14 十年前
アレンは海音を抱きかかえたまま城の中に入った。
「寝台の用意を。医師を呼んでくれ」
「は」
侍女たちはアレンの言葉に一礼して足早に去っていく。海音がどこの子どもかと詮索する様子も一切見せなかった。
「お茶の支度はしてたんだけど、医師は準備してなかったから。少し待ってね」
「アレン様、あの」
「大丈夫。城の中は公開されることもあるし、妹だってよく動物を拾ってくるから。人間を通すくらいわけないよ」
何だかよくわからない理屈で片付けられてしまって、海音は抗議する間もなく客室に通された。
ここへ来るまでの様子は慌てていたのでよく見ていなかったが、客室は薄緑を基調とした調度でまとめられていた。壁にかかったタペストリーは公国の伝統工芸で、青い鉱石の染料が鮮やかだ。窓から光が差し込む先には、丸テーブルにレースが広げられている。
寝室には天蓋付きの広いベッドが置かれていて、目を白黒させていた海音は日の匂いがするシーツの上に優しく下ろされた。
「一体どうなされましたかな」
老医師がまもなくやって来て寝台の脇に立つ。
「熱があるようなんだ。衰弱してるように見える」
「ふむ」
アレンの言葉に頷いて、手を伸ばす医師に海音はぎくりとする。
「あ、あの。服脱ぐ、ちょっと」
「怪我ではないんでしょう? 脈を取ったり額に触れたりするだけですよ」
「それなら……」
海音が露骨にほっとした顔をするのを、アレンが静かな目で見下ろしていた。
海音の手首を取って脈をはかると、医師は神妙に言う。
「脈が弱いですな。今朝は何を召し上がりましたか?」
海音はどう言えばいいのかわからず困ったが、嘘をつくこともできなかった。
「食べる、できない」
アレンが目を光らせたことに海音はびくりとしたが、慌てて続ける。
「食べたくない、だけ……」
「精霊がそうさせたのか?」
海音はアレンの瞳に宿る不信感に気づいてはっとする。
(アレン様は、シヴ様を敵視していらっしゃる)
海音は首を横に振った。
「違い、ます。僕、食べない、だけ」
納得していない顔でアレンは口をつぐみ、そっと海音を覗き込む。
「だったら胃に優しい何かを作らせよう。どんなものなら食べられる?」
「殿下」
二人の会話を聞いていた医師が口を挟む。
「もしかしてこの少年はマナトですかな?」
「……ああ」
アレンが頷くと、老医師は海音に視線を投げかけた。
「精霊様は、またマナトをお迎えになったか」
それは何か物悲しい、嘆きを含んだ眼差しだった。
「シヴ様、公国、守って、ます。大切に。優しい、方」
海音はとっさにシルヴェストルを庇っていた。精霊のことを悪く言うのを聞きたくはなかった。
老医師は海音の感情を見て取って、優しく返す。
「わかっております。公国が人知を超えた何かに守られているということは。ただこの城の者は、どうしても……悲しまずにはいられぬだけなのです」
医師は深くため息をついて口をつぐんだ。アレンはまだ硬い声音で言う。
「私から話す。そのつもりで連れてきたんだ。下がっていい」
アレンにうなずくと、老医師は礼を取って去っていった。
「温かいミルクでも飲むかい?」
「あ、あの、水、で」
「水?」
それくらいしか喉を通らないとは言えずに海音が黙ると、アレンはそんな海音の様子を注意深く観察しながら、侍女に指示を出す。
公子はたっぷり砂糖を入れた、海音も飲んだことのある公国のお茶を持ってきた。海音の背中にクッションを入れてもたれさせると、自身はベッドの脇の椅子に腰掛ける。
「はい。よく冷まして飲みなさい」
「ありがとう、ございます」
幸い、茶葉をこした飲み物なら言霊は聞こえなかった。聞こえないからいいわけではないとはわかっていたが、海音はつい安堵の息を吐いてしまう。
「食べ物も喉を通らないくらい切羽詰ってるなら、もう精霊のところに帰ってはいけないよ」
唐突に言われて、海音は顔を上げる。
「君が公国で身寄りがないなら、私が養親をつける。いずれにせよ、このままにはしておけない」
「どうして、ですか?」
海音は唇を噛んで必死に言う。
「なぜ、精霊様嫌い、です? シヴ様、一生懸命、公国、守って。僕にも、優しくて」
海音はアレンに、自分が信じている人を貶めてほしくなかった。
シルヴェストルが海音を思っていろんなことをしてくれたのがわかっていた。目を逸らしながらも、いつだって見守ってくれていた。
「マナト、殺された、とか。そんなこと、絶対、うそ……」
「事実なんだ」
アレンは海音を正面から見て言う。
「前のマナトは「箱庭」から出られなくなって、食事も摂れなくなった。栄養失調と病気で死んだ」
海音は冷水をいっぺんに頭からかけられたような思いがした。
