4 はじめての市場

 翌朝はさすがに寝過ごさなかったが、海音はやっぱり惶牙のふかふかの毛皮に体を埋めた状態で目を覚ました。

 朝食の準備をしながら、海音は言いにくそうに惶牙にたずねた。

「僕がくっついて寝るの、迷惑じゃない?」

「全然」

 苦笑いが返って来ると思っていたら、惶牙は大真面目に答えた。

「獣の特権じゃねぇか。マナトの寝顔が一番近くで見れる」

「僕の寝顔なんて見ても面白くないよ」

「俺は面白いんだ。シヴもうらやましがってる」

「まさか」

 苦笑した海音に、惶牙は可笑しそうに喉を鳴らした。

「夜中に目を覚ましたら、目を開けずに気配をうかがってみな。そうしたらわかる」

 海音が木の実と果物を木の葉のお皿に乗せ終わると、それを待っていたようにシルヴェストルが現れた。

「おはようございます。公国の様子はどうでしたか?」

「特には」

「それはいいことですね。あ、今日は惶牙が高い所にある実を採ってきてくれたんです。公国の周りは果物の種類が豊富ですね」

「たぶんな」

 シルヴェストルの答えはそっけなく、にこりともしない。

 けれど海音は彼が反応してくれるのが嬉しかった。思いつくままに次々と話しているうちに、朝食は終わろうとしていた。

「今日は公国の市場を見せてやる」

 だからシルヴェストルがいきなり言いだしたことに驚きはしたが、海音はすぐに顔を輝かせた。

「本当ですか? えと、シヴ様が?」

「他に誰がいる」

「す、すみません」

 海音は慌てて頭を下げて問いかける。

「でもどうやって? 僕が行くのを見守っていてくださるんですか?」

「それは見せた方が早いんじゃないか。おい、シヴ」

 惶牙に急かされたのが不服らしく、シルヴェストルは面白くなさそうに眉をひそめた。

 精霊は天井から光の差す草の絨毯の中心で止まると、そこにゆっくりと足を下ろす。

 素足で緑の絨毯を踏みしめながら、トン、トンと儀式じみたリズムを踏んだ。舞のような動きに、海音は食事の手を止めて思わず見とれた。

 ふいに精霊は身にまとうローブを片手で掴むと、面倒そうに脱ぎ捨てる。

「あ……」

 海音は息を呑む。

 彼女の目の前に現れたのは、無駄なく筋肉のついた、精悍な男性の裸体だった。

「すみません!」

 海音はとっさに後ろを向いて、シルヴェストルはそれに首を傾げた。

「どうかしたか、海音」

 シルヴェストルは海音の横までやってきてたずねる。

「顔が赤いぞ。旅の疲れが出たか」

「いえ、そういうわけではなく」

 海音は必死に顔を背けるが、シルヴェストルはますます意味がわからなそうに眉をひそめる。

 惶牙は少し考えて助け船を出すように言う。

「海音、ひょっとしてオスの裸を見たことねぇのか?」

 海音はこくこくと激しくうなずいた。

 海音は父親と一緒に水を浴びたことがない。性別を隠しているのに自分の体と男の体の違いも知らなくて、何だか初めて見た男性の裸は気恥ずかしかった。

「同年代の男の子と遊んだこともなくて。ちょっとびっくりして」

「ふむ。そういうものか」

 シルヴェストルはそっけなく背を向けて、惶牙がくわえて差し出した服を受け取る。

「惶牙。これはどこに通すんだ」

「俺に訊くなよ」

「あ、僕、何となくならわかります」

 海音は慌てて立ち上がって上衣を受け取る。

 故郷に比べると見慣れない形の服ではあったが、ざっと見て、下は足を通して腰紐を締め、上は腕を通して被ればいいと目星をつけた。海音は服の皺を伸ばして、シルヴェストルに着つけを始める。

「あ」

 驚いたのは、ちゃんとシルヴェストルの体に触れることができたことだ。それに彼の顔形は同じだが、髪と目の色が緑からヘーゼルに変わっている。儀式じみた服さえ変えれば、人にあらざるものには見えない。

