17 精霊の意思

 港町ヴェルグまでの旅路は安全そのものだった。元々盗賊の取り締まりが厳しく行われている街道で、幸い海音を狙ってくる魔獣にも遭遇しなかった。

 もし海音に何かあったとしたら、惶牙が助けたに違いない。ヴェルグまで、惶牙はずっとついてきた。言葉はもう通じなかったが、海音は彼の優しさを感じていた。

 野宿している夜中にふと目を覚ますと、すぐ側に惶牙がいる気配がした。危険がないように見守っていてくれたのだろう。彼にお礼を言うこともできず、眠ったふりをするしかなかった。

(ありがとう、惶牙)

 だがさすがにヴェルグの街に入ってからは惶牙の気配が消えた。海音は公国のすべてがそれで去ってしまった気がして寂しかった。

(栄えてるな)

 ヴェルグの街は七年前に来た時と変わっている様子はなかった。市があり、商館があり、港近くには倉庫が立ち並んでいる。

 行き交う人々は相変わらず人種も身分もばらばらなようで、海音は失礼にならない程度に彼らを見ながら歩いた。

 路銀は最低限しか持ってこなかったから、船賃を確保することを考えるとあまり長くは滞在できそうもなかった。海音は街道沿いで一泊野宿してから、早速港に急いだ。

「宵月まで乗せてもらいたいのですが」

「一般人は駄目だ。宵月が鎖国してることは知ってるだろ? 宵月の貴族や皇家にコネのある商船しか行き来は許されてない」

 困ったことは、渡る船が見当たらなかったことだった。宵月は閉鎖的な国で、原則外国人を受け入れない。元々は宵月の者であると言ったとしても、普通は宵月から出てきたのは罪人か訳あり者ばかりなので、船に乗せるのは嫌がる。

「奴隷になって行ったらどうだ? 坊ちゃんならいい買い手ができそうだ」

 露骨に海音にいやらしい目を向けてくる商人もいて、海音は嫌悪感を覚えながら即座に断った。渡るだけ渡って逃げてもいいが、運が悪ければどこかの貴族の家で一生飼い殺されることになるだろう。宵月の奴隷とはそういうものだ。

(そういえば、渡ってきた時は……)

 考えながら港を歩いていると、一際目立つ船が泊まっていた。

 商船とは一線を画する何かの怪物のような独特の船の形に、宵月の伝説の生き物、竜を描いた青い帆がはためいている。乗っているのは宵月人らしい黒髪と目鼻立ちをしているが、皆真っ黒に焼けていて屈強な船乗りばかりだ。

竜人りゅうじんの船だ)

 南の海域まで傘下におさめる海の民が、竜人だ。どこの国家にも属さず、海の中にある小さな島を転々として一生を海の上で過ごす。航海技術は世界一といわれる。

 その航海技術を狙って様々な国家が支配しようとしたが、海では彼らに敵うものはおらず、未だに彼らは自由な流浪の民だった。

「何か用か、坊主」

 海音がじっとその船をみつめていると、荷物を下ろしていた男が海音のところまでやって来た。

 年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろう。立派な体格に短い黒髪で、精悍な目鼻立ちをしている。

「立派な船ですね。見惚れてしまいました」

 久しぶりの宵月の言葉に海音は微笑んだ。その海音の顔をまじまじと見て、男はふいにぽつりと言う。

「お前、もしかしてチビか?」

「え?」

 その呼び方はどこかで聞いた覚えがあった。

 竜人らしい日に焼けた顔の中で、力のあるこげ茶の瞳と目が合って海音は思わず問い返す。

「ナギサさんですか?」

「やっぱりチビだな! なんだ、でかくなって」

 笑うと少年の頃の彼が目の前に浮かんでくるようだった。

「七年前はお世話になりました。僕を竜人の島で拾ってくださったんですよね」

 ナギサは海音が怪我を負って竜人の島に流れ着いたところを助けてくれた。まだ当時は十六くらいで、食事も取れなかった海音の世話をあれこれと焼いてくれた、優しい少年だった。

