1 公国からの使者

 森の中の石畳の街道に、紫紺の帳が下り始めていた。

 ゼノンは足を止めて、後ろを歩いていた海音とグロリアを振り向いた。

「今日はこの辺りで休もう」

 グロリアがうなずくのを見て、海音もそれに従う。

「食事の用意ですね。薪をとってきます」

 ヴェルグと中央地方をつなぐこの道は、道幅が広く、盗賊も取り締まりがされている。けれど海音は子どもで、ゼノンたちは日が陰り始めたら足を休めるようにしていた。

「座っていらしてください。そのようなことは私たちが」

「僕にやらせてください。薪拾い、僕好きなんです」

 止めようとするグロリアに笑いかけて、海音は飛ぶように森の中に入っていく。

「まるで羽が生えてるみたいだね。元気な子だ」

「困りものです。御身の大事さが、よくおわかりになっていらっしゃらない」

 顔をしかめたグロリアに、ゼノンはくすりと笑った。

「まだ六歳だからね。大人びてはいるけど、子どもには違いない」

 街道の脇に立つ大木の影に居場所を定めると、ゼノンは慣れた手つきで荷物を解いていく。

「あの子の明るさが、公国の精霊の心を和らげてくれるかもしれない。十年前に凍りついた心をね」

 グロリアは目を伏せて沈黙した。そこに海音が戻ってくる。

「こんな感じでいいでしょうか」

 ゼノンは気安くうなずいて指示を出す。

「うん。そこに置いて火をつけて。今日はスープを手伝ってもらおうかな」

「ゼノンさん。マナトに何をさせるんです」

 咎めるように言葉を挟んだグロリアに、ゼノンは肩を竦めた。

「彼のためだよ。彼は公国で保護してくれる家や人がいるわけじゃない。私たちが離れた後は自分で身の回りのことをするんだから、できる限りのことは教えておかないと」

 ゼノンは海音に目を向ける。

「海音、そこの袋から干し肉をひと固まり出して、食べやすい大きさに削ってくれる? 手を切らないように気をつけてね」

「はい」

 海音はうなずいてナイフと干し肉を手に取った。

 慣れた手つきで肉を切り取っていく少年の姿を心配そうにみつめているグロリアに、ゼノンは小さく笑う。

「大丈夫だよ、グロリア。君はマナトに対して心配性すぎる」

 彼女が決して見た目ほど情のない人間ではないことを、ゼノンは付き合いの長さと直感で理解している。

 ヴェルグを出発した日の夜、グロリアとゼノンは自身たちについて語った。

 自分たちは、「御遣いみつかい」というものだとグロリアは言った。

「私たちは君と精霊がうまく付き合っていけるように手伝うのが仕事だからね」

 何も知らない土地と会ったこともない精霊の元に行くのは不安ではあったが、海音の中には楽しみに思う気持ちもあった。

 自分は必要とされている。その思いが、海音の心を熱くしてくれた。

「海音のようなマナトは珍しいけど、グロリアが選別したならちゃんと受け入れられるはずだ」

「珍しいのですか?」

 野菜を鍋に入れながら言ったゼノンに、海音が問う。

