3 碧玉の都

 海音は物心ついた時から、日が昇る前に目を覚まして身支度をするのが日課だった。

 ヴェルグに着いてからも毎日それを続けた。習慣をつらいと感じることはなかったし、おそらくこれからもそうだろうと思っていた。

「ん……」

 ところが、今朝の眠りはあんまりに心地よくて目が開けられない。

 体がぽかぽかと暖くて、どこかで鳥のさえずりが音楽のように聞こえる。

 全身を包み込んでくれる、極上の肌触りの毛布のせいだろうか。

(いけない。寝過ごしちゃ……)

 そう思うのに、抗いがたい眠りがまぶたに下りている。

 海音はしばらく体を丸めたまま眠気と戦っていたが、やがて違和感に気づく。

(あれ。僕、こんないいお布団で寝るだけのお金なんてあったっけ)

 きゅっと長い毛足を握った。そうしたら、毛布はまるで笑うように身じろぎした。

 それでようやく海音は覚醒する。

 始めに映ったのは天を衝くような碧玉の柱だった。天から降り注ぐ金色の光を反射してきらきらと輝いている。

 海音を胸に抱いて寝転んでいるのは、見事な毛並みの金の豹だった。

「おはよう、海音」

 喉で転がすように笑われて、すぐに昨夜の出来事を思い返す。

「惶牙。僕……」

「シヴにしがみついて寝ちまったんだよ。疲れてたんだな」

 海音は気恥ずかしさに目を逸らしてからはっとする。

「グロリアさんたちは?」

「数刻前に発ったよ。あいさつもなしですまないと言っていた。一か所に長居しないのが決まりなんだ」

「そっか……」

「またすぐ会えるさ」

 海音は数日間で親しみを抱き始めていた二人を思う。

(ちゃんとご挨拶したかったな。でもお仕事なら仕方ない)

 惶牙は海音を見下ろしながら言う。

「外はそろそろ昼だ。腹が空いたろう? 今食い物を取ってきてやるからな」

 当たり前のように惶牙が言ったことに、海音は一気に目を覚まして起き上がる。

「僕も一緒に行っていい? 僕、ウサギくらいなら自分で捕ってさばけるんだ」

「お前が?」

 惶牙は目を瞬かせて驚いたが、すぐに首を横に振った。

「そりゃ大したもんだが、狩りは危ないから俺に任せとけ。お前はここで待ってろ」

「でも」

「いいから甘えな、海音」

 ぺろっと海音の頬を優しく舐めて、惶牙は目を細める。

「お前は俺とシヴにとってお姫様みたいなもんだ。……あ、悪い。女扱いは嫌だったな。まあとにかく、お前が怪我でもしたらと思うと俺たちは気が気じゃない。そういうわけだからわかってくれ」

「うー……ついて行くだけでもだめ?」

 海音が懇願するように首を傾げると、惶牙は困った顔をした。

「あー、わかったよ。じゃあ果物の場所を教えるからお前はそれを取ること。ただし目の届く所にいろよ」

 海音はこくんとうなずいて毛皮に顔をすり寄せる。

「わがまま言ってごめん、惶牙」

「かわいいなお前は。さ、行くか」

 惶牙は海音の襟首をくわえて器用に背中に乗せると、回廊を歩きだした。

「シルヴェストル様は?」

「あいつなら大気の中だ。めったにじっとしていない」

「大気の中?」

 惶牙の背中の上で海音は首を傾げる。

「天気や人間の様子を見て、悪化しそうなら調整してる。雲の量を減らしたり、風を送ったりしてな。あいつが公国に荒れた風や激しい雨を入れようとしないから、隣国の精霊とはいつも喧嘩ばかりだ」

