15 来たる時
うららかな昼下がりに、学院の庭で本を読んでいる十台前半ほどの少年がいた。
華やかな私服を楽しむ貴族の子女とは違い、支給された薄緑のローブと紺色の帽子に黒い靴という地味な格好だったが、見たものにため息をつかせるような雅な雰囲気を持っていた。
絹のように滑らかな黒髪は伸ばして頭の高い位置で縛っており、零れ髪が染み一つない象牙色の肌にかかっている。涼しげな切れ長の目の奥には青い瞳があり、柔和な表情が穏やかな性格を伝えていた。
美しい少年のようにも見えるが、女性の格好をすれば目を見張るような麗しい令嬢だった。中性的な姿が、陽だまりの中に溶け合うように存在していた。
芝生の上で本を広げていた少年の元に、小鳥が舞い降りてきた。
「おいで」
微笑んで少年が手を差し出すと、小鳥は何かに気づいたように少年の顔をみつめて、そっとその手にとまる。
「これは北の奥地の民族についての本なんだよ。凍土に住まう人々の文化を、よく知っておきたいからね」
細い肩を包んでいる薄緑のローブが風でゆらめく。小鳥は少年の手からその肩に移って、くちばしで軽く肩をついばむ。
「くすぐったいよ」
くすくすと少年は笑って、小鳥の頭をそっと撫でる。
「君は北の地に行ったことがあるのかな。その小さな羽根では、楽な旅ではないだろうけど」
ページをめくろうとして手を伸ばしたら、芝生を踏む足音が近づいてきた。
「海音」
ぱっと小鳥が飛び立つ。
女性の呼びかけに顔を上げた少年は、すぐに笑顔を浮かべて振り向く。
「葵さん。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ。座ってもいい?」
「どうぞ」
海音は隣を空けると、葵はそこに腰掛ける。
「ルナさんはどうですか?」
「元気いっぱいで遊びまわってるわ。算術も少しずつ教えてるけど、まだまだ遊びに夢中の年だから、無理はさせないようにしてる」
「賢い子ですね。教えたこと、すぐ覚えてしまいますから。僕では先生が務まるかどうか」
葵の娘の様子を思い出して、海音は苦笑した。
「何言ってるの。学院の首席が教えてくれるなんて、下手な家庭教師より余程いいわ」
「この間偶然取れただけですよ」
「あなたの実力よ。学院に推薦してよかったと思うわ」
海音は二年前に清華の学校から貴族の子女や裕福な商家の子、研究者が通う学院に推薦をもらって、そこで学び始めた。
「いろんなことを学ばせて頂いて、毎日充実しています」
庶民の海音には戸惑うことも多かったものの、元々学ぶのが好きだったから嬉しかった。二年経った今では首席の立場にある。
「こんなに綺麗になっちゃって」
がばりと海音を抱きしめて、葵は海音の黒髪を惜しそうに撫でる。
「男装しない方がいいんじゃないの?」
「いえ」
海音は首を横に振ってきっぱりと言う。
「僕は自分が男であるという気持ちでいますから」
「ううん。今のあなたも凛々しくて素敵だけど、一度くらい華やかなドレスでも着せてみたいわ」
「ドレスに着られてしまいますよ」
冗談と取って海音は笑う。
「講義は?」
「今日は午前だけですから。葵さんにお時間があれば、少しお話でも」
葵と海音は二人で他愛ない話をした。娘のルナのこと、海音が勉強を見ている子どもたちのことを、時々笑い合いながら語る。
「あ、私はそろそろ」
「お引きとめして申し訳ない」
「ううん。海音はこれからどうするの?」
「僕はアレン様のところに本を返しに行きます。夕方に伺うことになっているんです」
「ふうん」
葵は意味ありげに目を細めて海音を見る。
「相変わらずアレンに目をつけられてるのね」
「目をつけられてるなんて。お世話になっているだけです」
海音は困ったように首を傾ける。それに、葵は手を振って答えた。
「あなたが迷惑ならきっぱり断ってもいいのよ。奨学金が切られたりしないように私がついてるんだから」
「いいえ」
海音はまだ少し幼いはにかみを頬に浮かべる。
「迷惑なんてとても。そろそろ僕も行きますね」
海音は慌てて立ち上がると、本を抱えて歩き出した。
彼女は同年代よりは小柄であるが、清楚な雰囲気と優しい物腰、そして人目を引く美貌を持つようになった。