「形を取るのは何年ぶりだ? まっすぐ歩けるか?」

「侮るな」

 シルヴェストルは憮然として数歩歩いてみせた。時々体が浮くような動きをするのは、普段浮いている反動のようだった。浮きそうになるたびに舌打ちする精霊に、海音はちょっとだけ笑った。

「笑ってる暇があったら食事を片付けろ」

「は、はい!」

 じろりと睨まれて、海音は急いで食事に手を伸ばした。

 朝食の後、シルヴェストルは海音を連れて箱庭を出た。森の中を走る街道に出ると、そこから関所に向かう。

 早朝だというのに関所は人の群れができていた。海音は辺りを注意深くうかがって、シルヴェストルに小声で問う。

「人がいっぱいですね。商人の方たちでしょうか」

「それだけでもない。ここは北と南をつなぐ唯一の街道が通ってるからな。旅人が陸路で行くならここを通るしかない」

 並んでいる人々の中には、海音が見たこともない様子の者がたくさんいた。褐色の肌を持つ者や金色に近い瞳の者がいたり、頭に大きな帽子を被っていたり体にぴったりと沿う服を身に着けていたりと、人種も身分も違う。

「大陸って、本当にいろんな人たちがいるんだ……」

 海音は故郷にいた頃、自分の髪と肌の色がすべての人たちの色だと思っていた。ヴェルグでそれ以外の色を体に持つ人たちがいることを知ったが、ここはそれ以上だった。

「お前だって珍しかろう。宵月はほとんどが黒い瞳のはずだ」

「え? 青い目って珍しいんですか?」

 きょとんとして澄んだ瞳を瞬かせた海音に、シルヴェストルはうなずく。

 関所を抜けると、海音は目の前に広がった光景に目を輝かせた。

「わぁ……」

 そこは噴水を中心とした大きな円状の広場だった。色とりどりの屋根と白い壁を背景に、露店が所狭しとばかりに立ち並んでいる。

「とりあえず換金する。離れるな」

「はい」

 シルヴェストルは人波の中を真っ直ぐ目当ての店まで歩いていく。海音は慌ててついていった。

「この硬貨と石を銀貨に換えてくれ」

「はいよ……って、え?」

 両替商は、シルヴェストルが差し出したものを見て目を丸くした。

「兄さん、これは十年も前の記念硬貨じゃないか。百枚くらいしか市場には出回っていないのにこんなにたくさん……よく集めたね」

 彼は大小二十ほどの碧玉の原石も注意深く並べながら、シルヴェストルの顔と見比べる。

「それにこっちの原石! 俺は三十年この仕事をしてるが、こんなでかい奴は初めて見るよ。兄さん、どこかの新しい鉱山でも発掘したのかい? 俺は宝石商とコネがあるから、そこと交渉してもいいぜ」

「換えてくれるのかくれないのか、どっちなんだ?」

 シルヴェストルはヘーゼルの瞳を不機嫌そうに細めて言う。それに慌てて店主は台を叩いた。

「ま、待ってくれ。そうだな、そこの可愛い坊ちゃんのためにも、ここは弾もう」

 店主が示した額にシルヴェストルは適当な返事をしながらも、ひとまず交渉は成立した。皮袋にいっぱいの銀貨を受け取って、二人は大通りに出る。

「記念硬貨、どちらで集めたんですか?」

 ひっきりなしに左右から呼び込みがかかる喧騒の中だ。きちんと声が届くかわからなかったが、シルヴェストルはちらりと横目で海音を見た。

「旅の安全を祈る泉が森の入り口にある。そこに沈んでいる硬貨を惶牙がよく拾ってくるんだ。数十年も貯めれば数は増える」

「原石も惶牙が拾って?」

「人が立ち入れない場所から取って来るらしい。あとは供え物だ」

 碧玉は公国の象徴というから、供える物もそうなるのだろう。

 人波に押しつぶされてしまいそうになりながら、海音は左右に目を走らせる。食料品や衣類、宝石などの装飾品、武具など、あらゆる物が売られている。ヴェルグでも多彩な物流は見ていたが、ここはそれ以上に庶民の匂いが強かった。

