「二つの帝国の戦争は、恐ろしいことです」
先生は目を険しくして答えた。
「私たちの国がもっとも避けなければならない事態です。公国の財力を支えているのは交易ですから」
指を立てて、先生は子どもたちに諭す。
「そうならないために公子殿下、アレン様が清華一族と協定を結ばれ、商業ルートを確保されました。皆さんもよく勉強して、アレン様の元で公国を盛り立てていくのですよ。いいですか?」
はーいと子供たちが声をそろえて返事をする。
「アレン様、かっこいいもんな」
「お花を渡しにいった女の子を抱き上げてくださったんだって。いいなぁ」
海音も、市場で公子殿下万歳という声をよく聞く。アレン公子は老人から子どもまで、広く愛されているようだった。
「じゃあ、地理の勉強はここまでにして次に移りましょう」
「待って、せんせー」
一人の子供が椅子から立ち上がって、前に広げられた地図の元に向かう。
「宵月を忘れてるよ?」
どきりと海音の胸が跳ねた。
「ああ、そうですね」
先生は慌てたように指を走らせて、中央地方から東へ向かった所で指を止める。
「クレスティアに向かい合うように、海を挟んだ島国、宵月があります。独特の風土と文化を持ち、外部からの者を受け入れません」
ちらと海音に視線を投げる子供もいた。
公国は様々な民族が混じり合っているが、純粋な宵月の人間はほとんどいない。個人間で売買はあるらしいので宵月の言葉を片言で話すことができる者はいるが、それもごくわずかだ。
「宵月の人間は人じゃないっていうけど、ほんと?」
今度は露骨に海音に視線が集中する。
宵月の民の特徴は、真っ黒な髪と瞳、象牙色の肌、小柄な体躯、大陸人とは一目で違うとわかるすっきりとした目鼻立ち。海音は瞳の色以外、そのすべての特徴を持っていた。
(仕方ない。僕だって、大陸に来る前は海の向こうに巨人や天狗が住んでると思ってたから)
居たたまれなくて目を伏せると、側に誰かやって来る気配がした。
「同じ人ですよ。これは確かです」
先生は海音の横に立って話す。
「皆さんもよく知っている清華家のご先祖は、宵月人なのです。現在はヘーゼルの髪や瞳をしていますが、大陸に来た当時は真っ黒な髪と瞳を持つ人々だったと、伝記に残っています」
先生は前に戻っていく。海音は息をするのが楽になったのを感じていた。
「公国は人々が集まる地。ここに住む者は公国の民。そう大公殿下が仰ったのを忘れてはなりません」
公国の民。その言葉を、海音は心の中で反芻する。
(僕も、そうなれるだろうか)
まだよくわからない公国の言葉を必死で聞き取りながら、海音は未来に思いを馳せていた。
今日からは惶牙が待っていないだろうから、少し寄り道してみよう。
海音はそう思って、いつもとは違う道を通って帰ることにした。
公国は公子が住む城を中心として、四方に街が広がっている。海音が帰る箱庭は北の関所を抜けた所にあるので、北部以外の街は見たことがなかった。
海音は西部を目指して歩いていた。この辺りは住宅街が少ない代わりに、商人たちが忙しく行き来して、人々も道端に並べられた品々を物色している。
(今日は豆のスープにしてみようかな。安いし、実が詰まってておいしそう)
相場や食材の目利きがわかってきた海音は、顎に手を当ててそう思った。
ざわりと市場が揺れたのは突然だった。
見ると、道の真ん中で腹を押さえてうずくまっている女性がいた。女性の背中には乳飲み子がいて、彼女の側には三歳ほどの小さな男の子が途方にくれたような顔をして立ちつくしている。
「泥棒! 誰か、捕まえて!」
人並みを蹴散らすように走っていたのは、頭と口元をターバンで覆った大男だった。止めようとする人たちを次々に振り払っていく。
(やっぱり、ここにもいるんだ……こういう人が)
片手に女性の荷物らしい布袋を背負って逃げる男を見ながら、海音は目を険しくした。
(まだ小さな子どもがいる人から盗みをするなんて)
唇をかみしめて、海音は駆け出していた。
騒然となった市場の人々は海音が後を追ったことに気付かなかった。海音には足音というものがなかった。
入り込んだ路地は狭く薄暗い。その中で、海音は野生動物のように身を低くして駆けていく。
眩しい光が差し込む路地の出口に男が抜けだそうとした瞬間、目の前にさっとよぎった影があった。
「……なっ!」
それは逆さになった子供だと、男は認識できただろうか。
海音は壁を蹴って男の頭上まで飛びあがっていた。壁に手をついたまま体を反転させて男の前に躍り出ると、踵で男の眉間を蹴りとばす。