 海音は感心して息をつく。

「国を、とても大事に見守っていらっしゃるんだ……」

「神経質すぎると俺は何度も忠告してるんだがな」

 惶牙は苦笑したが、それは親しみのこもった笑い方だった。海音はそれに気づいて微笑む。

「僕も何かお手伝いできることある?」

 ふと口元を緩めて惶牙は言う。

「そうだなぁ。じゃ、シヴと一緒に朝と夜の食事をとってやってくれるか」

 海音は初めて与えられた頼みごとに、ぱっと顔を輝かせる。

「シルヴェストル様はどんなものを召し上がるの。僕、取ってくる」

「いや、あいつは何も食わない。必要がないからな」

「そうなの……」

 残念そうな顔をする海音に、惶牙は宥めるように続けた。

「でもな、あいつには一日の決まった時間に休息を取ることが必要で、その間の話し相手になってやってほしいんだ。大事な役目だぞ?」

 そんな話をしているうちに、惶牙は神殿の最奥まで来ていた。

「惶牙、そっちは壁だよ」

 目の前には碧玉の壁がそびえたっているのに、惶牙は前へ歩む足を止めようとしない。

 ぶつかると、思わず海音が目を閉じた時だった。

 空気の匂いが変わって、体が重くなったような感覚があった。

 目を開くと、そこは神殿ではなく森の中だった。神殿の周りにあった金の光に包まれた森ではなく、雑多な生物の匂いがする。

「箱庭で狩りをするわけにはいかねぇからな」

 海音は考えて問いを投げかける。

「さっきまでのところが箱庭……で、ここは外なんだね?」

「そうだ。箱庭は安全で清浄だが、お前は外の空気も吸わねぇと」

 惶牙が言おうとしていることを海音は何となく理解する。

 箱庭は人の世界ではない。空気が甘くて体も軽い。それに慣れきってしまったら、人の世界で生きていけないのだろう。

 海音は木々の間から空を仰いで思わず呟く。

「空の色が違う……」

 そこに広がっていた空は青というより、薄い緑を引いたような色合いだった。

「公国の空はな、北風と砂を含んだ南風がぶつかってこんな色になる」

「それに何だか賑やかだね。どうして?」

「密林ほどじゃないが、動物の種類が多いからな」

 土の色も赤みを帯びて、乾いた匂いがした。

 音も匂いも眩しさも、今まで感じたことのないものだらけだった。

 海音は何かを発見するたびに声を上げた。

「わぁ……綺麗な鳥だ。惶牙、見てみて! あの鳥の羽、帝に献上する藍と金糸の反物みたいだ」

 惶牙の背中の上で飛び跳ねるようにしてはしゃいでから、海音ははっとする。

「……あ、ごめん。うるさくして」

「いいや」

 くっくっと喉の奥で笑って惶牙は言う。

「お前がこれからずっと暮らす場所だ。気に入ってくれると嬉しい」

「うん」

 海音はふと顔をかげらせて、声だけは明るく言う。

「仮のマナトだもんね。頑張っていっぱい勉強するよ」

「海音。あれはシヴの単なる」

「言わないで」

 気まぐれや哀れみだと言葉にされるのはつらかった。海音はふるふると首を横に振って、はしゃいだ声を上げる。

「あっ、滝だ!」

 前方に、真っ白な水しぶきを上げる滝が見えていた。海音は惶牙の背中から飛び降りて、まっすぐに走っていく。

「惶牙、早く早く!」

 滝からつながっていく川は、湖面の砂利が光って見えるほど澄んでいた。海音は振り返って惶牙を急かせる。

「綺麗な水だね。使っていい?」

「もちろんだ。そのために連れてきたんだからな」

「やった」

 海音は言うが早いか、水面に顔を突っ込んでぱしゃぱしゃと顔を洗う。

「水浴びしたらどうだ。さっぱりするぞ」

「あ……えと」

 惶牙は側まで来て言う。言葉を詰らせた海音に、惶牙は苦笑した。

「俺は確かにオスだが、人間の裸には特に何も感じねぇなぁ。ま、お前が気にするなら後ろ向いてるが」

「そうじゃないんだ。ええと」

 海音は考えるように目を伏せたが、すぐに首を横に振った。

「惶牙ならいいや。ね、一緒に水浴びしよう」

 海音はてきぱきと着物の前あわせを解いて体から落とす。つと惶牙が息を呑む気配がした。

 ……その背には、細い体を真っ二つに引き裂くような、深い刀傷があった。

「訊かないんだね」

 海音は冷たそうに目を細めながら清流に足を踏み入れる。

「訊かれたくないことは訊かない約束だからな。ただ」

 惶牙は豪快に水に飛び込んで、海音の横に立つ。

「……それをやった奴を喰い殺してやりたいとは思うがな」

 惶牙の目が鈍く光っていた。彼から笑みが消えたのを見て、海音はその首を抱きしめる。

「悪いのは僕なんだ」

 唇を噛んで、海音は絞り出すように呟く。

「僕が……男の子じゃなかったから」

「また宵月は訳がわからん」

 惶牙は低く言葉を告げる。

「やたら男にこだわる。たぶんこれから驚くだろうが、公国の女は大陸一強いぞ。覚悟しとけ」

 海音の頬をぺろりと舐めて、惶牙はその目を覗き込む。

「それに男だろうが女だろうが、お前はシヴに選ばれたマナトなんだ。……ま、今はそれより」

 惶牙は突然前足で水面を叩いて海音に水をかける。

「わっ! やったな、惶牙!」

 海音も負けじと屈みこんで水を跳ねさせる。その拍子に自分の体も濡れたが、そんなことに頓着している時ではなかった。

 髪が張り付くほどびしょぬれになっても、海音は惶牙と水をかけあって遊んでいた。空腹で腹が鳴って惶牙に笑われて、ようやく水遊びを切り上げた。

 海音が取ってきた果物と惶牙が川で獲った魚を焼いて遅い朝食を済ませた海音は、再び惶牙の背中に乗せられて森の中を歩いていた。

「どこまで行くの?」

 見せたいものがある。そう告げた惶牙にしばらくは黙っていたが、惶牙が一向に足を止める気配がないのでつい言葉を挟んでしまう。

「まあ焦るな。そろそろだ」

 木々が少なくなり、岩肌が露になっている場所が増えてきた。高度も上がってきたようで、空気もひんやりと肌に心地いい。

「天気もいいしな。よく見えるだろ」

 そう惶牙が言った瞬間、視界が開けた。

 二人は切り立った崖の上にいた。空には太陽が輝き、雲ひとつない。

「う……わぁ!」

 海音の眼下には、一つの広大な国が広がっていた。

 色とりどりの屋根と石灰の壁で出来た家が、放射線状の街道に沿って整然と立ち並ぶ。街道は丈夫そうな石畳で覆われ、街をぐるりと石の城壁が取り囲んでいる。

「こんなに……たくさんの人が」

 何より目を引いたのは、街道に所狭しと並んでいる露店と、埋め尽くすような人の群れだった。商業の中心地なのだろうか。この高台にまで売り買いの声が届いて、どこもかしこも商人たちの活気に満ちている。