「海音」

「はい?」

 振り向いた海音の手に、シルヴェストルが赤い果物を投げてくる。

「食え」

「あ、ありがとうございます」

 唐突に果物を受け取って、海音はきょとんとしながらもそれにかじりつく。

「おいしいです」

 それは酸っぱさの後に微かな甘みがくる、みずみずしい果実だった。初めて食べる味で、海音は手の上でころころと回転させながらゆっくりと平らげる。

 笑って頭を下げた海音に、シルヴェストルは眉を寄せて妙な顔をすると、ぷいとそっぽを向く。

 何か気に障ったことをしてしまっただろうかと海音は不安に思ったが、数歩の内にシルヴェストルが足を止めるので慌てて立ち止まる。

「これを」

 ぽいと、今度は細かい粒がたくさんついた房を投げてくる。

「この辺りでしか取れない白ぶどうだ」

 海音はまだ赤い果実を半分食べ終えたところだったが、渡された果物に目を丸くする。

「白いぶどうを初めて見ました。綺麗な色ですね……」

「見てないで食え」

「は、はい!」

 粒をつまんで口に入れると、とろけるくらいに甘かった。海音は頬を押さえて、一粒ずつつまんでは食べる。

(公国の果物は甘いなぁ。都の砂糖菓子もこんな味がするのかな)

 その様子をじっと見ているシルヴェストルに、海音はふと思いついて言った。

「シヴ様も召し上がりませんか?」

「私はいい」

 シルヴェストルはそっけなく背を向けて再び歩き出した。海音は急いで後を追う。

 シルヴェストルは何かみつけるたびに買って、海音に投げてよこした。果物や燻製といった食べ物だったり、上質の綿で出来た上下揃いの服だったりした。

「お、坊ちゃん。父ちゃんにいっぱい買ってもらえて嬉しいねぇ」

 抱えきれずに袋を買った店では、店主が海音をからかった。

「今日は天気もいいし買い物日和だ。存分に市場を楽しんでけよ」

 店主は晴れた空の下で、よく日に焼けた顔に満面の笑みを浮かべて送り出してくれた。

「あ、あの。シヴ様」

「何だ?」

「ありがたいのですが……僕、こんなに買って頂かなくても」

 食べ物にしても既に食べきれないほど袋に入っているし、衣服も麻で慣れているので綿の服は何かこそばゆい。そう買う前にも言ったのだが、シルヴェストルはどこ吹く風で買ってしまう。

「だが見てただろう」

「見てた?」

「物欲しげに」

 そんな目をしてただろうかと、海音は目の横を引っ張る。そのとき、じっとこちらを見ている目に気づいた。

 視線の方向に目をやると、海音より年下と思われる小さな兄妹が、指をくわえて海音の手元を見ている。ちょうどそこには、今さっきシルヴェストルに買ってもらったオレンジがあった。

「シヴ様。これ、あげてもいいですか? 大きすぎて、僕食べきれないと思うんです」

 振り返って問うと、シルヴェストルは一瞬目に剣呑な光を宿らせた。

「……好きにしろ」

「ありがとうございます」

 海音はすぐに走っていったから、その不審な光に気づくことはなかった。幼い兄妹のところまで行くと、屈みこんでオレンジを二つに割ってやる。

「はい。よければどうぞ」

 二人は何か言ったが、海音には言葉がわからなかった。けれど目を輝かせて二人はうなずいてくれて、海音はうれしくなる。

「じゃあね」

 手を振って二人と別れると、海音は先ほどの所まで走って戻る。

「あれ?」

 そこにシルヴェストルの姿はなくて、海音は不安になった。

(どうしよう。帰り道を覚えてない)

 そう思うと、急に人ごみが覆いかぶさるような威圧感を持った気がした。

 人波は海音にはわからない言葉で話している。シルヴェストルがたまたま宵月系の商人とやり取りすればわかったが、ほとんどは耳を通り抜けてしまう異国の言葉だった。

 ぐるぐると視界が回るような気がした。

 この人ごみで迷子になったら、自分はどうやって箱庭まで帰ればいいのだろう?

