第13話

 経過報告 二月二十三日 記録者:小川龍之介


 彼はまたテレビの内容を言い当てた。彼の記録どおり夕方のテレビは放映されている。埼玉県で起きた大火事のことなどもしっかりと記録してあった。私は彼のこの力は世界で大切に扱われ、また知る者を少なくするべきだと思う。彼の一日の睡眠時間は二十一時間。体を拭き、排便も助ける。体の筋肉は衰えつつあるからリハビリテーションに通わさせる必要がある。 

 私は彼がひねくれた性格の持ち主でありながら人間に対する尊重を捨てきれないのだと思う。人間の醜いところや美点も認めているが、彼は世間の差別の対象であったから人に対して自分だけは認められない人間だという悲しい考えを持っているようだ。私は彼に自信を持ってもらいたい。世の中のほとんどの人間が持たない才能を持っているのだと。そしてそれは世界を救うことだってあるのだと。命を救うことが出来るかもしれないのだと。

 それと、予知能力の制御を試してみたというのを彼から教えられた。結果はある程度はできるらしい。というのも話をしてそのときの気分で花は予言をしてくれるというのだから、質問してくれることに応対してくれるときとそうではないときがあるらしい。果たして花から報告された事は私達が防ごうとすれば回避できることなのだろうか。私は未来は変えられるかという映画の世界のような事を考えるようになった。考えることに観客のような立場だった予知という物事が自分に関係のあることとなるとその実質の責任は重い。私は未来を聞いてできるだけ回避することは可能なのだろうかと考えることになった。だが私は一方でこの事を自分で決めるわけにはいかないことに苦しみを覚えた。私は今まで命が失われるたびにそれを悲しく重く受け止めてきた。救える命があるとするならそれは守るべきだ。だがどうだろう、その一方で未来を変えることの責任も関わってくるのだ。タイムパラドックス。時間的逆説。詳しいことは知らないが将来で起こることを変えてしまい、時間軸的に狂いが起こることだと解釈している。だがそんな事は映画や小説の世界のことだけで、本当は何も狂いも起こらないのかもしれない。私一人では彼の予知について考えることすら決められないし、彼の将来も大切だ。天秤にかけていい事柄ではないのだ。人と命。命と未来。私は人類のうちで模範的に彼に接するつもりだ。私が今まで他人に対して模範であろうとしたように。他人にもそうするように彼にもそうしよう。それが自然なことだからだ。


 

 二月二十六日 雪


 僕は生きていることに対し今まで積極的になって対立してきた。苦しみに耐えることを自然な川の流れに流されるように諦めを持とうともした。でも僕は普通にはなれなかった。そこまで賢くなれないでいる。僕は一生懸命生きようと思う。自分の心がボロボロになるまで、そのつもりでいる。先生が言うには六十パーセントの労力で生きろと言う。僕はそこまで賢くなれない。冷静になれない。他人のことも自分のことも大事にしたい。大事にしたい分だけ僕は傷ついていく。傷つく理由は知らない。それが人の生きる世界のルールなのだろう。僕は僕が分からない。その場その場でいつも必死こいて目の前の出来事を変えてしまおうともしている。だがそんなことは無理なのだ。目の前にあったことを変えようとするなんて、誰にも出来ないことなのだ。僕は必死に大事に思う気持ちの分だけ物事を変えようとしてきた。人が大事だからだ。昔はそう思わなかった。確かにそうだ。でも今は人が大事だ。


 カタリが見舞いに来てくれた。佐川係長も。佐川係長は「特別措置だからな」と笑った。カタリは微笑んでいた。若さと化粧のおかげで麗しさで満ちた微笑みだった。僕が自殺未遂した事は二人とも知っているのだろうか。それはそうだろう。精神科に入院している患者なんてほとんどがそんなものだから。僕は二人が居る間は起きていようとした。二人は会話の最中に、まるで木漏れ日の中にいるみたいに綺麗な微笑を繰り返していた。その木漏れ日の中に僕が入るのは許されていないようだった。その美しい微笑みが彼と彼女が僕の前に作った障壁のように思えた。それは非常に高い障壁だった。僕は二人に何を言っても無駄だと分かっていた。僕は二人の微笑を観察して知った。彼らは僕と感情的な関わりを拒絶しているのだ。僕とはもうさよならだ。僕は「あっち」の方に行ってしまったみたいだった。違う世界へ。普通の人が生きている世界とは違う質の世界に。僕はそれが悔しかった。彼らの微笑みで、僕は違う世界へと見送りされた気がした。僕にどう生きればいいというんだろう。

 予知の方だが、最近は見ないことが増えた。恐らく僕が拒否をするようになったからだろう。相変わらず夢の中では幻想世界が続いている。僕は夢をみるときは必ず幻想世界に入ることになった。難破だろうが漂流だろうが、種類は違ってもそれらは始まった。

