終章 Allegro ma non troppo
0.
涼やかな風が、月光に濡れて吹き抜ける星夜。
少し前に雨が降っていたのだろうか。濃い草木の香りが辺りを包んでいる。
「──これで良かったのかしら? アスカ」
「……ああ。あれだけ痛めつけられたら、しばらくは何も出来ないだろ」
濃紺に染まった大地が延々と広がる中、革鞄を掛けたり背負ったりした集団が、緩やかな足取りで歩いていた。
その男女比は、一対四。アスカ、黒鳳、スメラギ、そして──少女が二人。
「それにしても
「……ええ。あそこに残っても、何のメリットも無いもの。当面は一緒に行動するわ」
アユガと呼ばれたのは、長い黒髪に黄色の瞳を持つ、やや無愛想な少女だ。彼女は、ジェラルミン・ショーカースの手に落ちようとしているところを仲間に助けられ、こうして無事〈施設〉を脱出している。その小さな肩には鞄が斜めに掛けられているが、これは脱出した際に第二種能力者たちが餞別として贈呈したものだった。
「そう。……
「あ……はい。──何か、不思議な感じです……」
そして、黒鳳から雛姫と呼ばれたのは、長い灰髪に紅瞳を持つ少女──〈
と言っても、アスカは『ついて来い』などという無粋な命令は下さず、ただ『本当は行きたいのか行きたくないのか、はっきりしろ』という内容の言葉を発しただけだった。その結果は──見ての通りである。
「しかし、靴を履いたことが無いとはね……」
スメラギと同様名前が無かった彼女に、黒鳳は雛姫という名と靴を与えた。未だ“力”に囚われている彼女が、いつか成長して飛び立てるようにという願いが、その名と靴には込められている。
「さって、これからどうするんスか?」
「そうねぇ……。まあ、当面は〝|Allegro ma non troppo《アレグロ・マ・ノン・トロッポ》〟でいきましょう」
「アレグ……? 何スか? それ……」
「楽想記号よ。〝速く、しかし
「それは……なかなかに難しい注文ッスね……」
「ははっ。そうだな……」
アスカは見上げた。満天の星空を。自分の運命が音を立てて変わっても、空にある星々には、何の変化も見られない。
(なら、オレが変わる必要もないよな)
黒鳳は言った。己を保て、と。ならば、そうしようと素直に思う。
(世界がどうとか〈施設〉がどうとか、オレにはまだ何にも分かっちゃいないけれど)
秩序の破壊者と呼ばれ、世界の均衡を崩すとされる
だから、旅をしよう。
狭い町の運び屋のままでは見聞することのなかった世界の有り様を見て回ろう。
能力者は人類の敵なのか。世界は、彼女らの手によって滅びゆくのか。
そして、自分は己のチカラとどう向き合うことになるのか――。
「……楽しみ、だな」
困難な日々になるはずだというのに、アスカの胸中では不安よりも期待の方が遥かに大きい。これは本人にすら意外なことであった。
「──ときめいていますのね」
「黒鳳……」
いつの間にか隣に来ていた漆黒の胡蝶をアスカは見下ろす。こんなにも小柄な身体のどこに、あれほどのカリスマ性とキャプテンシーが詰まっているのだろうと不思議に思いながら。
「そんな熱い視線で見つめないでくださいまし。私、照れてしまいますから」
「えっ!? あ、いやっ! そんなつもりで見ていたわけでは……!」
頬を赤く染めながら弁明するアスカに、黒鳳はこれまで見せなかった心底からの破顔をする。幼い容姿によく似合う、可愛らしい笑みであった。
「素敵よ、アスカ。──アナタ、世界が見たいのでしょう?」
「……黒鳳には敵わないな」
「ふふっ。それはどうかしら?」
ようやく黒鳳の人間らしいところが見られたとアスカは思う。あまりに完璧で隙のない印象だった彼女もこうやって無邪気に笑うことがあるのだと、何故だか酷く安心していた。
「もし叶うことなら、ずっと
「周囲がそれを許してはくれない、か……」
「それ故の〝|Allegro ma non troppo《アレグロ・マ・ノン・トロッポ》〟ですわ」
「……そうだな」
世界が追いかけてくるのなら、それ以上の速さで進めばいい。けれど、ただ速いだけでは品がない。だからこそ、彼らは決意している。
逃げも隠れもしない。
彼らは決して許容しない。世界に消されることも、世界を消すこともだ。
もし〈第一種危険能力者〉の中で世界に仇なす輩がいれば、彼らにとって不倶戴天の敵となる。彼らは望んでいないのだ。チカラによる変革を。
「厳しい旅になりますわ。血も、涙も、多く流れることでしょう。それでも、ともに来るというのね、アスカ」
「ああ。もう決めたんだ。オレに能があるというのなら、それを上手に扱えるようになりたい。そのためには、黒鳳たちの近くにいるのが一番いい。だろ?」
屈託のない笑みを浮かべるアスカは、年相応の少年そのものだ。世界を揺るがす強大な力を手に入れても、アスカ・ティタジアという男には微塵も変化がない。
出会った時のまま、汚れなき心を持つ、真っ直ぐな──。
「お、おい黒鳳……!?」
黒鳳の頬を、一筋の涙が伝う。
「どうした……? 大丈夫か?」
「ごめんなさい。大丈夫、ただ少し嬉しくて……」
この男は、奇跡の産物だ。
黒鳳は得心した。あの過ぎた力は、彼だからこそ発現出来たのだ、と。
もし能力を授ける神がいるとすれば、アスカ・ティタジアになら〈
(けれど、アスカならきっと……)
強い自制心と揺るぎない倫理観でもって、この強大なる力を正しく使いこなしてくれるに違いない。いや、彼がそうあれるよう全力を注ごう。
「――かくあれかし」
「かく……? 何だって?」
「いえ、独り言ですわ。それより急ぎましょう。みな待っておりますわ」
アスカが視線を上げると、スメラギと雛姫、それにアユガが少し先で佇んでいた。その表情には不満や困惑がありありと見て取れる。
「ほら、アスカ。レディを走らせるものではありませんわよ?」
「……分かったよ」
優雅に微笑む黒鳳を、アスカは軽々と横抱きにした。
そして、彼らは進む。
そう。
速く、しかし甚だしくなく──。
アレグロ・アジタアト 龍馬錬路 @crossrange
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