「あれからもう七年も経ったとは妙な気分だな。確かル・シッド公国に行ったんだったか」

「はい。とても素晴らしい国でした。ナギサさんはお元気でしたか?」

 まだ海音が海音という名を与えられる前に出会った人に、海音は複雑な懐かしさを覚えながら見上げる。

「俺は副船長になったところだよ。この船だ」

 指で指し示すナギサに、海音は頷く。

「一つの船を持つことはナギサさんの夢でしたよね。あと一歩ではありませんか」

「よく覚えてるな。うん。今でもそれが夢なんだ」

 あははという笑い方はまだ少年の頃と変わりがなかった。

「僕をヴェルグまで乗せてくれるように言ってくださったのもナギサさんでしたよね。あの時はありがとうございます」

「いやいや。仲間もそうしろって言ってたしな。それよりチビはどうしてここに? どっか行くのか?」

 海音は少し考えて、今宵月に渡る船を探していることを話した。しかしどこも商船ばかりで乗せてくれそうにないことも。

「よかったら乗ってくか?」

「え、いいんですか?」

「奴隷商人を乗せることは俺たちの主義に反するがな。そういうことなら手伝ってやるよ」

 竜人はおおらかな気質を持っているが、彼の物言いもまたその通りだった。

「僕は身元を保証できる人間がいません。決してご迷惑をおかけするつもりはありませんけど」

「お前、変わってないのな」

 苦笑して、ナギサは海音の頭をぽんぽんと叩く。

「チビのくせに何かと気を遣ってさ。なあ、俺たちは竜人だぞ? 海の上なら最強だ」

 乗ってけよと気楽に言ってくるナギサに、海音は一つ頷いた。

「路銀はあまり持っていないので、労働でも構いませんか? 下働きでも何でもしますから」

「お前みたいな細っこい奴にさせられるかっての。いいから乗れって。対価は公国や知っている国の話でもしてくれりゃいい」

 海音がどれだけ働くと言っても、ナギサは首を横に振った。

「……ああ、ただ一つ訊いておくが」

 言いにくそうに、ナギサはぽつりと問う。

「お前、男だよな?」

「あ……いいえ。もしかして女性は乗れないのですか?」

「い、いやそんなことはないけどよ。俺の母ちゃんだって船乗りだしな」

 ナギサは頭をかいて困る。

「女を乗せると、仲間から何かと、な。俺もそろそろ身を固めろって親父から言われてるんだよ」

「ああ、なるほど」

 海音はくすくすと笑う。

(そうか。そろそろそういう年なんだな)

「笑うな。お前だって年頃だろ」

「僕は一度もそんな話を持ちかけられたことはありませんよ」

「まあお前じゃ、隣に並ぶ女よりも目立っちまうからな」

「まさか」

 海音は口元を歪める。

(それにしても、僕も見た目で女性だといわれる時期になってきたんだな)

 時の流れを感じ取って、海音は少しだけ目を伏せた。







 二日の後に海音は竜人の船に乗せられて宵月に出発することになった。彼らは元々宵月の漁村と物々交換をすることがあって、たびたび宵月に上陸する。そのついでに、海音も下ろしてもらうことになった。

「噂通り、公国は実質公子が治めてるんだな。有能か?」

「ええ、とても。国民にも慕われて、他国との関係も良好に保っていらっしゃる」

 船で働いている竜人たちとはすぐに仲良くなれた。同じ宵月の言葉を操るもので気楽に話題に入れたし、彼らは人懐こくいろいろと話しかけてくれたからだ。

 宵月に向かって十日、特に問題なく船は進んだ。早ければ明日には島が見えるだろうと言われ、海音は彼らとの話に花を咲かせる。

「大公はわりと凡庸な人間だと聞いてたがな。そうか、息子は優秀か」

「そういう噂もありますけど、大公殿下はお人柄のとても良い君主であらせられるんですよ」

 外国人の歯に衣着せぬ言いように、海音はおっとりと返す。

「「公国に住まう者は皆公国の民」と仰って、外国人の居住を広く許してくださった方です。今は政治から身を引いていらっしゃいますけど、大公殿下を慕っている者も多くいるんですよ」