食事を摂れなくなった、それはもしかしてと思ったのだ。
「……言霊、聞こえて?」
「わからない。ただ前のマナトは人の世界に戻れなくなったんだ。精霊に束縛されて」
アレンはテーブルの上で拳を握り締めて悔しそうに呟いた。
「精霊の望みにマナトは応えなければならない。精霊が箱庭に留まるように命じればマナトは逆らえない。それで精神をすり減らしたのか、食事が摂れなくなった」
海音はまだシルヴェストルに何かを望まれたことがない。だがそれは海音が幼いからで、いずれ望むことがあると言っていた。
「精霊はマナトを愛している。マナトがいることで孤独を癒す。けれどその愛はやはり人のものとは違う。もっと激しくて、歯止めがなくて、すべて奪いつくすものだ」
狩りの日に、空に浮かんだシルヴェストルの顔。あんな禍々しいほど激しい怒りを、海音は知らなかった。海音や惶牙が止めなければ雷を子どもたちに当ててしまっただろう。その瞳は冷酷な光に満ちていた。
知っているつもりだった。海音に果物を買ってくれた日、眠るまで子守唄を聞かせてくれた日、悪夢に怯えた海音を抱きしめてくれた日、そのすべてが海音の中に思い出として刻まれていても、それはたった二月の間に収まってしまうほど短い時間なのだ。
シルヴェストルが過去どのような姿でマナトと接してきたのか、そしてこれから海音に何を望むのか……それは海音にはまるで想像がつかなかった。
「……か、帰り、ます」
海音は起き上がって寝台から降りていた。
「海音?」
「帰らなきゃ」
海音はどうしてかそう強く思った。
アレンの言うことにはことごとく思い当たる節があって、信じるべきだとわかっていても、海音は無性に帰りたかった。
「君は怖くないのか? 殺されるかもしれないんだぞ?」
アレンは屈みこんで海音の両肩に手を置きながら言う。海音は首を横に振りながら言う。
「怖い、です。死ぬ、嫌です。でも、でも」
嘘は少しも言っていない。けれど海音はそれ以上に強く思った。
「シヴ様、命を奪う、そんなこと、しない」
海音は必死に言う。
「きっと、シヴ様、傷ついて、悲しんで。今も、苦しんで」
その苦しみを十年も抱えて生きていたのだと思うと、海音は悲しくて仕方がなかった。
「君は、なんて……」
アレンが信じられないとばかりに首を横に振って言葉に詰る。海音はふらつく足に力をこめて、しっかりと立った。
それからアレンがどれだけ引き止めても、海音はひたすら帰ると繰り返した。最後には送ると言ったアレンの申し出すら断って、海音は一人で城を出た。
(待っててください。僕、帰りますから……シヴ様)
走っていきたかったが、視界がふらついてうまくいかなかった。
森まで迎えにきてくれた惶牙がそれを見て、慌てて背中に海音を乗せて箱庭まで連れて行った。
夕食の席には、先にシルヴェストルが形を取って待っていた。
「シヴ様、教えて頂きたいことがあります」
人が見ていないから、シルヴェストルは幻想的な緑髪のままだった。若葉のように鮮やかな色は彼の瞳と同じ色で、海音はそれを真っ直ぐ見据えながら切り出す。
「前のマナトの方のことです」
傍らの惶牙が息を呑んだのがわかった。
シルヴェストルの表情は変わらなかったが、海音は続ける。
「前のマナトの方は、どうして……」
「アレンが話した通りだ」
海音が目を見張ると、シルヴェストルは淡々と告げる。
「箱庭から出られず、食事も摂れなくなり、死んだ。すべて私が望んだためだ」
「シヴ!」
惶牙が身を起こして叫ぶ。
「お前は……!」
「惶牙」
シルヴェストルは片手を挙げて惶牙の顔の前にかざす。
「ルチルのことは二度と口にするなと言っただろう。海音にも何も話すな」
一言精霊が呟くと、惶牙は喉が詰まったような声を上げた。
惶牙はがくりと首を垂れた。海音は怪訝な顔をして、惶牙の体に腕を回しながら言う。
「惶牙? 何をしたんですか、シヴ様」
「命じたのだ。精霊の望んだことに聖獣は従わなければならない」
シルヴェストルは凍りついたような目で告げる。
「ルチル……前のマナトにも望んだ。私の側から離れるなと。誰にも会わず、誰ともつながりを持たず、ただ私だけのものであるように。ルチルは従った。マナトであったから」
「本当にシヴ様が望んだのですか?」
シルヴェストルは冷ややかに言葉を紡ぐ。
「私は公国の精霊。マナトは私のものだ。私が何を望んでも勝手だろう」
ためらうことなく吐き出された言葉に、海音は顔をくしゃりと歪める。
「どうしてそんな悲しい言霊を紡ぐのですか? 大気が嘘だと言っています」
暗い光を宿した精霊の双眸から目を逸らして、海音は俯く。その頬を涙の雫が伝った。