 そう思った時、まだ公国に着いて一昼夜明けただけなのに、帰る場所を箱庭と思っている自分に気づいた。

 ふいに周りの露店の店主たちが顔を見合わせて空を仰ぐ。

 海音も空を見て顔をしかめた。先ほどまで晴天だったのに、灰色の雲が空を覆い始めていた。

 ぽつりときた時には、露店の主たちは一斉に店を道の脇に引きこんでいた。この辺りの手はずはさすが慣れていて、うっかり商品を濡らすような商人はいなかった。

「坊ちゃん、おいで。濡れちまうよ」

 道の真ん中で立ち竦んでいた海音は、宵月の言葉で呼ばれてはっと我に返る。慌てて頭を覆って道の脇に向かう。

 その時だった。空が眩しいほどに光り、雷鳴がとどろく。

(雷……!)

 海音は意識が遠のくような恐ろしさに体を震わせる。

「ひっ!」

 響き渡る轟音に悲鳴を上げて転ぶ。ころりと腕から果物が転がり落ちて雨に濡れた。

 親切な商人が雨に濡れるのも構わず駆けてきて、海音を抱きかかえてくれた。そのまま、雨の当らない屋根の下まで連れて行く。

「大丈……」

 安心させようとして、また地面を揺らすような轟音に耳を押さえてうずくまる。

 海音を連れてきてくれた商人が周りに何か呼びかけている。それも意識の外側の出来事のように現実味がない。

(だめだ、雷は……嫌い……!)

 怖くて怖くて、海音は突然の雷にただ耳を塞いで体を丸めていることしかできなかった。

「……海音!」

 だからシルヴェストルが息を切らして現れた時、海音はそれが夢の中の出来事のように感じた。

 シルヴェストルの手が海音の頬に触れる。そこは目から零れ落ちる水滴でしっとりと濡れていた。自分でも気づかない内に、海音は泣いていた。

 雷は止んでいたが、雨はまだ降っている。シルヴェストルは座り込むようにして、海音の膝の傷を覗き込む。

「怪我をしたのか。ち、血が出て……顔色も、悪い。雨に濡れたのか」

「……シヴ様?」

 海音が思わず雷の恐怖を忘れたほど、シルヴェストルは酷くうろたえていた。

「目を離すつもりは……いや、それより」

 海音が声を上げた時には、シルヴェストルは海音を抱きかかえていた。

「すぐ、医者に……!」

 シルヴェストルは雨の中に飛び出す。海音には雨が当たらないよう、体で庇いながら広場を駆け抜ける。

「だ、大丈夫です! ちょっとすりむいただけで、医者なんて……」

 海音はシルヴェストルの肩に触れて言ったが、彼には聞こえていないようだった。興奮のためか、目はうっすらと彼本来の緑色を帯びている。

 まだ降り続いている雨の中、風のように走っていく。実際、風そのものなのかもしれなかった。シルヴェストルの周りだけ空気が軽い。風が彼を助けて、彼の足を前へ運んでくれているようだった。

(もしかして、この天気もシヴ様に関係してる?)

 眉を寄せて前を睨みつける彼と、曇りきった空の様子が重なって見えた。

「シヴ様……」

「冷たいか? 一度降り出すとすぐには止められなくてな」

 苦しげに呟くシルヴェストルから、海音は目が離せなかった。

(どうして、来たばかりの僕をこんなに心配してくれるんだろう)

 海音は目を伏せて思う。

(実の親にさえ、簡単に棄てられてしまった僕なのに……)