 確かに現在国を動かしている公子の方が有能であるという声もある。しかし外国人に寛容であった大公殿下の方針については、今でも公国内外から評価が高かった。

「公子は今度クレスティアの姫と婚姻を結ぶらしいな」

「ああ、もう伝わっているのですか」

「クレスティア側が大々的に公表してる。たぶん南まで知れ渡ってるよ」

 竜人たちは海の上にいるのが基本だが、それでも情報は掴んでいるらしい。アレンとクレスティアの皇妹との婚姻の話題も知っていた。

「クレスティアは最近加速的に勢力を伸ばしてるからな。宵月からは姫様が人質に行ってるが……そろそろ宵月に攻め込むんじゃないかという噂もあるくらいだ」

「そうですね。それは公国にいても伝わってきます。クレスティアが戦の準備をしていると」

「やっぱりか。だとしたら噂だけじゃないのかもな」

 現在は北方帝国のクレスティアが、竜人たちにとっては一番の関心事のようだった。

「姫様もおかわいそうになぁ。母君が身分の低い姫だったからな。もう人質になって八年になるかな」

「竜人の皆さんは宵月の皇族を気にかけて?」

 流浪の民である彼らに国への帰属意識などというものはないはずと思って、海音は問いかける。

「宵月の皇族がどうなっても俺たちは構わんよ。正直あそこの皇家は腐ってる。賄賂と特権階級の支配がはびこって、ちょっと金があれば男色と奴隷に入れ込んで、もうどうしようもない所に落ちてる」

 海音は目を伏せる。それを見て、一緒にいた竜人たちは慌てて手を振った。

「あ、悪い」

「いいんです。僕も知っていますから」

 公国にいても宵月の堕落は聞こえてきていた。宵月にいた頃に教養として教え込まれたことを後で思い返すと、とても居た堪れなくなることすらあった。

(だけど……ここまで落ちたか)

 宵月人である海音にまで堕落を表立って言えるほどになるとは、本当に宵月の評判は落ちるところまで落ちたのだろう。

(南方帝国に匹敵する文化と歴史を誇っていたはずなのにな。それは過去の栄華になってしまうのか)