「あれ、お城?」

 放射線状の街道が交差する中心部には、石造りの古い城が建っていた。尖塔が寄り添うように天を衝いていて、その先は淡く輝いている。

 海音は輝く緑の尖塔を指差して首を傾げる。

「どうして光ってるんだろう? あの、何ていうのかな」

「あれはエメラルドを砕いて塗りこんであるんだ」

 海音が身を乗り出しすぎて落ちないようにと、惶牙は一歩後ろに下がる。

「エメラルドは公国周辺の鉱山が原産で、建国以来この国の象徴にもなってる宝石だ。庶民でも祝い事の時は買えるぐらい溢れてる」

 惶牙は顔を仰向かせて続ける。

「空の色がエメラルド色だからかもしれないな。ここは碧玉の都と呼ばれてる」

「碧玉の都……」

 海音がその呼び名で想像したのは、宝石の散りばめられた煌びやかな国だった。

 実際に目にしているのはそれ以上に眩しい、人々の賑わいに溢れた明るい街だった。

「僕、この国が好きになると思う」

 自然と頬を緩めた海音に、惶牙は振り返って言う。

「それはシヴに言ってやってくれ」

「シルヴェストル様に?」

「この国を建国より前から守ってきたのはあいつだからな」

 前を向いて、惶牙はぽつりと言った。

「姿は見えなくとも、あいつは今も公国を見守ってる。俺やお前が生まれるずっと前から」

「……うん」

 街の外は果てなく森が続いている。それを見て、一人で生まれて、一人で大人になったような国だと思った。

 ……もしかしたらそれは、精霊様も同じなのかもしれない。

 海音は眼下に広がる美しい碧の街を見つめながら、惶牙をぎゅっと抱きしめていた。







 夕方、箱庭で食事の用意を整えた海音は惶牙に不安げに問いかけた。

「本当にいいの? お仕事中なのに、邪魔じゃない?」

「マナトに呼ばれて嬉しくない精霊はいない」

 惶牙は側で寝そべって顎をしゃくる。

「夕餉の時間だ。あいつを呼べ、海音」

「う……うん」

 海音は立ち上がって、おずおずと言った。

「シルヴェストル様……あの、少し出てきてくださいませんか」

 それは決して大声ではなく、せいぜい惶牙に届く程度の声量でしかなかった。

 けれどすぐに二人の前には風が巻き上がって、見る見る内に人の形を成していく。

「……呼んだか」

 白いローブを翻して、シルヴェストルは海音の前にするりと降り立った。

 無表情で海音の方を見ることもないシルヴェストルに、海音は慌てて言う。

「い、いえ。お忙しいならいいんです」

「呼んだだろう。用があるならはっきり言え」

 シルヴェストルは神殿を一瞥して、奥の間にある草の絨毯に食事の準備がしてあるのをみつける。

「夕餉か」

「あ、はい」

「私は食べないが」

「そ、そうでしたね。ええと、これは……」

 海音は、丈居高な精霊の口ぶりに気圧されて、つい言葉が出なくなる。

 海音は思いきって言った。

「僕……朝と夕だけでも、シルヴェストル様とお話できたらって」

 シルヴェストルはちらりと海音を見下ろして眉を寄せた。

「い、いえ。すみません。わがまま言って」

 風が地面から吹いたかと思うと、シルヴェストルは奥の間であぐらをかいていた。

「私からも話しておくことがある。お前も座るがいい」

「は、はい! 伺います」

 海音は走っていって正座する。崩していいとシルヴェストルは言ったが、海音は正座したままだった。

「こっちへ」

「え? はい」

 シルヴェストルが手招きするので、海音は首を傾げながらも彼の側に寄った。それでも足りないというように急かすので、海音は膝と膝が触れるような所に腰を落ち着ける。

「お前に、私の形を決めてもらう」

 天気の話でもするかのように切り出したシルヴェストルに、海音はぱちぱちと瞬きをした。

「かたち?」

