2 名を結ぶ
それは夜が明けるほどの長い間のようで、ほんの一瞬にも思えるような時間だった。
海音には、夢の中に吸い込まれて、どこか深いところでぽとりと産み落とされたように思えた。
硬く目を閉じていた海音のすぐ側で身動きするものがあって、初めてそれが現実だと気づいた。
「もう目を開けていいぞ、チビ」
二十歳ほどの青年の声は、ゼノンでないことは確かだった。彼はこんなふてぶてしい口調ではなかった。
海音が不思議に思いながら目を開けると、目の前にあったのは金と緑の混じり合った金の豹の瞳だった。
海音はきょとんとして、それから首を傾げる。
「オウガさん?」
「惶牙でいい。お前は何て言うんだ?」
「海音……です」
反射的に答えてから、海音は辺りを見回す。
そこは先ほどの夜の森ではなかった。陽光の中、緑の草の絨毯の上に花が咲いている。
そこに天まで届くほどの柱がいくつも立ち並んでいた。
柱に屋根はなく、金色の光がさんさんと降り注ぐままだった。森の中からは鳥の声が聞こえる以外、何の音もしない。
「カイオンか。いい名だ。お前は瞳にも名前にも、青を持ってるんだな」
感心したように惶牙がうなずいて、海音は胸に浮かぶ疑問を言葉にする。
「惶牙はどうして言葉を話せるんですか?」
「いや、俺も人の言葉は話せない」
当たり前のように答えて、惶牙は海音の頬をぺろりと舐める。
「
にっと惶牙は牙を見せて笑う。
「お前と話せて嬉しいよ。海音」
太陽が見えないが、ここは真昼のように明るい。樹齢何千年と思われる木々が網のように空に枝を広げていて、遠くには湖も見える。
人の手がどこにも入っていない、何もかもがのびのびと生きている世界。
惶牙は海音の視線の先を追って言う。
「ここは俺とシヴの「箱庭」。お前も、これからはいつでも入れるようになる」
「しう?」
「シルヴェストル。公国の精霊だよ」
惶牙は屈みこんで、海音に背中を示す。
「さあ乗れ。さっき、俺がここの扉を開くように言ったんだ。グロリアたちは先にシヴの所に行ってる」
「え、えと。まだ心の準備が」
海音が首を横に振ると、惶牙はくっくっと人間のように笑った。
「心配すんな。怖い奴じゃねぇ。ちょっとひねくれてるけどな」
身を屈めたまま動かない惶牙に、海音は困ったように言う。
「僕、自分で歩けます」
「俺が乗せたいんだ。お前はマナト。俺は十年もお前を待ってたんだからな」
ほらと示す惶牙に、海音は恐る恐る背中に乗る。
「軽ぃなぁ。ちゃんと食ってるか?」
何も乗せていないかのようにひょいと身を起こすと、惶牙は首を捻って振り返りながら言う。
「それに話し方がおかしい。宵月の子どもはそんな風に話すのか?」
すべてを見透かすような金と緑の目が、うろたえた海音の目を真っ直ぐに見返してくる。
「お前は女の子だろ? どうして男のフリなんかしてるんだ?」
海音は瞬時に顔をこわばらせて首を横に振った。
「僕は男です」
「まさか。見りゃわかる。聖獣をなめんなよ」
「女じゃない」
口をへの字にして言い放った海音に、惶牙は考えたようだった。
「誰かがそれでお前を傷つけたのか?」
惶牙は柱に沿って歩き出しながら言う。
「訊かれたくないなら訊かないが、俺はお前が男でも女でも好きだぞ」
惶牙はそろそろと海音を振り向いた。
「それで手を打って機嫌を直してくれ。家族みたいに気安く話してくれ。俺じゃ駄目か?」
「……惶牙」
海音は小声でぽつりと言う。
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「ん? 言ったろ」
耳に心地よい低い声が、甘やかすような優しさを帯びる。
「俺はお前をずっと待ってた。好きなだけ構って、甘やかして、一緒に暮らせるマナトがいなけりゃ楽しくも何ともない。聖獣ってのはそういうもんなんだよ」
青々と茂る森を惶牙は自分の家のように進んでいく。
まもなく緑色に光る建物が見えた。一体どれほどの高さなのか、海音は首を反らせても天井をみつけられなかった。
「わぁ……」
柱も壁もすべて碧玉で出来た、荘厳な輝石の神殿に、惶牙と海音は足を踏み入れた。
神殿の中は寒くも暑くもなく、心地よい温もりに満ちていた。窓から陽光が波のように床を照らし出していて、散りばめられた碧玉が呼応するように輝く。