男は一瞬で昏倒して、後ろに倒れる。海音は猫のように体を丸めてその場に降り立った。
(しばらく訓練してなかったけど、うまくいってよかった)
海音は男が完全に意識を失っているのを確認して、ほっと息をつく。
(身に染みついたものは消えないか……)
暗い顔でうつむいた海音は、目の前に影が落ちたことにぎょっとする。
「これは……坊主がやったのか?」
いつの間にか路地の出口に人が立っていた。
見られた。飛び退くように海音が後ろに下がると、その中から一人が進み出る。
「怖がらないで。私たちは公国の傭兵団の者だ。市場でいさかいがあったのを聞いて駆け付けた」
その声はまだ年若い青年のようだった。傭兵とは思えない優しい調子で海音に話しかけて近づいてくる。
「泥棒を一人で追いかけるなんて勇気がある。どこの子だい?」
青年は屈みこんで、海音の顔を覗き込もうとする。
「……すみません!」
海音は思わず踵を返して逃げ出していた。今のことを見られたのだと思うと、そうするしかなかった。
しかし路地の入口の方にも傭兵が塞いでいるのが見えた。すぐさま海音は足踏みをして、しかし戻ることもできずに立ちすくむ。
壁に手をついて、海音が忙しなく左右を見た時だった。
ふいに背後から腕が伸びて抱きあげられる。
「怪我はないか、海音」
海音は叫びそうになったが、心配そうな声に覚えがあって振り向く。
そこには壁から上半身抜け出したような状態で、人に変化したシルヴェストルが立っていた。
「シヴ様? どうして」
「暴漢を一人で追うとは無茶なことを。お前はマナトなのだぞ。何かあったらどうするのだ」
声はすぐに海音を叱責するものに変わった。海音の脇を抱えて目線の高さまで抱き上げると、シルヴェストルは険しい眼差しでみつめてくる。
(そっか。シヴ様はどこにいても僕の様子がわかるのだっけ)
海音はしゅんとして目を伏せる。
「ごめんなさい。お仕事中だったのに」
「私のことはいい。だが二度とこのようなことをするな」
シルヴェストルはそう言って踵を返す。壁の向こうにはうっすらと箱庭の様子が透けて見えた。
どうやら精霊は海音を箱庭へ連れ帰ってくれるらしい。それに気づいて、慌ててシルヴェストルの袖を引く。
「ここで消えたら不自然です。どこにも逃げ場がないのに」
「構うな」
「僕は姿を見られてます。シヴ様だけ戻ってください」
海音はシルヴェストルの腕を振り払って下りる。それを精霊は一瞬だけ困ったように見下ろした。
やがてシルヴェストルは仕方なさそうにそっぽを向くと、海音を背中の後ろに隠す。
路地を駆ける音がいくつも重なり、やがてシルヴェストルを左右から傭兵団が囲む形になった。
「こいつ。どこから入った?」
「そのような言い方をするな。子どもの前だ」
荒っぽそうな男がシルヴェストルを睨んで言ったが、先ほど先頭にいた青年が出てきてたしなめる。
シルヴェストルが睨みをきかせながら言葉を放つ。
「通してもらえないか。帰る」
リーダー格らしい青年は一瞬迷って、やんわりと尋ねてきた。
「どちらの方かお聞かせ願えると幸いです」
「かかわり合いになりたくない。子どもを怯えさせないでくれ」
精霊は海音の肩を引き寄せて、守るように前に立ちはだかる。
(シヴ様は、僕がさっきのことを訊かれたくないのをわかってるんだ)
言葉にしたわけではないのに理解してくれた。そんな精霊に海音は感謝と申し訳なさを抱く。
青年はひとつため息をつくと、うなずいて言った。
「わかりました。……お通ししろ」
「しかし」
「あまりお引き留めしては失礼だ」
青年はあっさりと引き下がり、細い路地を引き返すように指示する。
「君」
青年はふいに海音の目線の高さまで屈みこんで微笑んだ。
「ありがとう。助かったよ」
逆光でよく顔形はわからなかった。
「あ」
彼は碧色の瞳をしていた。公国の空と同じ色だった。
彼はすぐに踵を返したので、それ以上海音はみつめることができなかった。
(あの、碧の瞳……)
それは海音が公国を目指すきっかけになったもの。
――公国へおいで。
海音にもう一度生きる希望を与えてくれた人の瞳に、よく似ていた気がした。
(そんなはずない、そんな偶然……)
恥ずかしくて、もどかしくて、言葉にならない。
海音は赤くなった頬に気づかないまま、シルヴェストルの後ろを一生懸命ついていくことしかできなかった。
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