 公国で長く暮らした海音にとっては、宵月に対する執着はだいぶ薄れてきている。しかし自分の故郷であることに変わりはなく、悲しまずにはいられなかった。

「だが姫様のことは、俺たち竜人も気にせずにはいられん。なにせマナトだからな」

 はっと息を呑むと、海音の反応を待っていたように別の竜人が話し出す。

「姫様が海を渡る時に、聖獣様がずっとついてきて航海の安全を守ってたんだからな。まったく、マナトを他国に人質に送るなんて。宵月は信仰を捨てちまったのかね?」

「そうだったのですか……」

 竜人たちは精霊信仰が強い。宵月も精霊を信仰しているはずなのだが、皇家には既にそれも失われているらしい。

 ガタガタと船がふいに不自然に揺らいだ。

「どうした? ちょっと様子を見てこい」

 リーダー格らしい男が下働きの少年に言いつけると、しばらくしてナギサを連れて戻ってくる。

「天候がおかしい。雲の動きが早いんだ。嵐になるかもしれん」

「は? 今朝の読みではそんな兆候はなかったはずだろ」

「そうなんだが」

 壮年の男に言われても、ナギサは深刻な顔を崩そうとはしなかった。

「潮の流れも奇妙でな。船の進みが悪い」

「甲板に出るか。悪い潮に乗っちまったのかもしれん」

 竜人たちが船室から出るので、海音も甲板に向かう。その間も、ガタガタと船底は奇妙な揺れを続けていた。

「これは……」

 空は既に真っ暗になっていた。だがそれはこの近辺の海域だけで、遠くはからりと晴れている。明らかに奇妙な空だった。

 ぽつりと空から雫が落ちたかと思うと、辺りに雨音が満ちた。次第に船を揺るがすほどの強さで雨は降り出し、帆を畳んだりと竜人たちは忙しく動き始める。

「海音は船室に行ってろ。大丈夫だ。確かに妙な空と潮だが、船が傷つくような動きじゃない」

「いえ……」

「……大変です!」

 ふいに見張り台にいた少年が叫ぶ。

「聖獣様が近づいてきます!」

「なんだと!」

 作業をしていた竜人たちが一斉に振り向く。

 雨でけぶる水面の向こうに、巨大な黒い生き物が見え隠れしていた。それは確かに潮の間を縫うように近づいてくる。

「ぶつかります!」

「舵を取れ! 聖獣様に傷をつけるようなことがあってはならん!」

 船長の叫ぶのが聞こえた。

 水の中に沈んでいるその姿はよく見えない。ただ黒い背びれだけが揺らめきながら、這うように水面を走る。

「つかまれ、海音!」

「はい!」

 急に方向を変えたためか、船は大きく傾いた。海音はナギサの助けを借りて船べりにしがみつく。

「追ってきます!」

 聖獣から逃げるようにして船は動くが、聖獣はこの船を追跡してくるらしい。

「宵月に近づくのを阻んでいるのか?」

 船長が言い出したことに、別の竜人たちも声を上げる。

「違いない。空も聖獣様も潮も、この船の海路を阻んでる。精霊様のご意思だ!」

 ざわめきが船内を走った。それだけで、竜人たちが精霊に抱く畏れが海音に伝わってくる。

「この船が? そんな、今までこんなことはなかっただろ?」

 海音は嫌な予感がした。直感で、彼らの思考が読めた気がしたのだ。

「……宵月に近づいてはならん者が乗っているのか?」

 視線が徐々に海音に集中する。半分は恐れ、半分は疑念で染まった瞳が向けられる。

(仕方の無いことだ。僕は余所者なのだから)

 海音は俯いて無言で佇む。雨が海音の黒髪をしとどに濡らしていく。

「ちょっと待て。海音が悪いと決まったわけじゃないだろう。まずは船の方向を変えて……」

「……いえ」

 確かに今一番原因を持っていそうなのは自分だと、海音は思った。

 ぎゅっと拳を握り締めて、海音は前を見据える。

「僕はここで降ります」

「よせ! 波だってまだ収まって……」

「あの光の差す空の下まで出られれば波は平静です。あと一日程度で着くのなら、体力の続く限り泳げばなんとかなります」

 この七年間泳ぎは川でしか行ったことしかなかったが、体力には少し自信があった。海が甘くないことは故郷にいた頃に身に染みてわかっていたが、今はそれを言っている場合ではない。

「ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」

 海音はそれだけ言って海に飛び込んだ。誰も止める暇はなかった。

(く……っ。予想以上に波が高い)

 波は覆いかぶさるような重みがあった。荷物を浮き袋にして、溺れないようにするのが精一杯だ。

 幼い頃の訓練を思い出しながら、海音は何とか波を掴もうとする。なるべく体力を温存できて、それでいて少しずつでも進む泳ぎ方を思い出しながら体を波に乗せる。

(……んっ?)

 ふいに足を掴まれるような違和感があった。ぐいと引っ張られて、波の下に引きずりこまれる。

(渦っ? まずい!)

 何とかもがこうと手を動かすが、今度は両足が引っ張られる感覚があった。顔が水面の上と下を行き来する。

「あ……っ」

 ついに体全体が水面の下に押し込められて、海音は息苦しさに目を閉じる。

 呼吸が急速に失われていく。それにつれて、体がどんどん沈んでいくのがわかった。

(僕、宵月の精霊様に嫌われてるのかな)

 ぼんやりと最後に思ったことがある。

(でもこれで僕の罪のつぐないになれば……それもいいか)

 意識が混濁するのと同時に、体を包む重力が反転した気がした。








 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 海音が目を開けると、そこは海の底だった。

「わ……っ」

 思わず口を押さえて息を止めたが、風が入り込むような感覚がしてその手をゆっくりと外す。

(息が、できる?)

 海の中だというのに呼吸ができた。体はふわふわと浮くが、歩くこともできる。

 数歩歩いてみて、海音はそこが海というには変わっていることに気づいた。

(畳が敷いてある。しかもあれって……襖?)