その中を海音を乗せた惶牙がゆったりと進んでいく。海音は緊張で身を固くしたが、惶牙は時折振り返ってうなずき返した。
(何てご挨拶すればいいんだろう。まず名前を言って、それから……)
海音は繰り返し精霊に会った時のことを考えながら、惶牙の柔らかな毛皮をきゅっと握り締めていた。
やがて唐突に広い空間に出た。前方は果てなく回廊が続いているように見えたのに、突然行き止まりが現れた。
「あ」
祈るように手を組んでひざまずいているのはグロリアとゼノンだった。それに気づいて海音が声を上げると、惶牙が足を速めて二人の方へと向かってくれる。
部屋の床は柔らかそうな草の絨毯で覆われていた。頭上から、真ん中に丸く光が差し込んでいる。
惶牙は屈みこんでその草の絨毯に海音を下ろすと、くいと顔を上向ける。
「そろそろ出てきたらどうだ。シヴ」
その声に応えるように、海音たちの前で風が渦巻いた。織るように光が集まってきて、海音は眩しさに目を閉じる。
「……また来たか、御遣い」
海音が次に目を開けた時、そこに浮いている者がいた。
夏の葉を浮かべたような緑色の髪は肩で揃えるくらいの長さで、金色の輪で前髪を留めている。神官服のようなローブから覗く腕は白いが細くはなく、精悍な目鼻立ちをしている。
そして地中の奥深くに眠る宝石のような、美しい碧色の双眸が光っていた。
「お前の顔は当分見たくないと言ったはずだが」
二十歳ほどに見える青年は、不機嫌そうに眉を寄せてグロリアを見下ろした。
「シルヴェストル様。ご足労いただきありがたく存じます」
グロリアは顔を上げて告げる。
「このたびは、マナトとなるべき方をお連れしました」
シルヴェストルは碧玉の双眸を海音に向ける。どくんと海音の心臓が大きく跳ねた。
(あれ、何でだろ……)
海音は自分でもわからないまま顔を真っ赤にしてうつむいた。初めて感じた精霊の一瞥は強烈なほど眩しくて、自分が隠していることすべてを暴いてしまうような思いがした。
「なぜ連れてきた」
しかし一息後に海音にかかったのは、ひどく迷惑そうな一声だった。
「私は前々から言っていただろう。……マナトはいらぬと」
瞬間、海音は心臓が止まってしまうような痛みを感じた。
いらないというその一言が、鋭利な刃のように幼い少年の胸の傷を抉った。
海音は胸を押さえて体を丸める。
「海音!」
惶牙が異変に気付いて覗き込む。海音は浅い息を繰り返すだけで言葉を返すこともできない。
熱病にかかったような呼吸をして、海音はしばらく目を硬く閉じて嵐が過ぎるのを待った。
(なんで……言葉を聞いただけなのに、痛くて……)
よろめきながら立ち上がると、海音は青ざめた顔でほんの少しだけ笑った。
「だ、大丈夫です」
頬を摺り寄せるようにして海音を見ていた惶牙と側に来ていたグロリアとゼノンに、海音はしっかりと立って見せた。
ふと海音は精霊を仰いで、そこに子どもが途方にくれたような眼差しをみとめた。
(この方、たぶん優しい方だ)
気まずそうに目を逸らす精霊に、彼が傷つけようとして言ったわけではないのがわかった。
(でも、僕が求められてないのは真実の言葉なんだ)
海音が胸のずくんとした痛みに耐える。
「おい、シヴ! ふざけたことをぬかすな!」
惶牙が牙をむき出しにして精霊に食って掛かる。
「いい加減お前も前のマナトを引きずってないで……」
惶牙が何かを言おうとした時、シルヴェストルの顔が瞬時に強張った。
その拍子に突風が吹いて、海音は思わず転んだ。
「阿呆! チビの前で風なんか起こすな!」
惶牙は慌てて海音をくわえて抱き起こす。
「怪我はないか? ああもう、何だってこんな精霊のお守りをしてんだ、俺は」
ぶつぶつと文句を口にして、惶牙はシルヴェストルに向き直る。
「お前みたいなオコサマ精霊にはマナトがいなくちゃ駄目なんだよ。そろそろ自覚してマナトを迎えろ」
「絶対にいなければならんというわけじゃない」
「ごちゃごちゃうるせぇ。お前のマナトになってくれるって奴が遠路はるばる来てくれたんだぞ。こんな貴重なことがあるか」
「要らないと言っている。黙らないか、惶牙」
海音はにらみ合う二人を交互に見て、少し強張っていた体の力が抜けた。
要らないといわれても、先ほどのような痛みは感じなかった。二人の間に流れる親しみに安心していると、シルヴェストルは変な顔をしてそっぽを向く。
(あれ?)