「やっぱり僕では、シヴ様の慰めにはなれないのですか……」
微かに精霊は身じろぎした。うつむいた海音はそれには気づかずしゃくりあげる。
「えっ……く、ごめんなさい。わかってたことです。でも、まだ、捨てないでください……!」
ぽろぽろと涙を零しながら懇願する。精霊の手が震えたのを惶牙は見て取ったが、苦しげに歯を噛み締めてこらえた。
やがて海音は涙を拭うと、そっと席を立とうとする。
「お前の話はそれだけか」
「はい……」
頬に残った雫をふき取って海音が頷くと、シルヴェストルは硬質な口調で続ける。
「食事だ。食え」
シルヴェストルが用意したのだろう。緑の絨毯の上には、水とスープに果物、そして焼いた肉が並べられていた。
「すみません。とても……」
「駄目だ。今日こそは食わせる」
シルヴェストルは皿の上の肉を一切れ摘むと、それを口に運んだ。
「あ」
精霊が物を口にするのを見たのは初めてだった。彼は無表情でそれを咀嚼すると、飲み込んで告げる。
「うまい。まだ小鹿だからな」
「……え?」
海音は胸の中に風穴を開けられたような思いがした。
「こじか……って、まさか」
否定してほしいと願ってみつめた先で、精霊の無慈悲なほど美しい瞳が海音の目を射抜いた。
「矢傷を負っていたあの小鹿は、今朝死んだ。その肉だ」
「な、んて、こと……」
吐き気を抑えるように口を塞いだ海音に、精霊は棘のある口調で告げる。
「今までだって肉を食べてきただろう?」
海音はふるふると首を横に振る。精霊の言いたいことはわかる。だが今は恐怖感をこらえるのに必死だった。
「食え」
「で、できません!」
後ずさった海音の腕を精霊は強く掴んだ。
シルヴェストルは皿の上からまた肉を一切れ取る。海音は嫌だと首を横に振る。
シルヴェストルはふいに何かの感情に打たれたように黙りこくって、途方に暮れたようにつぶやいた。
「……食べてくれ」
どれほど強い命令より、その一言は海音を打った。
彼は前のマナトにも何度となくそう言って、受け入れられなかったのだろうと思わせたから。
罪悪感や嫌悪感が消えていって、何も言わずに肉を食べた。向かい側の席で、精霊も無言で食事をしていた。
皿が空になった時、海音は半分ほどをシルヴェストルが食べ終えたことに気づいた。
「二、三日留守にする」
それだけ告げて、シルヴェストルはふらりと姿を消してしまう。残された海音は、ぼんやりと座っていた。
「海音、大丈夫か」
「うん……」
金縛りが解けたように海音に擦り寄ってくる惶牙に、そっと腕を回す。
「僕、もう大丈夫。食べられる」
シルヴェストルに言葉以外で説得された気がした。受け入れてくれと彼は願った。
……それしか方法がなく、そしてまた、それでよいのだと。
海音は心配そうに見守る惶牙の前で、ゆっくりと他の食べ物に手を伸ばした。
翌日、海音が箱庭の外に出たら一匹の雌鹿に出会った。
「あ……」
この間見た小鹿に似ている気がして、海音はその正体に気づいた。
「君、もしかして……あの子のお母さん?」
恐る恐る聞いてみると、鹿は首を曲げて頷く。
「ごめん」
――どうして謝るのですか?
声も似ている気がした。今はもうこの世にいない、かわいらしい女の子の小鹿に。
――あの子の命は昨日で終わったのです。その後の体は朽ちていくだけなのです。
それでも母鹿には辛いことのはずだった。彼女は子どもを失った。
母鹿は海音に話しかける。
――精霊様は、これからは私たち森の生き物があなたに話しかけることを禁じました。
「……それだったら君は」
母鹿の声は少し笑った気がした。
――はい。私は精霊様の命に逆らったので公国からは出て行かなければなりません。
母鹿は内緒話をするように海音に近づいて言う。
――でもお話しておかなければ。精霊様はマナトに命じる代わりに、マナトの痛みを半分、背負わなければならない。
「半分? そういえば」
昨夜の晩餐を思い出して、海音はシルヴェストルも半分食べたことに気づく。
――精霊とマナトは名を結んでいますから。
首を垂れて、母鹿は厳かに告げる。
――……前のマナトは精霊様と絆が結べなかったのだと思います。
海音は眉を寄せて問う。
「絆とは、どんなものなの?」
――それはマナトと精霊様だけの秘密なのです。
母鹿は黙りこくった海音の頬にそっと顔を触れさせて微笑んだ。
――でも、あなたならきっと……。心優しい、小さなマナト。
穏やかな眼差しを向けられて、海音は戸惑う。
母鹿が去るまで、海音はその場に立ち竦んでいた。
太陽が昇ろうとしていて、まもなく公国を照らし始めた。
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