海音が公国に来て七年。彼女は十三歳になっていた。
城に入って控え室で待たせてもらっていると、アレンは少し遅れてやって来た。
「ごめん。待たせたね」
「いえ。ご足労いただきありがとうございます」
立って礼を取る海音を引き寄せて、アレンはその手にそっとキスを落とす。
ごく自然な仕草でされることに、海音はまだ慣れない。昔のように頭を撫でられるならともかく、女性のように扱われると気恥ずかしくなる。
「お借りしていた本です。楽しく読ませて頂きました」
「君は極北の民族が好きだね。あまり研究してる者もいないくらいなのに」
「凍土に友達がいますから」
公子は不思議そうに首を傾げたが、海音は優しく笑い返しただけだった。
「アレン様はどのようにお過ごしで?」
何気なく話題を振ったつもりだったが、なぜかアレンは難しい顔をして言葉に詰った。海音はその変化に訊いていいのかためらった。
「いや、どうせすぐにわかることなんだが」
アレンは目を伏せて話し始めようとする。
「実は……」
「殿下、ここにおいでですか!」
扉が開け放たれて、そこから大臣の一人が飛び込んでくる。
「準備は山ほどあるのですぞ。まずは国民にこの慶事を公布しなければ」
「来客中に無礼ですよ。下がりなさい」
そっけなく言った公子に、海音は立ち上がって大臣に礼を取る。
「いいえ。お忙しい時にお時間をいただいてしまいました。僕はこれで失礼します」
「ああ、これは海音殿」
既に顔なじみである立派なあごひげの大臣は、海音を見ると複雑な表情になる。
「海音殿ならおわかりくださいます」
大臣はアレンに確認するように言ったが、彼は眉を寄せながら腕を組んだ。
「ではせめて私から話しましょう。海音」
アレンは公子としての口調で海音に言う。
「クレスティアの皇妹殿下が、このたび降嫁されることになった。……私との縁談だ」
海音はすぐに微笑んでアレンを見上げた。
「おめでとうございます。公子様」
「ほとんど皇帝のおしつけなんだが」
「これ以上の良縁はありません」
海音はうやうやしく続ける。
「公国はますます栄えるでしょう。セルヴィスウス帝は賢帝と評判の御方。妹君も、きっと素敵な姫君であらせられますよ」
「あの性悪皇帝の妹がか」
「アレン様」
たしなめるように海音は言葉を放つ。
「もう決定事項なのでしょう?」
海音にしては珍しく、強く告げた。今はそうすべき時だと思った。
大臣はためらいがちに言葉を挟む。
「殿下、海音殿のお人柄は家臣共々よく存じております。姫君には相当の礼を尽くさねばなりませんが、海音殿をお側に置かれても……」
「黙れ。海音を愛妾にはしない」
アレンは鋭く大臣を責める。
海音に身分はないに等しい。いくら身分に関して寛容である公国においても、海音が公妃になれないことは彼女自身もよくわかっていた。
(ますます遠い御方になってしまうな)
だから海音も傷つくことはなかった。……少し、寂しいと感じることはあったが。
「お輿入れはいつになるのでしょう?」
「一月後ですな。今回は皇帝きっての希望でございますから」
「そうですか」
海音はもう一度アレンに向き直って、深く頭を下げる。
「改めて、お喜びを申し上げます」
喜びの中に寂しさが混じり、密かな決意も湧き上がる。
(一月か。短いな……)
海音の心に、その時間はくっきりと刻まれていった。
箱庭に戻ると学院用のローブや帽子を取って、海音は夕食の支度を始める。
(以前は狩ることもできない時期があったな)
うさぎを狩ってさばきながら、海音はぼんやりと思う。
(でも僕が食べるものを惶牙に任せるのはいけないからと、僕に狩らせてくれるように頼んだんだっけ)
「海音。どうした?」
傍らで調理を見守っていた惶牙が問いかける。それに、海音はふるふると首を横に振った。
「時の流れをね。思ってた」
「何だ。まだ子どもなのに」
惶牙が顔を寄せて海音の頬を舐めると、海音はくすぐったそうに笑う。
果物や肉を葉の皿に乗せ、スープを皿に盛る。来たばかりの頃はシルヴェストルに手伝ってもらうこともあったが、今ではすっかり慣れたものだった。
「シヴ様。できました」
海音が呼ぶと、風が渦巻いて精霊の姿が現れる。
