訳あり精霊と秘密の約束を~世話焼き聖獣も忘れずに~

真木

プロローグ 玻璃の少年

 ヴェルグの港は、大陸の玄関口と言われる。

 北方の鉱石や南方の香辛料、東の孤島の絹など、物流はほとんど一度ヴェルグを通過する。

 そのような貿易港であれば当然、行き交う人種も様々だった。瞳の色だけをとってみても碧眼からヘーゼル、琥珀色など、ここで商売をする者はたいていの容姿には驚かない。

 そう思っていたんだけどね。あおいは仕入れの品を帳簿につけてしまうと、苦笑して同僚に声をかけた。

「ちょっと抜けるわ。昼食は食べてくるから」

 朝市が終わった今の時間、商人にとって貴重な休息が待っている。

 商館から出ると、海沿いの強烈な日差しが照りつけてくる。目を細めて、葵は船着場の方へと急いだ。肩がぶつかるほどの人波をすり抜けていく。

 葵は大陸の中部地方で生まれ、十五の年に独立してそろそろ一年になる。赤子の頃から母の背で商談の声を聞いてきた。商売に臨む姿勢は既に一人前だ。

 ヴェルグに拠点を置く多くの商人と同様、この雑多な港の様子には慣れている。人種よりその人物の話し方、目の動き、引き出せそうな情報、そういったものを注意深く見極める。

 自分と一族の儲けになるかどうか。それが葵にとって最大の関心事……のはずだった。

「あ」

 しかしここにきて、葵はまだまだ商人として半人前だと自覚した。

海音かいおん! こっちこっち!」

 それを気づかせてくれたのが、葵が手を振った先にいる、小さな少年だった。

 少年は雑踏を潜り抜けるようにしてやって来る。慣れた人間でもぶつかってしまうこの大通りで、少年はあっという間に葵の所までたどり着いた。

「こんにちは、葵さん。お仕事のお邪魔になっていませんか?」

 ぺこりと頭を下げた少年は、六歳とは思えないほど丁寧で品のいい話し方をする。葵の一族も躾は厳しいが、この少年は一挙一動に隙がない。

「この時間は暇だから気にしないで。朝のお使いは終わった?」

「はい。お昼休みをいただいたところです」

 彼と話すのはもう数えきれないくらいになったのに、葵は今も彼に見とれることがある。

 初めてその姿を見た時、葵は世の中にこんな綺麗な六歳の子どもが存在したのかと思った。

 海音は人波の中にいてもつい目を留めてしまうほど、仕草の美しい少年だった。東方系の黒髪で、目は海の色を映したように澄みきった青をしている。その端正な容姿に対になるように、彼はどこにも粗い言葉と態度を見せなかった。

