16 別れ
「……冗談だろ?」
一瞬の沈黙の後に言葉を発したのは惶牙で、シルヴェストルは口も利けないでいるようだった。
「どうしたんだ、突然? 何か悪いものでも食って……いや、それより具合が悪いんじゃないか?」
惶牙は海音の服の裾を掴んで、寝室の方へ引きずっていこうとする。
「顔色も悪いし、熱でもあるのかもしれねぇ。今日は一日寝てろ」
「惶牙。聞いて」
「いいから寝るんだ。お前は病人だ」
わたわたと海音を促す惶牙に、海音は向き直ってその顔を両手で挟む。
「僕は本気なんだ。マナトをやめる」
蒼い瞳と緑と金のまだらの瞳がぶつかる。惶牙はすぐに目を逸らしたが、海音は強く彼をみつめ続けた。
「あ、ああ。新しいマナトの心配をしてんのか? あのな、海音。マナトは増えたって前のマナトが追い出されるわけじゃねぇんだ。それにお前が嫌ならシヴだってマナトを迎えたりしねぇし、第一他の精霊の言葉を聞く義理はねぇし……、おいシヴ。お前も何とか言え」
助けを求めるようにシルヴェストルを見やったが、彼はまだ茫然自失で硬直している。
「それともアレンが結婚するから、公国にはいられねぇと思ってか? お前が遠慮する必要なんてどこにもないじゃねぇか。どうしてもっていうなら結婚の邪魔をしてやってもいいし……」
「違うんだ。惶牙」
海音は視線をさまよわせる惶牙の前に回りこんで、はっきりと告げる。
「僕は帰りたいんだ。故郷へ、宵月の国に」
海音の言葉に、惶牙は少しだけほっとした素振りを見せる。
「ああ、里帰りか。それくらいだったらシヴだって許すさ。なあ」
「一時じゃないんだ。宵月に骨を埋めたい」
海音は気づかれないように目を伏せて思う。
(僕は許されないことをした。父を、僕はこの手で……殺した)
ぎゅっと拳を握り締めて、海音は瞳の奥に悲しみを宿す。
(僕はその罪を贖わなければならない。……この命をもって)
海音が公国で七年暮らしても忘れることのなかった、宵月の側仕えとして絶対の掟だ。
故郷に戻ったら確実に海音は処刑される。それがわかっていても、海音は罪の意識を消し去れなかった。
(大切にされすぎて自分の身の程を忘れてはいけない。僕は罪人なんだ)
命を失うことの恐怖は、だいぶ前に乗り越えた。それでも帰りたいと言えなかったのは、二つの理由があった。
(アレン様が奥方様をお迎えになる時までは、お側で支えたかった。……そしてシヴ様が正式なマナトをお迎えになるまでは、僕でも何かの慰めになると信じていたかった)
海音は胸に宿る痛みに眉を寄せる。
(せめてその両方を叶えてくださる姫君に、一目、お会いしたかったけど……)
待っていればいるだけ、去る寂しさが膨らむ気がした。未練がましく、この優しい国に残りたいと思ってしまうに違いなかった。
「……認めぬ」
低く唸るような声が聞こえた。
考えに落ちていた海音が顔を上げると、シルヴェストルが睨むように海音を見ていた。
「私は認めない。故郷に戻らぬよう命じる」
「精霊の命令を拒否するため、マナトはマナトであることをやめられるのでしたね?」
海音は鋭く遮って言う。
「それがマナトのできる最後の拒否手段だと、シヴ様は教えてくださいました。僕はその権利を行使します」
言葉に詰った精霊を海音は強くみつめる。
その横から割り込むようにして、惶牙の声が入る。
「な、なんでだ。海音。今までうまくやってきたじゃねぇか」
「故郷に帰りたいんだ」
「気に入らないことでもあるのか? 悪いところがあれば直す。何でも言ってくれ」
「違う。そういう問題じゃない」
「海音。確かにここはお前が生まれた土地じゃねぇが、お前が宵月にいる以上の安らぎを俺たちはこの地に作れる。作ってみせる。何よりも大切にするから」
「……大切になんてしてくれなくていいんだ」
海音は泣きたくなる気持ちを抑えながら、ここで涙は禁物だと首を横に振る。
(大切になんてされなければよかった。そうだったら、きっとこんなに辛くなかった)
湧き上がってくる悲しみに胸が食い破られそうになりながらも、海音は懸命に言う。
「それなら言うよ。もう嫌いになったんだ。シヴ様も惶牙も」
気づけば海音はでまかせを口にしていた。何が何でも追及を振り払おうと躍起になっていた。
一瞬精霊が信じられないものを見たように硬直した。その横で、聖獣はうろたえながらも言ってくる。
「海音。悲しい言霊ばかり口にするな。いくらなんでも嘘だってわかる」
「嘘じゃない。嫌いだ。大っ嫌いだ。ここには二度と帰らない!」
激しい口調で言い放った海音に、びくりと精霊が肩を震わせた。
突風が部屋中に満ちる。シルヴェストルを中心に竜巻が起こったように風が暴れまわる。
「嫌い……マナトをやめるだと……っ」
大気をびりびりと震わせて、シルヴェストルがうめくように言葉を放つ。
それでも海音は目を逸らしてはいけないと、体を起こして耐えた。精霊の怒りを正面から受け止める。
「お前のようなマナトなど要らぬ……どこへなりと行ってしまえ……!」
海音は吹き飛ばされて柱に背中を打ちつけた。痛みに顔をしかめたが、海音は歯を食いしばって耐える。