 見上げると天井もあった。遥か高くにではあるが、宵月の屋敷らしい梁が突き出ている。

(明りもあるし、なんだか高貴な方の御殿みたいだ)

 それにしても広い屋敷だった。巨人が歩いても頭がつくかどうかわからないほどの高さの天井に、部屋の幅は公国の城の大広間がまるごと入るほどゆったりと作られている。

 紙で出来た灯篭を見やりながら海音はとりあえず襖までたどり着く。

 そろりと開くと、目の前に巨大な口があった。

(え?)

 かろうじて声を出すことはなかったが、硬直した。それは動いてしゃべりだしたのだ。

「もう! 海に飛び込むなんてどんなやんちゃさんですか!」

 ぷりぷりと怒る声は、声変わり前の少年のようだった。それが巨大な口から出たことに、海音は目をぱちくりとする。

「すぐに箱庭に引き込まなければ溺れてましたよ! も、もしかしたら、もしかしないでも、しん……あわわわ! なんてこと!」

 わたわたとひれを動かすと、風のように水が波打って海音を押した。

 紺色の巨体は口も大きいが歯はなく、くりくりとした小さな目は近づいてみると何だかかわいらしい。

「……くじらということは。さっきの聖獣様ですか?」

「えっ? あ、ごめんなさい!」

 つぶらな黒い瞳を瞬かせて、鯨は少年特有の高い声で告げる。

「ぼく、宵月の聖獣ですよ。なんにも言わずに連れて来てごめんなさい」

「いえ。僕は海音といいます。助けていただいてありがとうございます」

 海音がぺこりと頭を下げると、巨大な鯨はぶんぶんと首を横に振る。

「ぼ、ぼくこそ。驚かせてしまって。ご主人がとりあえずあの船を止めて来いって仰るから……でもどうすればいいのかわからなくて、竜人の皆さんは怖がってるし、その、ぼく本当に気が利かなくて」

 言っている内に気落ちしてきたらしく、聖獣はしょぼんと肩らしきところを落とす。

「怖い思いをしたでしょうね! 飛び込むくらい追い詰めてたなんて、ぼく、ぼく……」

 心配そうにみつめてくる黒々とした瞳に、海音はそっと微笑み返す。

「いえ。箱庭にまで入れて頂いてありがとうございます。それで、船を止めるとはどういうことですか?」

「ああ、あのですね」

 海音が問いかけると、聖獣は少しだけ落ち着きを取り戻す。

「あなたをですね、宵月に入れてはいけないのだそうです。ご主人……宵月の精霊がそう決めました」

 海音は目を見開いて、少し沈黙してから言う。

「やはり僕が、ですか?」

「はい」

「どうして?」

 聖獣は少し考えて、首らしき部分を捻る。

「そこまでは教えてくださらなかったんですけど。公国の精霊様と話して決めたそうですよ」

「シヴ様が?」

 海音が眉をひそめると、聖獣は何かに気づいたように言う。

「公国の精霊様の名前をお呼びできるということは、あなたはマナトですね? ああ、だったら納得ですよ。自国のマナトを他国にやりたくないのは当然じゃないですか」

「でも僕は仮のマナトで。そして今はそのマナトですらないのですよ」

 聖獣はきょとんとしてうーんと声を上げる。

「マナトに仮なんてあるんですか? まあ、マナトをやめることは確かにできますけど。普通は精霊の側の思いは尽きたりしませんから、多かれ少なかれその後も干渉するものですよ」

「だって、お前などどこへでも行けと……」

 海音が口ごもりながら言うと、聖獣はくすりと笑う。

「あの?」

「ああ、ごめんなさい。ぼく、公国の精霊様のことは結構前から存じあげているので」

 聖獣は人間のようにため息をつく。

「……あの御方は本当に素直じゃないというか。何百年もお変わりないんだから」

「けれど何にしても、僕は宵月に渡らなければならないのです」

 海音は頭を下げて言う。

「宵月の精霊様にお目通りは叶いませんか? 僕に何か問題があるのなら罰は何なりと受けますから、どうか宵月に上陸させて頂けないでしょうか」

「ああ、頭を上げてください。ぼくに頼まれましても」

 聖獣は焦って首をぶんぶんと振る。

「ご主人は気難しい方で、自国のマナトとぼくにしか姿を見せてくださいません。それに頑固ですから、一度決めたことはそう簡単には覆さないと思います」

「ですが」

 海音は必死に頼む。

「少しでいいんです。どうか」

「できません」

 聖獣は迷わず海音の懇願を拒否した。

「ご主人の意思だけでなく、公国の精霊様の意思でもありますから。お二方は古くからの友人なんです。公国の精霊様が頼まれたからこそ、ご主人もすぐに命を下されたんだと思います。ぼくはそれに逆らうわけにはいきません」