成長した海音と違い、シルヴェストルの姿は七年間で少しも変わりがない。二十歳ほどの、精悍な青年のままだ。
「今日の公国の様子はどうでしたか?」
「特に」
「それは良いことですね」
「お前は」
「そうですね。今日は朗報を聞きました」
言葉遣いもそっけないままだが、その物言いに慌てることはない。海音は穏やかに頷き返して、ゆっくりと食事を進めながら話し始める。
「アレン様がご結婚なさるそうです」
「らしいな」
「お相手はクレスティアの姫君だそうですが、シヴ様はご存知ですか?」
「耳にはしている」
シルヴェストルは特に興味がなさそうに振舞ってはいたが、少しだけ目が不自然に動くのを海音は見て取った。
「あの赤子が結婚か」
くすりと海音は笑う。
「シヴ様にとっては、公子様も赤子なのですね。シヴ様も嬉しく思われますか?」
「私は別に」
目を逸らして、シルヴェストルは黙る。
「……お前は」
沈黙の後、シルヴェストルは探るように言葉を漏らす。
「いいのか。アレンが結婚しても」
「僕は国民としてお喜びを申し上げるだけです」
「お前は……アレンを気にかけていたのではないのか」
ためらいがちに言葉を口にしたシルヴェストルに、海音は彼の心を察した。
(僕のことを心配してくださっているのかな)
「アレン様のことは、お慕いしておりますけど。とても僕がお並びできる立場にないことはわかっておりましたから」
「妨害してもいいのだぞ」
唐突な言葉に海音が目を瞬かせると、シルヴェストルは難しい顔をしていた。
「何を仰います」
「マナトであることを公表すれば、国民の支持は得られよう。公国の精霊信仰は強い方だ。決して身分違いなどではない」
「シヴ様」
海音は首を横に振って、きっぱりと言う。
「僕は公国のこともアレン様のことも想っております。どちらのためにも、アレン様は良縁の姫君と結ばれた方が良いのです」
少し冷めたスープを飲み干して、海音はシルヴェストルに微笑みかける。
「僕はただ祈るだけです。クレスティアの姫君が、公国の新しい光とならんことを」
ふいに風が吹き込む。それに海音と惶牙は不思議そうに顔を上げて、シルヴェストルは眉を寄せて立ち上がった。
「……何を覗いている。出て来い」
剣呑な調子で放った言葉に、食事の席の数歩先で風が渦巻いた。
「えへへ。ばれちゃった?」
あどけない声と共に現れたのは、五歳ほどの少女だった。
ふんわりとした金色の髪が揺れて、ぱっちりと大きな青い目は悪戯っ子そのものの輝きを放っている。
「公国のマナトはどんな子かなぁって思って」
ところが彼女は宙にふわふわと浮いていた。海音に近づいて来て覗き込む。
「わぁい、かわいい! シヴの趣味も悪くないねぇ。でもエッダのセシルには敵わないもんね!」
うふふと笑って、少女は頬を両手で押さえる。
「出て行け。箱庭にまで入りおって」
肩を震わせて怒りをこらえているシルヴェストルに、彼女はまるで動じた様子もなく空中でくるりと回転する。
「愛の巣に余所者は入れたくないって? わかるわかる」
「あ、あの」
海音は立ち上がって、丁寧に礼を取る。
「精霊様でいらっしゃいますか?」
「うん、そーなの。クレスティアのエッダなんだよ」
「初めまして、僕は海音といいます」
「いい子。よしよし、公国が嫌になったらおいで。エッダが大事大事してあげる」
ふわりと飛んで海音の頭を撫でる。もっとも形のない今の彼女では、その手が海音に触れることはなかった。
「……出て行け」
シルヴェストルがエッダの襟首をつかむ。精霊同士なら触れることができるらしく、彼はエッダをつりさげたまま正面からにらみつけた。
「だーめだめ。エッダはね、シヴにお願いがあって来たんだよ」
「貴様の願い事なんぞ耳に入れたくもない」
「もー。話は最後まで聞くものなの」
指を立てて、チッチッと振りながらエッダは言う。
「今度エッダのマナトがね、公国に嫁ぐことになったの」
海音はその言葉に目を瞬かせる。
「セシルはとってもかわいくて優しい子なのに、他所の国なんかに行くことになっちゃって。あの皇帝が決めちゃったんだ……えぐっ!」
エッダは突然小さな子どもそのもののように、顔を上げてわんわんと泣く。それにシルヴェストルと惶牙はまたかという顔をして、海音は慌てて駆け寄った。
