8 言えない言葉

 箱庭の中はいつも静かで温かさに満ちていて、うたたねしてしまいそうな時間が流れている。

「これから嵐を起こす」

 市場での騒動の後、シルヴェストルは箱庭へ海音を連れ帰ってきて言った。

「時には激しい雨も必要だからだ。学校は休みになる。お前はここにいろ」

 食事は海音も買い込んでいたが、シルヴェストルも後から持ってきてくれた。いつでも昼寝ができるよう、寝具も用意してくれたことに海音は驚いた。

 海音は食事以外には勉強をしたり、神殿の外で動物を探したり、神殿を探検したりしていた。

 いつも光がさんさんと差し込んでくる箱庭の中では時間感覚がない。つい海音は勉強や遊びに夢中になってしまった。

「時間だ。食え」

 そう言って食事の部屋に海音を連れてくるシルヴェストルがいなければ、本当に食事をすることすら忘れていた。

 海音が珍しい動物を追いかけているうちに疲れて眠ってしまった時も、気づけば寝室に戻されていた。シルヴェストルが運んでくれたことがわかって、海音は恥ずかしさに後で現れた彼の顔を直視できなかった。

(どうしよう、僕)

 何不自由ない生活、安息の日々、けれど海音は段々と不安になってきた。

(このままでいいはずない。僕、何もしてないじゃないか)

 海音にはやって来た身で、守られて当然とは思えない。

(せめて食事くらいは自分で用意するべきなんじゃないかな。精霊様に買い物をさせるなんてしちゃいけない)

 ふと海音はうつむいて思う。

(……あの碧の瞳の方、どうしてるかな)

 彼はみなを束ねる立場にあるようだった。しかし傭兵という職業では、いつ公国を離れるかわからない。

(もう一度、傭兵の詰め所に行ってみたいな)

 そう思ったのは、箱庭に引きこもってから三日目の朝食を終えた後だった。

 シルヴェストルは大気の中に出かけている。海音もいつもであれば、書き取りの練習を始める時間だった。

 立ち上がって神殿の奥に向かって歩いていく。

 箱庭の出口は、慣れればわかるようになった。開いている扉から出入りするようなもので、特別なことをする必要もない。惶牙に訊いたら、マナトには自然に備わっている力なのだという。

 碧玉の壁に片手を当てる。吸い込まれるように、海音の体は外へ引っ張り出される。

 ざぁっと一気に雨が降りかかった。頭からローブを被っていたが、あっという間に前髪が濡れる。

 久しぶりの外は真っ暗だった。もう朝のはずなのに、空は雨雲で覆われていて太陽も見えない。嵐は続いているようだった。

(ここは……三番通りかな)

 海音が出たのは公国の街の中だった。公国にはたくさんの露店があるが、普通の商店も立ち並ぶ地域がある。海音が出たのはちょうどその区域のようだった。

 ゴロゴロと不穏な音を鳴らす空から身をすくめた自分に気づいて、海音は慌てて背筋を伸ばす。

(雷くらいで逃げちゃ駄目だ。まず傭兵所へ行こう)