 それは玻璃の器のように、大人に作り込まれた美しさだった。葵は幼子にそういった苛烈な使命を施す一族を耳にしたことがあるから、心が痛んだ。

「季節の野菜の煮込みがおいしいところがあるのよ。行きましょ」

 葵はわざと明るく言って、海音を連れて歩き出す。

 大通りの左右には露店が並んで、世界中の珍品が売られている。けれど海音は子どもらしくそれらに興味を引かれることもなく、ただ静かに葵に添うように歩く。

 葵はふと一月前のことを口にした。

「海音がヴェルグに来たのは前の満月が終わる頃だったわね」

 商いを生業としている葵の一族の元に、ある日海音はやって来た。

 教えて頂ければどんなことでも覚えます。だから働かせてくださいと言った。

 試しに与えた使い走りの仕事を、海音は見事にこなした。記憶力がいいらしく、一度にどれだけの伝言を頼まれてもこなしたし、足が速く時間にも正確だ。

「ヴェルグに来る前はどうしてたの?」

 けれどそうたずねると、海音はいつも口を閉ざしてしまう。

 常識的に考えれば、両親をどこかで失って、それからヴェルグに出てきて生きる手立てを探したというのが妥当な線だろう。

「……ごめんなさい。話せないんです」

 青い瞳が曇るのを見て、葵は慌てて言葉を重ねる。

「い、いいのよ。ヴェルグは独立都市だもの。よそで起きたことを詮索する輩はいないから」

 忘れてと葵が手を振ると、海音はやっとぎこちない笑みを浮かべた。

 しばらく気まずい沈黙が流れたが、そういうときにいつも海音がそうするように、彼は気を遣って先に口を開く。

「僕はお金を貯めて、公用語を覚えて、行きたいところがあるんです」

「それは訊いてもいいのかしら?」

 海音は諦観の表情で首を横に振る。

「子どもでは街道を往けないと聞きます。大人になったら、いつか」

 葵は彼の聡さをもどかしく思いながら、苦い思いを飲み込んだ。

 やがて目当ての店に着いて、二人は看板の下をくぐる。葵は何人かに挨拶を交わしながら、適当な席を探した。

「……あ」

 ふいに葵は顔を上げて、カウンター席に近づく。

「グロリア?」

 ターバンを巻いた女性が、顔だけを振り向かせる。その拍子に長い髪がひと房、ターバンの下から零れ落ちた。

 目だけで会釈を返したのは、旅人のいでたちをした女性だった。

 彼女は北の氷山を思わせる長い銀髪と同色の瞳をしていた。頬は生まれて一度も陽に当たったことがないように青白く、表情はほとんどない。

「ごめんごめん、葵ちゃん」

 つい口をつぐんだ葵に、明るい男性の声がかかる。

「後で商館に挨拶に行こうと言っていたところなんだよ。私たちも今着いたばかりでね」

 グロリアと呼ばれた女性の横に座っていた男性は、対照的に太陽の光が似合ういでたちをしていた。

 ターバンから零れ落ちる金髪を首の辺りで縛った、健康的に日焼けした青年だった。グロリアより頭二つ分ほど背が高く、すらりと長い手足をしていた。

 青年はグロリアを振り向いて、そしてグロリアは海音をみつめた。

 その合図のような仕草を、海音は敏感に感じ取ったようだった。

 グロリアは海音の姿をみとめると、椅子から立ってうやうやしく一礼した。

「初めまして、私はグロリアと申します。あなたの名前を教えてくださいませんか」

 葵はそれが海の向こうの宵月よいづきという国の言葉だと気づいた。ヴェルグでは珍しいその言葉に、海音がはっと息を呑む気配がした。

 海音は緊張をまとって礼を返すと、注意深くグロリアをうかがいながら答える。

「海音です。葵さんの家のお手伝いをしています」

 店内はまだ時間が早いせいか、無関心に壁際で食事をしている者しかいない。グロリアと海音の間に下りた張りつめた空気は、真昼には不似合いだった。

「海音さま。あなたを必要としている方がいらっしゃいます」

 びくりと海音が体を震わせる。

「お迎えにあがりました。私と共に、ル・シッド公国までおいでください」

 グロリアの銀の瞳と、海音の青の瞳が合った。それを横で見ていた葵は、一瞬時が止まったように感じた。

 海音の玻璃のようないでたちと、グロリアの銀細工のような容姿は、どこか似ていた。

 海音は凍りついたように立ち竦んでいたが、その肩を青年がぽんと叩く。

「まったく、グロリアはいつも言葉が足りない。びっくりしてるじゃないか」

 金髪の青年は海音の前に立つと、彼もまた一礼はしたものの、易しい言葉で話し始めた。

「初めまして、私はゼノン。突然訳の分からないことを言い出してごめんね」

 目線を合わせるように屈みこんで、ゼノンは海音の目を覗き込む。

「君は宵月の国の子だね。精霊という存在を聞いたことはある?」

「……精霊様は、信じてます。毎年お供えをして豊作を祈ってました」

「そう。その精霊はね、この大陸にもいるんだよ」

 ゼノンは優しく言葉を続ける。

「豊作を約束してくれる精霊もいれば、時に災いをもたらす精霊もいる。彼らが穏やかであるためには、側にいる者が必要なんだ。それをマナトという」

 困惑して瞳を揺らす海音に、ゼノンは視線の高さを合わせたまま言う。

「君にはマナトの資格がある。だから迎えに来た」

 言葉を切ってゼノンは海音をみつめた。

「待ってちょうだい」

 葵は弾けるようにゼノンと海音の間に割って入った。

「あなたたちが奴隷商人じゃないのは知ってる。でも精霊は人じゃないのよ」

 葵は湧き出る苛立ちのまま声を荒げる。

「側にいることを求めるって、まるで犠牲……生贄じゃない」

 葵は海音の肩を掴んで引き寄せる。

 葵にとって海音は知り合ってまだ半月にもならない子どもだが、くるくるとよく働くその姿はとても愛おしいものだった。それが人でないものの所へ連れて行かれるなど、見過ごすわけにはいかなかった。

 グロリアは首を横に振って淡々と告げる。

「マナトは生贄ではありません。精霊の心のよりどころです」

「でも、人の世界から外れる。あなた、前にそう言ったわよね?」

 葵の眼差しは厳しい。それは葵の、グロリアの使命に対する態度そのものでもあった。

「必要なのです。公国のマナトはもう十年も不在」

「いなくたって国がなくなるわけじゃないんでしょ。だったら……」

「あの」

 海音が短く切り出す。振り向いたグロリアに、彼はそっと問いかけた。

「十年も……一人なんですか。公国の精霊様は」

 彼は言葉を探すように少しずつ、言葉を紡いでいく。

「僕も、一人なんです。もうどこにも迎えてくれる人はいないんです」

 海音はグロリアとゼノンを順々にみつめて、最後に葵を見た。

 葵はその意味に気づいて、首を横に振る。

「……海音、だめよ」

 懇願するように言った葵に、海音は笑った。

「ありがとうございます。葵さんは、お姉さんみたいに僕に優しくしてくれた。でも葵さんは、別のところに帰らないといけない」

 青い瞳を決意で彩って、海音はしっかりと頷く。

「僕は故郷から棄てられた人間なんです。誰かが待っていてくれるなら……ル・シッド公国に行きます」

 その時、ちょうど陽の位置が変わって窓から金色の日差しが差し込んできた。

 目にしたことがない土地に、今は名前も知らないけれど、自分を待っていてくれる存在がいる。

 それはとても嬉しいものだと、海音は前をみつめた。

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