「辛いことをお聞きしてしまいました。どうか泣かないでください」
「えっく、えぐ……ひっく。セシルがぁ……エッダのセシルが」
彼女はしゃくりあげて溢れる涙を手でごしごしと擦る。
「セシル様……クレスティア皇帝陛下の妹君の?」
「うん……ほんといい子で……」
宥めるように何度も頷きながら、海音はそっと言葉を返す。
「夫となられる公子様はとてもお優しい方ですから、きっとセシル様も……」
「かわいくてか弱くて、エッダが守ってあげないといけない子なの!」
「とても繊細な姫君なのですね……」
海音は心配そうに顔をかげらせながらも言う。
「必ず公子様が支えになってくださいますから、どうか」
「そんなのわかんないよ! 人間だもん!」
エッダはぽろぽろと涙を零しながら首を横に振る。
「ちょっとした気まぐれで捨てるのが人間だもん。エッダたち精霊のように永久に愛し続けることができない弱い生き物!」
くるりと振り向いて、エッダはシルヴェストルを見る。
「だから同族に頼むの。シヴ、セシルを守って」
「何を言い出す」
「エッダは国を離れたセシルを守ることができない。マナトにしてもいいから」
「マナトを選ぶのは私だ。それにマナトには海音がいる」
エッダは涙を拭って、ちょっとだけ笑う。
「精霊ならきっと気に入るよ。マナトは何人迎えてもいいんだし」
それだけ告げて、エッダは手を振る。
「ばいばい。任せたからね」
一陣の風となってエッダは消える。それを見て、シルヴェストルは不機嫌そうに腰を下ろす。
「好き勝手に言いおって。これだからあの精霊は好かんのだ」
はき捨てるように言って、シルヴェストルは立ったままの海音に何気なく声をかける。
「食事に戻れ、海音」
海音はシルヴェストルの声が聞こえていないように立ち竦んでいた。
(マナト……シヴ様の)
海音は呆然としたように虚空をみつめながら思った。
「海音?」
訝しげに精霊がもう一度声をかけても、海音はぴくりとも動かなかった。
眠れない夜だった。
海音は惶牙を起こさないようにそっと寝返りを打つ。
(アレン様はご結婚。シヴ様にはマナト)
何時間も寝転んでいると、凍りついたような頭も少しずつ落ち着いて来ていた。
(来るべき時が来ただけだ。僕はそれを受け入れなきゃいけない)
繰り返し自分に言い聞かせるように海音は考えを巡らす。
(決めていたはずじゃないか。この時が来たら、僕がどうするべきか)
目を開けて天井を仰ぐと、光を帯びた鉱石の柱が真っ直ぐに伸びている。
一度シルヴェストルに訊いたが、この柱は碧玉のように見えるがそうではないらしい。地上には存在しない鉱石でできているのだそうだ。箱庭の中というのは何もかもが人の世界とは違う。
(七年間。僕はここにいたんだ)
自然と心が安らぐような光を受けて、海音は目を細める。
じわりと視界が滲む。すべての輪郭が淡くなり、混ざっていく。
(シヴ様と、惶牙と、一緒に……)
その夜、声も上げずに海音は泣いて、久しぶりの鮮烈な心の痛みを抱いた。
翌朝の朝食の席で、海音の顔を見るなりシルヴェストルは眉をひそめた。
「どうした。眠れなかったか」
「いえ」
短く答えた海音に、彼はなお言葉を重ねる。
「学院も休みに入ったのだろう。無理をするな」
海音は俯いて苦笑した。
(いつも無口な方なのに、こういう時は言葉を惜しまれないんだな)
それは胸に染みて嬉しかったが、海音は首を横に振った。
無言で食事を進める。いつもならシルヴェストルに話しかけながら穏やかに進む食卓で、海音は一言もしゃべらない。
「どうしたんだ? 海音」
「具合でも?」
惶牙はそわそわして、シルヴェストルも腰を上げて海音の額に手を伸ばした。それに海音は首を横に振るだけで、やはり言葉を返さない。
シルヴェストルと惶牙はどうしたのだろうと目配せするが、海音は終始無言だった。
「……シヴ様、惶牙。聞いてほしいことがあります」
食事が終わった時、海音は二人を交互に見て、一度ためらってから言った。
「僕はマナトをやめます」
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