 気弱そうだが彼の瞳に宿る光は聖獣としての使命で固められていた。

「どうして、シヴ様が。僕を嫌って……?」

 海音が泣きそうな目をして俯いたので、聖獣は慌てる。

「精霊が自国のマナトを嫌うわけがないじゃないですか! 心配なんですよ。あなたが自分の守れる領域から出てしまうのが」

「違います。そんなはずはありません。僕は酷いことを言ったのですから」

――嫌いです。大嫌い。

 悪い言霊とは言った者の心も傷つける。放った海音の心にも、その言霊は悲しく響いていた。

「宵月に戻れなければ、僕は自分の罪を償うことすらできないんです……」

 膝をついてうなだれる海音の前で、聖獣は困ったように身じろぎする。

「……あのう、あなたのこと、ぼくは覚えてるんです」

 海音が目だけを上げると、聖獣はどこか慈しむような目で海音を見下ろしていた。

「もう何年も前になりますけど、刀傷を負って意識を失っている小さな女の子を、ぼくは竜人の島まで背に乗せて運びました」

「あなた、が?」

 記憶にはないが、海音は宵月の崖から落ちて意識を失った後、気がつけば竜人の島で介抱されていた。そこまではかなりの距離で、偶然潮に流されたとは考えにくい。

「それは……気づかずに失礼しました」

「い、いえいえ。恩着せがましいことを言ってしまって。ええと、ぼくが言いたいのは……」

 もじもじとして、聖獣はかわいらしい目を海音に合わせる。

「あなたが無事に大きくなって、うれしいなぁと」

 照れたように笑う聖獣に、海音は温かいものが体に満ちるのを感じる。

(僕は宵月を出てからどれだけたくさんの存在に助けられたんだろう)

「ねえ、差し出がましいですけど、意見を言っていいですか」

「え、はい。どうぞ」

 海音は首を傾げながら問いかける。それに、聖獣は優しく目を細めながら言った。

「ぼく自身も、あなたを宵月に通さない方がいいと思います」

 海音が悲しい目を向けると、彼は首を横に振る。

「あなたはマナトにしてはどこも体に不自由が見えない。……でも、命への執着が弱い」

「弱い、ですか?」

「簡単に海に飛び込んだり、罰は何でも受けると言ったり」

 聖獣はじっと海音を見据えて言う。

「それは裏返せばとても儚く美しい心であり、魂なのですが。あなたを大切にしてくれる存在がいてほしいと思います」

「……それが、精霊様だと」

「そうです」

 海音は目を逸らしながら問う。

「僕に公国へ戻れと?」

「ぼくはそれをお勧めしますが、あなたはすぐに思い切れないでしょう」

 聖獣はこつんと海音の額をつつく。

「とりあえず公国の精霊様が干渉できない地へ行って考えるといいのではないでしょうか。たとえば南の帝国、北のクレスティア……は精霊がちょっと問題ですね。北に行くなら凍土まで行きませんと」

「凍土……」

 海音は顎に手を当てる。

「でも一番いいのは、公国の精霊様ともう一度きちんとお話されることだと思います。きっと、戻って来てほしいからちょっと意地悪してるだけですよ」

 首を横に振る海音に、聖獣はもどかしそうな顔をする。

「本当ですって。意地っ張りなんですよ、あの方は」

 聖獣がぶんぶんとひれを動かすと波が伝わってきた。海音はそれに苦笑して、顔を上げる。

「ありがとうございます。少し頭を冷やしに行ってきます」

 ここにいても、宵月に渡ることはできそうもない。

 北にいるまだ会ったことのない友人を思い浮かべて、海音は頭を下げた。

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