「うん。精霊はね、生まれたばかりの自分の土地の子どもをマナトに選ぶ。それも目とか耳とか、どこか不自由のある弱い子をマナトにする」

「僕、元気ですよ? 公国生まれでもありませんし」

 海音は不安そうに言ったが、グロリアは首を横に振って返した。

「心配は要りません。そのような場合が多いというだけで、絶対ではありませんから」

 海音はひとまずほっとしたようだったが、ナイフを削る速度は確実に落ちていた。

「どうして自分なのかと思われますか?」

 海音が顔を上げないままうなずくと、グロリアは淡々と言う。

「それはあなたの主となる精霊とあなたが深い絆で結ばれた時、わかります。必ずその時は訪れますゆえ……どうか今は心安らかに」

 一年を通じて温暖な気候の中部地方ではあるが、夜は冷え込む。赤々と照らしてくれる火の温かみがなければ寒くて眠れないだろう。

「あの……公国の精霊様はどんな御方ですか?」

 海音がそう問うと、ゼノンは苦笑を返す。

「初めてだね、その質問は。もっと早く訊くかと思ってた」

「グロリアさんが、自分の目で確かめなさいと仰っていたので」

「ううん。そうだね……」

 ゼノンは顎に手を当てて思案する。

「精霊は、マナトとそれ以外にはまるで違うから。君にはきっと優しいと思うよ」

「では、ゼノンさんたちには厳しい方なのですか?」

 首を傾げる海音に、ゼノンは迷いながらうなずく。

「何というか、内心をあまり悟らせない方なんだ。私たちが知っているあの方は、公国をわが子のように外敵から守っていて、それ以外にはよそよそしい」

 海音はうつむいてぽつりと言う。

「僕は、ちゃんと公国の精霊様にお仕えできるでしょうか」

 海音の顔は、先ほどまで元気に走り回っていた子どもと同じとは思えないほど白く不安げに見えた。

「外から来るとしても、君はこれから公国の民となるのだから心配ないよ」

「僕は愛されようなんて、大それたことは考えていないんです」

 海音は目をかげらせる。

「グロリアさんは、ただ側にいて話し相手となるだけでいいって……それでいいんでしょうか。僕は何かを、しなくていいんでしょうか」

「何かって?」

「よくわかりませんけど……お仕事のお手伝いをするとか」

 ゼノンはふっと目を細める。

「そう思うのなら、してさしあげればいい。精霊はマナトからは何でも受け入れる」

「けれど、それでは……」

「海音。精霊はね、マナトが側にいてくれる、ただそれだけで嬉しいものなんだ」

 手を伸ばして、ゼノンはそっと海音の頭を撫でる。

「彼らは人の操れない特別な力を持っているし、聖獣も従えるけれど、家族を持つことは叶わない。だから、君はその家族の代わりになってさしあげるんだ。これはとても難しいことで、誰にでもできることじゃない」

 海音の髪を梳きながら、ゼノンは言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「私やグロリアはただ頼むことしかできない。海音、公国の精霊の支えになってほしい、と」