かろうじて目を開けた時、精霊の姿はどこにもなかった。惶牙が駆け寄って来て海音を助け起こしながら、宙に向かって叫ぶ。
「シヴ、お前まで平静を失ってどうするんだ! 出て来い!」
「いいんだ。惶牙」
海音は首を横に振って、確かめるように告げる。
「僕は故郷に帰る。もう決めたんだ」
ゆっくりとこの国のマナトは目を伏せた。
その日の内に、海音は公国の様々な人々に別れを告げた。
「どうして? 公国をあなたも気に入ってくれたものだと思ってたのに。あなたはまだ子どもじゃない」
葵は海音の突然の言葉に当然のように反対した。
「学院に推薦して頂いたのに、こんなことを言い出すのは恩知らずだと思いますが」
「そんなことはいいの。また戻ってくるわけにはいかないの?」
申し訳なさそうに謝る海音に、葵は辛抱強く説得し続けた。
「君が決めたことなら仕方ないですが、精霊様とはよく話をしたのですか?」
セネカは海音の選択に疑問を見せた。海音はそれに満足な問いを返すことができなかった。
「もう決めましたから」
言葉の通りだった。海音は決めてしまっていた。誰に止められても、宵月に戻るつもりでいた。
皆海音の帰郷を惜しんだ。そして必ず付け加えるのを忘れなかった。
「また帰ってきていい」
結局アレンには会いに行くことができなかった。姫君の輿入れの準備に忙しいこともあったが、海音が会いたくなかったという理由が大きい。
海音が帰郷を宣言してから三日の後に、海音は出立の準備を整えて箱庭にいた。
「俺は嫌だ。頼むから行かないでくれ」
惶牙は海音の袖を引いて懇願した。悲しげに緑と金の瞳を歪めて海音を離そうとしなかった。
「どうしたら留まってくれる? 宵月にあってここにないものは何だ?」
「逆だよ、惶牙」
惶牙に嘘をつくことはやめていた。宵月に戻ったら殺されることは、言わなかったが。
「ここには宵月にないものがありすぎた。僕には眩しすぎて……触れ続けることが苦しいんだ」
「何を言ってる。ちゃんと説明しろ」
「ごめん。それはできない」
海音はぎゅっと惶牙を抱きしめた。
「辛いよ、惶牙と別れるのは。惶牙みたいなお兄さん、ずっと欲しかった。本当にありがとう」
「そんな言霊は聞きたくない」
首を振る惶牙から体を離して、海音は踵を返す。
「今、箱庭から出るな! シヴの言霊は生きてる。出たらお前はマナトじゃなくなる!」
シルヴェストルは三日前から姿を現さなくなっていた。それで構わないと海音は思っていた。
海音は振り返らずに箱庭を出た。いつもは大して気にならない重力が、今日はことさら重く感じた。
袖を後ろから引かれる。惶牙が海音の袖を掴んでいた。
「駄目だよ。僕は行く」
振り払って歩き始めても、惶牙は後ろからついてきた。海音は半刻ほど歩いたところで、振り返って叫んだ。
「ついてこないで!」
怒ったように放った叫びに、クルルという悲しげな呻きが返って来た。マナトでなくなったから、もう惶牙の言葉もわからない。
そのことに悲しみを感じながら、後は振り返らずに歩き続けた。怒られるからとすぐ側にはいないものの、離れたところに惶牙の気配はずっと感じていた。
海音は華やいでいる森を見上げながら歩みを進める。動植物がのびのびと育っている公国の森は、眩しいほどに美しかった。
気づけば足は高台の方に向かっていた。岩肌を慣れた足取りで登って、木々の匂いを感じながら上へ上へと進む。
ふいに開ける視界。眼下には、一面に公国の街があるはずだった。
(天気がよければ、もっと遠くまで見渡せるんだろうけど)
あいにくの曇天でぼんやりとしか見えないが、そこには確かに海音の知っている公国の姿があった。
公国に来て初めて惶牙に連れて来てもらった時と同じように、街は活気に満ちていて人々の声で溢れている。城の尖塔は碧玉で輝き、ざわめきが風に乗ってここまで上ってくる。
「う……」
ふいに目から涙が零れた。透明な雫はとどまることを知らず、ぽたりぽたりと赤茶色の地面に落ちていく。
(僕の第二の故郷。宵月が父の国だとしたら……ここは僕を育ててくれた国)
どれほど感謝しても足りない。一生かけても得られないほどのものをこの国は与えてくれた。
(惶牙、ちゃんと説明できなくてごめん。だって話したら、君は絶対に僕を帰してくれなかっただろう? 君はいつだって優しかった)
今も離れたところに感じる惶牙の気配に、海音は心の中で謝る。
(アレン様。お世話になったお礼すら言えませんでした。どうかお幸せに)
煌びやかな城にいるであろうこの国の公子に、海音は祈りを捧げる。
(……シヴ様)
涙で滲んでよく見えなかったが、碧玉の空を仰いで海音は呟く。
「ありがとうございました。あなたの国に永劫の栄えあれ」
深く万感の思いをこめて頭を下げた。
聞こえていなくとも構わなかった。ただずいぶんと長い間、海音は公国の精霊と公国そのものに、礼を取り続けていた。
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