「そうだ。精霊とマナトは名を結んでいる以上、精霊が望んだことをマナトは受け入れなければならない。その代償に、マナトは精霊をどんな形にもできる」

「形にする……」

 海音が難しい顔をしていると、横から惶牙が口を挟んだ。

「ようは、恋人とか家族とか。側にいてほしいけど望めない人間の代わりをさせることができるってことだよ」

「でも、そんなことどうやって」

「精霊は何にでもなれる。性格もマナトが望めば変えられる」

 海音は少し理解できた気がしたが、すぐに顔をしかめる。

「でも、僕にはそんな……」

「誰しも一人くらいは理想のイメージを持っているものだ」

 シルヴェストルは身を屈めて、海音の頭に手をかざす。

「わからなければお前からイメージを読み取って作り出す。目を閉じていろ」

 海音は言われるままに目を閉じる。

(僕が望む人? いてほしいけど、いてもらえない人)

 真っ白な頭の中に、もやが集まるようにしてイメージが形成されていく。

(とうさま……)

 脳裏に閃いたのは、海音に誰よりも近かった人だった。海音によく似た黒髪と凍るように青い目の、ぞっとするほど雅な青年だった。

「……いや!」

 海音はぱっと目を開いて、慌てて首を横に振る。

「作らないでください! その人と精霊様は違うんです!」

 目を開いた先にはシルヴェストルの困惑した目があった。

「あ……」

「私では代わりになれないか?」

 その瞳に寂しそうな色が浮かぶのを見て、海音は彼を傷つけてしまったことに気づく。

「そういう意味じゃないんです。その人は……二度と会えない人だから」

 海音は必死に言葉を重ねる。

「もし望むとしたら、僕は新しい生活が欲しい。今までのことは忘れて、まっさらな気持ちで始めたいんです」

 海音は微笑んで精霊を見上げた。

「だから、シルヴェストル様にはそのままのお姿でいてほしいんです。名前も……今のままでお呼びしてもいいですか?」

 精霊は少し黙ったが、ふと言葉を零す。

「シヴでいい」

「シヴ様……?」

 海音が問いかけるように呼ぶと、シルヴェストルはなぜか憮然として言った。

「願わなかったことを悔やんでも遅いぞ。形は決まりだ」

「お前なぁ」

 惶牙が呆れたように横から言葉を挟む。

「海音は、お前はお前のままでいいって言ってくれたんだぞ。こんなマナトはめったにいないだろ。もっと優しくしたらどうなんだ」

「惶牙、そんなことない」

 海音は照れたようにうつむく。

「シヴ様は初めから優しかったよ」

 海音は昨夜のことを思い出して頬を染める。

 泣き出した海音を抱きしめてくれた。ここがお前の家だと言ってくれたのだ。

「シヴ様、僕、今日初めて公国を見たんです」

 海音は昼間見た光景を頭に思い浮かべながら言う。

「賑やかで、人が元気で、いい国だと思いました。きっと僕、この国が好きになると思います」

 シルヴェストルは思いもよらないことを言われたように目を軽く見開く。その横で、惶牙がにやりと笑う気配がした。

「かわいいこと言うじゃねぇか。これはもう、もっとよくこの国のことを知ってもらうしかないよな」

 惶牙は身を起こしてにじり寄るようにシルヴェストルに近づく。

「おい、シヴ。明日、海音を街に連れてってやれ」

「え?」

 びっくりした声を上げたのは海音だった。

「連れてくって……え、シヴ様が?」

「俺じゃ街の連中がびびって逃げちまうだろ。けどお前の手は引いてやらねぇと」

「でも、シヴ様はお仕事が。それに」

 透けて触れることもできない存在なのに、どうやって手を引くというのか。

「いいものいっぱい買ってもらえよ、海音」

 海音は首を傾げたまま、黙って目を逸らすシルヴェストルを不思議そうに見ていた。

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