「……僕」

 海音は青い瞳でじっとゼノンの目をみつめ返した。

「精一杯、精霊様の支えになれるようにがんばります。精霊様が心安らかにいられるように」

 海音はちょっとだけ照れたように目を逸らす。

「……それに、ずっと公国に行ってみたかったんです」

 黙った海音にゼノンは首を傾げたが、それ以上追求することはしなかった。

 寝具に包まってまもなく寝息を立て始めた海音に、ゼノンは慈しむような目を向けていた。

「ゆっくりお休み。海音」

 精霊と同じで、御遣いも家族を持つことが難しい。終わることのない旅を続ける役目がある。

 マナトはゼノンたちにとって仕えるべきもので、守るべきものでもあった。

「……ん」

 ふいに北から吹いた冷たい風に、ゼノンは表情から笑みを落とす。

「グロリア」

「……ええ」

 木にもたれかけて目を閉じていたグロリアが、今まで眠っていたとは思えないほど素早く体を起こす。

「何事もなく公国までたどり着けるという目算は甘かったようですね」

「みたいだね。まあ七日も平穏だったならいい方だ」

 ゼノンはやれやれと肩を竦めた。

「海音を起こさないように……は無理か。今夜は騒がしくなるね」

 ゼノンは木に立てかけてあった白い布包みをほどく。

 中から現れたのは一本の槍。よく磨かれた刃が、炎に反射して鈍い光を放つ。

「用意はいいですね?」

「いつでも」

 グロリアも既に自らの槍の包みをほどいていた。

 暗闇から跳躍する黒い影。それに向かって、二人は同時に槍を振りかざしていた。







 地響きで体が浮き上がって、海音は跳ね起きた。

「な、何?」

 寝具から抜け出した海音の視界に飛び込んできたのは、黒い泥のような塊だった。

 一つ、二つ、三つ。起きていた時にはこんなものはなかったと、海音は数を数えてから恐る恐るそれに近づく。

「あ……!」

 それは動物の死骸だった。狼か野犬だろうか、周りに土くれのようなものがへばりついていてずいぶん大きく見えるが、それは確かに動物の形をしていた。

「う……わ」

 土くれのようなものはどろりと表面から落ちて地面に黒い染みを作る。そして触れたところから、地面を腐らせていった。

 先ほどまで生えていた雑草がしおれて溶けていく。そんな異様な光景に海音が後ずさると、ひょいとその体を抱えてくれる腕があった。

「ごめん。驚かせちゃったね」

 ゼノンは海音を抱き上げると、落ち着かせるように頭をぽんぽんと叩く。

「ゼノンさん。これは、一体」

魔獣まじゅうだよ。見るのは初めてかい?」

 こくんとうなずくと、ゼノンは腐った地面を見下ろす。

「動物の死骸に淀んだ思念が宿るとこうなる。奴らは美しい魂が大好物だ。君に吸い寄せられて来たんだろう」

「ぼ、僕に?」

 息を呑んだ海音に、ゼノンは安心させるように首を横に振った。

「大丈夫。精霊の守る領域には奴らは入って来られない。そこに辿り着くまでは私とグロリアがついてる」

 ゼノンがちらりと横に目をやると、そこには荷物をまとめたグロリアがいた。

「準備ができました。移動しましょう」

「眠ってていいよ、海音」

 そのまま荷物のように海音を抱えて歩き出そうとするので、海音は慌ててゼノンを制した。

「自分で歩けます。平気です」

 まだ顔は緊張で引きつったままだったが、海音は下りて歩く方を選んだ。

 新月の夜だった。ゼノンが薪を束ねて作った松明がなければほんの二歩先も見えない暗闇だ。海音は前をゼノン、後ろはグロリアに挟まれて、恐る恐る足を進める。

 耳に痛いほどの静寂の中で、海音は前を歩くゼノンの袖を握り締めたい衝動にたびたび駆られた。そのたびに甘えるなと自身を叱責したが、暗闇は小さな子どもを飲み込むようで、海音はカチカチと歯が鳴るのを止められなかった。

 ふいに手を包み込まれる感触がして、海音は振り返る。

「……あ」

「ここにおります。大丈夫です」

 グロリアの手は武人のもので、ところどころに武器のたこが出来ていて硬かった。

 けれどこの暗闇ではこれ以上に優しい手はないと、海音は頬を緩めて思った。

「この辺りかな」

 まもなく森が開けた場所に着いた。ゼノンが足を止めて振り返った、そのときだった。

「後ろ!」

 グロリアが荷物を投げて槍を抜く。彼女は反応が遅れたゼノンを突き飛ばして、その背後に迫っていた黒い獣に踊りかかった。

 なぎ払いで弾かれた獣は一瞬動きを止めたが、すぐに体勢を立て直す。

「ゼノンさん。海音さまを!」

 頼みますという言葉は聞こえなかった。飛び掛った魔獣とグロリアの槍は鋼鉄がぶつかりあったような激しい音をたてる。

 一体何の獣が元の生き物だったのかは想像もつかない。大人の背丈ほどの獣は、体中にびっしりと黒い土くれのようなものをつけていた。ぽたりとその土くれが落ちるたびに地面が黒ずみ、生命が悲鳴を上げているのが聞こえるようだった。