 傭兵の詰め所は公国の東西南北それぞれに設置されている。そのどこに彼がいるかはわからないから、一つずつつぶしていくしかないだろう。

 海音は雨の中を早足で歩き始める。いつもは行き交う人々に溢れている石畳の道は、今日は全く人通りがない。数日間に及ぶ嵐は、人々を家の中に閉じ込めているらしい。

 海音が歩き出して数刻で、天候が悪化してきた。

 ローブでは防ぎきれないほどの大粒の雨が降り注いで海音の手足をびっしょりと濡らす。頭上では、空が段々と狭い間隔で光り始める。

「ひゃっ!」

 カッと空が眩しく光った時、海音は思わず耳を押さえていた。

 森の中に雷が落ちる衝撃音がした。海音は何とか耳から手を離したが、その手は海音の意思では止められないほど震えている。

 前へ歩くことだけに集中する。そうでないと動けなくなってしまいそうだった。

 頭をよぎるのは、故郷から逃げ出したあの日のことだった。

 背中に焼け付くような痛みを背負っていた。目はほとんど見えず、何度も足をもつれさせて転んで、その度に二度と立ち上がれないと思った。

 その日も嵐だった。天を覆うように雷鳴が轟き、何度も雷が落ちた。

 轟音を聞くたび、心臓が止まりそうだった。それは太刀の閃きに似ていた。

 ……海音の背中を引き裂いた太刀の激痛を、雷鳴のたびに思い出した。

――死にたく、ないよう……。

 その時の苦しみが、再び蘇ろうとしていた。

「う……っ!」

 海音は背中を押さえる。

 もう治ったと思っていた背中の傷が激しく痛み出していた。

 心臓の音と一緒に、背中が引きつれるような痛みが走る。

 たまらなくなって走りだす。傭兵所へ向かう目的すら、恐怖の前に忘れかけていた。

 水溜りに足を取られて転ぶ。石畳にしたたかに体を打ち付ける。

 閃く光と轟音、熱い手足。体中が心臓になってしまったように、痛みに震える全身。

(箱庭と違って、ここは暗い……)

 海音はぐったりと体を横たえたまま、痛みと熱さと重さに指一本動かすことができなかった。

(でも、こっちの方が現実なんだ)

 そう思うと少しだけ楽になれる気がした。

 多くを望むから、失くした時が怖い。初めから望まなければ、傷つくこともない。

(もう嫌だ……痛いのも、怖いのも)

 そう思った途端目の前が真っ暗になって、海音は意識を失った。






 あの日のことを夢に見ていた。

 雷鳴が轟いていた。服は血と汗と雨を吸ってずっしりと重く、骨が軋んだ。

 海音は呆然と崖から海を見下ろしていた。嵐で荒れた海は、崖も削っているようだった

 ここから落ちたら助からない。

 僕が大人しく捕まれば、刀を受ければ……そのまま息絶えていたなら。

 空を引き裂くように金色の光が走る。断罪するように。

――僕が殺した。

 心臓が喉元までせりあがってくるようだった。

「ああぁっ!」

 海音は喉を潰すような絶叫を上げて覚醒した。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

「海音!」

 どこにいるのかわからず、混乱して手足をばたつかせた。そうしなければ恐怖と激痛に押しつぶされてしまいそうな気がして、海音は暴れた。

「落ち着け、海音」

「ぼくが……ぼくが! ゆるして! こわかったんだ! そんなつもりじゃなかった!」

 次々と目から涙が溢れて視界を滲ませる。

「お前は悪くない」

「死にたくなかった……死ぬのは、いやだ……ぁっ!」

「そうだ。だからいいんだ」

 誰かが海音を抱きしめてくれる。目はよく見えなかったが、海音は反射的にそれにしがみついた。

「よく逃げてきたな。よく生きていた。えらいぞ」

「……えらい?」

「ああ。お前はよくがんばった」

 いい子だと頭を撫でられる。不器用でぎこちないが、優しい手つきだった。

「ここにいろ」

 迷うことなくそう言われて、海音は一瞬だけ体が軽くなったような気がした。

 ぽろりと両目から涙が落ちて、少しだけ視界がクリアになる。

 海音は暑いくらいに毛布でぐるぐるに包まれていた。辺りは静寂に満ちていて、雷の音どころか風の気配もない。

「落ち着いたか」

 ぼやける視界の中で見上げると、そこにはシルヴェストルが形を取って座っていた。

「シヴ様……」

 毛布ごと抱きかかえられていることに気づいて、海音は途端に気恥ずかしくなる。

「ご、ごめんなさい」

 海音はとっさに言葉が出てこなくて困った。謝らなければいけないことが多すぎる気がした。

「わけのわからないこと言って……泣いて……暴れて……」

「構わない。悪い夢を見たのだろう?」

 シルヴェストルは碧玉の瞳で海音を見下ろしている。

「でも、あれは」

「夢だ」

 あっさりとそう言って、精霊は首を横に振る。

「公国に来る前のことは悪い夢だと思って忘れろ。マナトになった瞬間からお前は別の人間に生まれ変わった。そう思え」

 海音はうつむいて首を横に振る。

「僕は悪いことをしました。こんな僕がマナトになれるはずがありません」

「お前を選んだのは私だ。誰にも文句は言わせん」

 海音は顔が上げられなかった。

(慈悲で仮のマナトにしてもらえただけだ。いずれ、本当のマナトをお迎えになる)