 僕は今日お菓子の国に来た。お菓子の国は苺とかの可愛い系のフルーツの作り物が多かったように思う。僕はそこで観光大使のように大事な扱われ方をした。僕はクッキーの家を見た。食べていいか小人に尋ねた。

「これは予約が入っているので食べられません。サウダニ・ジョウダーニさまがご購入しています」

「じゃあ、これは?」

 僕はマカロン風に閉じられた小さな平屋を指差した。

「家を食べるということは基本的に住む家をなくすことと同義ですのでね。普通はなさらないのです。それにこの家も予約が入っています。皆様可愛らしいということで別荘にしております」

「ところで、なぜ腐らないんですか」 

「色々な工夫がなされています。防腐剤をつかうとか」

 何年も腐らない家を作るなんてどれほどの加工がされているんだろうと僕はぼうっと考えた。

「小人さん。僕はこの幻想世界で生きるのにどうすればいいか考えるんだ。現実の世界では僕は一国民として義務すら果たせていないんだ。普通の、一般の義務をね。僕はその義務を果たすことすら必死にやろうとして、それでもその世界をともに過ごす人には満足していたんだ。世界には満足できなかったけど。でも今はもう幻想の世界で生きろとその人らに言われたんだ。突然突き放されて僕はどうするべきか迷っている。どうすればいいかな?」

 小人は幻想世界という言葉に対して何をよく分からないことを、というような反応をした。役者の中にも僕のことをよく知らない者共が増えてきているようだった。

「はて、どういった……? 大使さまは我々をからかっているのですね」

 彼はそう言って賢そうにヒゲを捻って笑った。僕はその微笑みが愉快そうなのに同調して僕も笑った。僕は少し意識をしっかりと働かせようとした。

 海が見えた。広い景色の中に一面の海。夕暮れが沈んだり、青い海に戻ったり景色が交互に変化する。夕暮れと青い海、著しい勢いで場面が変化する。例えば僕が瞬きしているようにあっというまにそれが起きるのだ。そしてその映像は確かに連続性を持っている。交互に素速く変わりはするが、その中の人々は確かに普通の中で普通に生きているように見える。ビキニを腰の部分に直したり、太陽を遮るように手を額に当ててみたりしている。僕はその落差の中に落ちた。世界が激流の中に呑まれているのだ。たまにこのように全ての現象が混乱を極めたように僕を翻弄しようとしてくる。混沌の形と僕は呼んでいる。世界が混ざり合って(他の人からしたら映像が激しく切り替わっている、ということに過ぎないのかもしれない)何かの冷静な形になろうとしているのだ。僕を鍛え上げるためにこれらは存在すると僕は思う。混沌の中でも感情をコントロールできるようにと。だから僕はこの激しい場面変化の狂った感じに最初は叫びそうになった。だがそのうち俯瞰するような気になった。だが僕はそうすると世の中が空っぽになった気がした。自分が何も感じないように鍛え上げられて、そのうち本当に血を流す痛みすら感じなくなってしまうのではないかと想像してしまう。僕は傷めつけられても何も思わなくなるのかもしれない。世の中で生きていくために傷めつけられても、傷をつけられても何も感じなくなるように。僕はそういうスレスレのところを今生きている。看護師さんは今日も小さく微笑んで僕を見る。体調はいかがですか。彼女は僕をどこか切なげに微笑んで見ている。そんな微笑んでも何も変わらないよ。ありがとうね。と僕は心の中で言う。「いつも迷惑をかけますね」僕は本当にそう思う。「迷惑だなんて、思わないですよ」彼女は僕のような反応を幾らか見てきたかのように気丈に振る舞う。僕はこういうときに死という言葉が浮かぶ。こんなに大切にしてくれる人の期待すらどうせ裏切ってしまう。だからいつか死が僕を迎い容れてくれたとき、死ぬ前に彼女に礼を言おうと考える。

 僕は世の中のために働こうという意識よりも、自分が不幸の中にいる自覚の方が大切なのではないだろうかと考えてしまう。不幸であることに美という意識を感じているのではないだろうか。だからこうも僕は不幸であるという意識に重心を傾けて生きているのではないだろうか。自分が不幸であるということに対する優越感を感じる。この人の不幸より僕の不幸の方がずっと上だ、という人が人に対し、差別が極まったときに生じる意識なのではないだろうか。僕はこれを不幸による優越と呼ぶことにする。なんでも名前をつけておこう。自分の身の回りに対することは名前をつければ整理しやすい。

 

 本を読んだ。人は自分を惨めなときに惨めだと思い、嬉しいときに嬉しいと思わなければ感覚自体が麻痺するらしい。僕は感受性が豊かなんだろうか、いまだに喜ぶことができる。まだ喜ぶという感情は存在する。ただ傷つけられれば傷つけられるほど、僕は人を見下す理由が増える気がしていく。

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