 グロリアは全身を使って踏み込み、鋭く突いては間合いを取る。切り裂かれるたびに魔獣を包む土くれが少なくなるのがわかる。

「核は!?」

「まだ見えません!」

 グロリアは土くれを払って何かを見定めようとしているらしい。ゼノンの背中の後ろで、海音はそれを察した。

「あ!」

 海音は思わず声を上げた。魔獣がグロリアの腕に噛み付いた。

 すぐにグロリアは振り払ったが、その腕には牙の跡と共に血が滴っていた。

「ゼノンさん、僕はいいです。助けてあげてください!」

 自分がここにいるからゼノンが助けに入れない。それを理解して叫んだが、ゼノンは一歩も動こうとしなかった。

「ゼノンさ……」

「だめだ、海音。声を立てるな!」

 ゼノンが海音の口を塞ごうとしたが、遅かった。

 魔獣はグロリアを飛び越えて、真っ直ぐに海音の方へ突進してくる。

「……動くなよ、海音」

 ゼノンが背中から槍を抜いて、身を屈めた瞬間だった。

 海音には空が光ったように見えた。星が流れたみたいに、光が通った。

 よく見ればそれは光り輝く獣だった。体長は大人の身長の二倍ほどもあるだろうか。金色の毛皮に黒い斑点のある、勇壮なる金の豹だ。

 金の豹は目の前に迫っていた魔獣に襲い掛かった。難なく魔獣を地面に押し倒し、土くれの中に顔を突っ込んで何かを引きずり出す。

 海音がそれを目で捉える前に、巨大な豹はそれを噛み切ってしまっていた。途端に、魔獣が動きを止める。

 金の豹はそれを見届けてから、海音を振り向いた。

 緑と金色の混じり合った不思議な瞳だった。その目でみつめられると、海音は乱れた呼吸が落ち着くのを感じた。

 金の豹はグロリアの横をすり抜けて、ゼノンを無視して海音の前までやってくる。

 鋭い牙が口の端から見え、海音のような子どもなどひと噛みで命を絶ってしまえそうなのに、どうしてか海音は怖いと思わなかった。

 ぺろ。

「わあっ!」

 金の豹は突然、海音の頬をぺろりと舐めあげた。びっくりして海音が目を見開くと、豹は目を細くしてまた舐めてくる。

「く、くすぐったいよ……ちょっと、わっ!」

 海音を地面に押し倒して、巨大な豹は海音を押しつぶさないように絡み合ってくる。

「く、あはは! な、何するの!」

 海音が笑い声を上げるのはすぐだった。その年相応の楽しげな声を聞いて、金の豹はようやく海音を解放する。

 グロリアが海音にはわからない言葉で何か言った。金の豹はそれに応えるように一声上げる。

「海音さま。彼はあなたを迎えにいらしたそうですよ」

「え? 言葉、わかるんですか?」

 グロリアがうなずくのを見て、海音は金の豹をじっとみつめる。

「彼は惶牙おうが。公国の聖獣です」

「オウガさん……」

 海音がぽつりと呟くと、彼はクルル、と獰猛な外見に似合わないかわいい鳴き声を上げて海音の頬に顔をすりつけてきた。

 そのままの態勢でグロリアに向けて低い唸り声を発すると、グロリアは目を伏せて一礼する。

「どうしたんですか?」

「叱られてしまいました。マナトを危険にさらすのは何事かと」

「いえ、それはグロリアさんたちのせいじゃ」

 慌てて海音が惶牙に手振りでそれを伝えようとすると、彼は海音をなだめるように首を横に振った。

 なお海音が何か言おうとすると、惶牙は天を仰いで吼えた。轟くようなその声は、森の中を隅々まで駆け巡る。

 途端に、海音はがくんと態勢を崩す。足に触れるものが何もなくなり、浮遊感もないまま周りだけが真っ白に変わっていく。

 眩しいばかりの白に思わず目を閉じた海音は、つかめるものを探して手で空をかく。

 伸ばした手の先に柔らかな毛皮が擦り寄るように海音に触れてきて、一人ではないことに安堵した海音はゆっくりと体の力を抜いた。

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