「どうしても忘れられないなら、話してみる気はないか」

 それは普段そっけない言い方しかできないシルヴェストルにしては、ずいぶん優しい問い方だった。うつむいたままの海音をじっとみつめて、その言葉を待ってくれた。

(聞いたら、こんな優しい言葉もかけてもらえなくなるかもしれない)

 海音は唇を噛み締める。

(捨てられるのは嫌だ……一人は、もう嫌なんだ)

 目を硬く閉じて、海音はふるふると首を横に振る。

「……言えません」

 シルヴェストルはそれ以上追及したりしなかった。

「ならそれはもういい。だが一つ言っておくことがある」

 海音が顔を上げると、精霊はその頭をなでて言った。

「精霊は自分からマナトを手放すことはできない。しかしマナトはマナトをやめることができる。精霊の望みを聞き続けなければならないマナトにとって、それは唯一の拒否手段だ」

 少しだけ笑って、海音は返す。

「シヴ様は……僕に何も望んだことがないのに?」

「今のお前は幼い。成長すれば望むこともあろう」

 どんなことを望まれるかは想像できなかったが、海音はその時まで自分がマナトでいられるかどうかも自信がなかった。

「だからお前はいつでもここから出て行って構わない……が、せめて安全な所まで惶牙に送らせるゆえ、出て行く時はそう言え」

 短く息を吐いて、シルヴェストルは苦い口調で言う。

「……今回のように、何も言わずに出て行くことはやめろ」

 海音ははっとした。慌てて顔を上げて、シルヴェストルを仰ぎ見る。

「違います。ちょっと買い物をしに行こうとしただけなんです」

「食料は足りていただろう。外に出る必要はなかった」

「それは……僕も何かしなくちゃいけないと思って」

「何をするというんだ。はっきり言え」

 不機嫌そうな碧の瞳を見ていたら、海音は路地で出会った青年の目を思い出していた。

「……会いたい人が、いて」

「誰だ」

「な、名前は知らないんです。ただ、泥棒を捕まえた時に来た傭兵のリーダー格らしい男の人で、まだ若い……碧の目をした」

 シルヴェストルは一瞬黙って、なぜ、と呟いた。

「お世話になった人なんです。僕に名前をくれて、公国へおいでって言ってくれた……僕に希望を与えてくれた人で」

 かあと頬を赤くして海音は口ごもる。

「その人がいなかったら、ここに来ていなかったと思うんです。きっと僕のことなんて覚えていらっしゃらないだろうけど、でも」

「あの時先頭にいた男なら知っている」

 唐突にシルヴェストルは言った。

「あれに会いたいか」

 海音はこくりと頷く。小さな子どもが顔を真っ赤にしているのを見て、精霊は目を細めた。

「……また、こうなるのか」

 ぼそりと呟いた精霊の言葉はよく聞き取れなかった。海音がそれを問うように顔を上げると、彼は海音から目を逸らして言う。

「あれの居場所なら知っている。今度会いに連れて行ってやってもいい」

 言いながら海音の体を横たえて、シルヴェストルはしっかりと肩まで毛布をかけ直す。

「とりあえず今日はもう休め。熱が出るかもしれない」

「平気です。雷が苦手なだけで」

「休めといったら休むんだ」

 語気を強めて精霊は海音の肩を毛布におしつける。

「明日には雨も上がる。気負わず眠るんだ」

 海音はようやく体の力を抜く。

 そういえばと海音は碧玉の天井を仰ぎながら思った。

(ここ、箱庭だ。シヴ様が運んでくださったんだ)

 また迷惑をかけてしまったと、苦い思いがこみあげる。

(ここに来てから迷惑ばかり。僕ができることはないんだろうか?)

 額にシルヴェストルの手が触れた。そこから子守唄が流れ込んでくる。

 海音がうつらうつらとし始めても、シルヴェストルはそこに座ったままだった。

「……ルチル。私はいつまでもあれに敵わないらしい」

 苦悩に満ちた精霊の一言は、眠りに落ちた子どもの耳には届かなかった。

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