きょとんとして首を傾げると、緑髪の精霊はますます海音から顔を背けた。
外見は二十歳ほどの青年だが、意固地になった子どものように見えるのはどうしてだろう。
今まで黙っていたグロリアが口を開いたのはそのときだった。
「こちらの少年には公国に家族がおらず、住む家もありません」
グロリアは顔を上げてうかがうように言う。
「仮でも結構です。成長するまでマナトとして頂けませんか」
「グロリアさん。いいんです」
懇願するような調子のグロリアに、海音は首を横に振って俯く。
「街道に沿ってヴェルグに戻ればいいんでしょう? そこでまた働けば……」
「駄目だ」
ぴしゃりと言ったのが誰かわからなくて、海音は思わず周りを見回す。
男の声だが、惶牙でもゼノンでもなかった。
「いや、その……」
そうなると、自然と目は人にあらざる者の方にたどり着く。
「街道は魔獣も出るし、盗賊も……お前のような子どもが一人で行き来できるような道ではない」
言葉に詰りながらシルヴェストルが言うので、海音はふわりと心が温まる思いがした。
(僕が子どもだから、気にかけてくださるんだ)
海音は嬉しくなったが、それに甘えてはいけないとも思った。
「ありがとうございます。でも」
「別に俺が送ったっていい。魔物も盗賊も寄せつけねぇ」
ふいに惶牙が進み出て言葉を挟む。
「帰すのは簡単だ。……それでいいのか、シヴ?」
惶牙は不敵に笑って金と緑の瞳を細める。からかうような口調に気づいて、シルヴェストルは剣呑な目をする。
「何が言いたい」
「別に。ただ俺は海音が気に入った。とてもかわいい」
海音の頬にこつんと額を当てて、惶牙は横目で精霊を見やる。
「追い出すなんて考えられねぇだけだ。お前は身寄りのない……それも、こんな綺麗な魂を持ってるチビを叩き出すような、慈悲のない精霊じゃないはずだもんな」
挑発するようにふんと鼻をならして、惶牙は言葉を切った。
シルヴェストルはしばらく海音をみつめていた。その瞳は海音には見えない何かをじっと見据えているようだった。
「……一人なのか」
シルヴェストルがぽつりと零した言葉に、海音は一瞬迷う。
「正直に言え。帰る家はあるのか」
「……いいえ」
海音は嘘をつくことができずにそう返す。
長い沈黙の後、緑髪の精霊は静かに頷く。
「そうか」
シルヴェストルは呟くと、袖を返して海音に歩み寄った。
「側へ」
緑髪の精霊は指先だけを動かして手招きをした。海音は惶牙に促されて、緑の絨毯の中心に立つ。
シルヴェストルが地面に降り立つ。彼は透けるような燐光に覆われていたが、瞬きをするとその光が静まっていく。
「我、シルヴェストル。東の果てより来た者と名を結ぶ」
海音は頭を大きな手で包まれるのを確かに感じた。陽だまりのような温もりと香りが彼を包み込んで、海音は自然と目を伏せる。
「その名は海音。今この時より、我がマナトとする」
額に柔らかな何かが触れて、海音は目を見開く。
(この感じ)
海音の目が見る見るうちに潤んだかと思うと、頬を透明な雫が伝った。
「とうさま……」
それだけ呟いて、海音は声も上げずに泣いた。周りで見守っている者たちを困惑させるのはわかっていたが、一度溢れたものはもう止めようがなかった。
「海音」
そう呼んだのは、彼の一番近くにいたシルヴェストルだった。
「ようこそ、お前のもう一つの家へ」
家族が子どもを包み込むように、シルヴェストルは小さな子どもの体を引き寄せて抱きしめる。
幼い少年が泣きやむまで、彼と名を結んだ精霊は少年の頭を撫で続けていた。
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