 露店の立ち並ぶ広場から二区画ほど右に行った所に、褐色に塗られた石造りの大きな建物があった。

 シルヴェストルは飛びこむようにそこに入ると、入口にいた門番に声をかける。

「子どもが怪我をした。風邪もひいたかもしれない。常駐の医者がいるだろう。呼べ」

 息継ぎもなしに一気に言葉を吐き出す。食ってかかるようなシルヴェストルの剣幕に押されて、彼より頭一つ分も背の高い屈強な門番は慌てて踵を返した。

 テーブルと椅子が無造作に並べてあるのは酒場の雰囲気に似ていたが、酔って我を失くしているような者はいなかった。皆一様に眼光が鋭く、腰や肩には武器を携えている。

「シヴ様、ここは?」

 シルヴェストルは海音を抱いたまま、苛立たしげにつま先で床をかいている。まだ焦りに頭が支配されていて、小声で問いかけた海音の声は聞こえていないようだ。

 まもなく奥から白髪の女性が現れて言った。

「子どもが怪我をしたとな。どれ、見せてごらん」

 年齢は重ねているものの、彼女もまた油断のならない眼光を持って、腰には棍棒をくくりつけていた。

「あ、あの。僕は大したことないって言ったんですけど」

「ふむふむ」

 海音をテーブルの上に乗せて肘と膝の怪我を一瞥し、額に手を当てる。その一連の動作を手早くこなすなり、医師らしい老年の女性は頷いた。

「熱はないし、この程度の怪我ならこれから発熱することもないじゃろう。ま、そこの父君が睨んでおるので薬は塗っておくが」

「何だその適当な診断は。傷が残ったらどうしてくれる」

 目を尖らせて詰め寄るシルヴェストルと医師の間に入って、海音は慌てて言う。

「僕、全然痛くないですし、風邪っぽくもないですから」

「だが泣いていただろう」

「そ、それはその」

 海音は恥ずかしげに目を伏せる。

「雷が、苦手で。あと周りの言葉がわからなくて、不安になって」

「それは……」

 シルヴェストルが難しい顔をして黙るので、海音はテーブルから飛び降りて頭を下げる。

「ごめんなさい! こんなことで騒いでしまって」

 思い返すだけで恥ずかしかった。海音は申し訳なさと恥ずかしさに唇をかみしめる。

「もう些細なことで泣いたり騒いだりしませんから……っ?」

 言葉が終わる前に、海音はシルヴェストルに抱きあげられていた。

「馬鹿者。私はお前がどこにいても見つけられるのだぞ」

 目線の高さまで持ち上げられて、海音は奥に緑色の光が宿った瞳と正面から向き合う形になる。

「大人しく待っていればいいのだ。これだから子どもは」

 シルヴェストルはぶっきらぼうに呟いた。

 態度がどうにも大きいが、シルヴェストルは泣いたことを責めたりはしなかった。それが彼なりの思いやりのような気がして、海音はちょっとだけ笑う。

「きれい」

「ん?」

 ふいに海音は、彼の手首にブレスレットをみつけた。革ひもで碧色の石を通していて、出かける時にはなかったはずだ。

「さっきみつけたものだ。……そうか、こういうものが好きか」

 シルヴェストルは海音を座らせると、それを自分の手から外して海音につけてやる。

「おや、坊ちゃん。いいものをもらったね」

 横からひょいと医師が覗き込んで言う。

「これは公国の子どもは皆持ってるお守りだよ。祝い事の度に碧玉の原石を増やしていってね。つけていると公国の子どもだという目印になって、精霊が守護してくれる」

「……そうなんですね」

 海音は思わず笑い声を零して、姿を変えている精霊に向き直る。

「ありがとうございます」

「別に。普通の子どもくらいの持ち物くらいは用意してやらぬと、惶牙がうるさいだけだ」

「はい。でも嬉しいです」

 海音は頷いて言う。

「シヴ様から頂いたものですから」

 海音は微笑んで何度も碧玉を撫でた。

 雨は既に止んでいた。海音の心の内も、嵐が過ぎた後の森のように穏やかだった。

「先生もありがとうございました」

「構わないよ。たいしたことなくてよかった」

 海音が医師に頭を下げると、彼女は皺だらけの顔を柔和に綻ばせた。

「ここは診療所なのですか?」

「いや。傭兵の詰め所だよ」

「傭兵?」

 海音がオウム返しに問うと、医師は頷いて答える。

「公国には軍隊がないから、代わりに古くから傭兵団と契約してるんだ。今の隊長は清華家の婿で……おっと。まだ難しい話だったかな」

「……海音?」

 聞き覚えのある声が割って入る。海音も声の方向に振り向いた。

「やっぱり海音ね。どうしたの、怪我でもした?」

 ヴェルグの港で海音が世話になった葵の姿がそこにあった。彼女は海音の体に目を走らせて、膝の怪我を見るなり少し顔をしかめる。

「会えてよかった。グロリアったら、海音がどこに住むのかも教えてくれなかったし」

 葵は腕を回して海音を抱きしめる。それは彼女が出会ってから何度もした、少年への愛情表現だった。

 ところが、ぐいと葵の肩を押して海音から引き離した腕があった。

(あ……)

 海音が顔を上げると、そこには眉を引きつらせたシルヴェストルがいた。

 詰め所の外では、再び激しい雨が降り始めていた。

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