第11話

二十七歳


 二月十七日 経過観察者:小川龍之介


 特効精神薬a被験者:沢田 彰(さわだ あきら)二十七歳。


 被験者沢田彰は一ヶ月ほど前の緊急入院時から小康した様子が続く。あまり精神的に健康とは言えない。精神安定剤を多めに摂取させているためだ。幻惑世界や世界と語るとの発言から、統合失調症特有の幻覚を見ていたと思われる。彼について特筆すべきことがある。それは彼がある程度精神安定した後、未来の様々なことを言い当てるという、いわゆる予知を発揮した。それと彼の平均的な睡眠時間についてだが、三日に五時間ほどしか起きていられない事が分かった。脳波を測定したところ、彼は睡眠時間のほとんどで強烈で鮮明な明晰夢を見ていることが判明した。睡眠時間について判明してから投薬を経口タイプから点滴にシフトした。

 非常に珍しく超感覚的知覚を具有した精神病患者だが、本人の希望から特効精神薬aの治験を開始。

 彼は起きている間、三日後のニュースを予測するという事を始めた。体を動かすことが困難だったため、口頭を録音して記録した。実を言うとこれは入院二週間後から始めていた。彼は世間の事をことごとく言い当てていた。テレビの番組名を伝え、未来をそのまま読み直すように一言一句間違えずニュースキャスターの言葉を語った。我々はこの事が表沙汰にならないように予知能力で色々なことが分かっても我々の前以外では語らないようにと伝えた。彼は苦笑していた。私にはその笑いが嘲笑に思えた。推測で事柄を語ってはいけないと思うが、あからさまだったので嘲笑したと記録しておく。

 それと、この経過報告では私の個人的な部分も大分語っていいという了承を得た。私はこの記録に於いて自由な個人的な私見や大胆な意見が重要になると思っている。予知という能力を持った患者の前では私の事の一切だって知られているかもしれない。だからこそ柔軟な思考が重要になると思っている。

 私は彼と話すことを始めた。彼は私を何気なく見た。精神安定剤によって虚脱したような眼差しをしていた。私は彼をレインマンなどの様々な天才的存在としてみている部分がある。だからこそどうしても彼と会って話をしてみたかった。私は彼を人類の進化の過程に於いて確立された存在だと思っている。


 

 経過報告:沢田 彰 二月二日 曇り

 

 僕は二週間と少し前に病院に入院した。オーバードーズして以来より意識が少しずつ、以前よりははっきりとしてきている。だが大分強い精神安定剤を処方されたらしい。点滴らしいが意識がぼやけるし、よだれも多少垂れるくらいで意識をはっきりとさせられない。

 自分で経過を記録したらいいと先生に教えられたので僕は自分なりに経過報告という形を取ってみる。ただの八つ当たりの文章にならなければいいが。

 僕は人格が崩壊しそうになったときオーバードーズ、精神安定剤の過剰摂取を行った。僕は死にたいと思っていた。誰にも止めてほしくない。今でも死にたいと若干思っている。だがそれはいけないことだ。分かっている。分かっているのにやめられない。そして眠っている間に妙なものを見る。やたらとはっきりしていて僕に現実の世界で「この事」を話すように言ってくる。花だ。大きな花弁で口を大きく開いたような百合の花が話しかけてくるのだ。「この事」とは未来についてだ。僕はこれが精神病の見せる症状だと思っているのでどのような現象なのか理解できない。だが夢で見ることがあまりにはっきりしていたので何の気も無しに先生に伝えておいた。内容は確か……覚えていない。ものすごく細かに伝えた覚えはあるのに。精神安定剤が多すぎて記憶も判然としないでいる。僕はやはり使えない男だなと思う。人のためになれればと思う。それだけでも十分大事な考えだ。生きていく上で他人を大事にしないのはいけない考えだ。それが分かっただけでも治療の道のりにおいていえば重要なポイントだ。社会生活への復帰の第一歩だ。

 だが僕はもはや誰にも何も望まれていないかもしれない。精神病患者なんだ。精神病患者は生きている価値がないと位置づけられている。僕もだいぶ前からそう思っている。人間ではないと思ってもいた。僕は自分を卑下しているのではない。社会的な普通の意見に共感して記録しているだけだ。それも今後は意見が変わるのだろうか。自分の意見を社会的な擁護意見に変えて自分を一般的な良識の中で守ろうとするのだろうか。それは恥ずかしいことなのではないだろうか。どちらにしろ僕は自分を世間の何かに守ってもらおうと考えていることが恥ずかしいと思っている。誰にも守ってもらわなくていい。僕はある程度は大丈夫だ。一人でだって大丈夫だ。そうやって生きてきたんだから。そしてこれからは一人でも大丈夫にならなくてはいけない。一人でも滅茶苦茶にならないで済むように。あと、幻想世界への漂流は禁じられた。今までその世界の事は黙っていたのだが、話したら自生思考というしっかりと症状として存在するものだそうだ。僕はあれが病気の症状だとは到底思えなかった。だが先生が言うからには確かだろう。僕はこれから家族やカタリが居なくなっても大丈夫にならなくてはいけないのだ。甘ったれてはいけない。だがしっかりと時間をかけなさいと言われたから比較的それを心の真ん中に据えて生活しよう。ああもう、心がぶれぶれだ。自分というものがとても弱くなってしまったようだ。ナヨナヨしている。昔はこういう風ではなかった。もっと男らしかった。もっと元気だった。どうしてこんな風になってしまったんだろうということばかり反芻している。これではいけない。繰り返している。どうしようかなんて考えなくていいと先生は言った。これでいいのだ、と。このままの君でいいんだと先生は僕に言った。どういう意味だろう。世界で、あるいは社会的に認めてはいけない存在を自分で認めろというのだろうか。テロリストを認める国家のようなものだ。僕自身がそう思う。

 でも、死にたいとは思ってはいけないと思う。だって、人間は皆幸せになれる。きっとなれる。幸せになろうと思えば、病気の人だって幸せになれる。不幸のど真ん中の僕もいつかなるために生きているのだ。幸せになる、僕は一生懸命幸せになるために生きるんだ。幻想に惑わされず、確かな現実と対面してその中に存在する小さな幸せのかけらを拾うみたいにして。

 幸せについて考えると僕は幸せになれるみたいだ。理想について考えるのと違って、小さなことが幸せに思えるのがきっと幸福な習慣なんだ。僕はそれをもっと増やしていきたい。人から嫌われても、人から憎まれても、僕はきっと僕の幸せを探さなくてはいけない。孤独でも、差別されても。それはきっと大変な苦労なのだろう。精神病なのだから僕のような人間は生きにくいだろう。それを承知で今度から生きていかなければいけない。僕は孤独でも、差別されても幸せです、と大きな声で宣言できるような人間になれるだろうか。そしてそれは正しいことなのだろうか。孤独で人は幸せになれるだろうか。蔑視されるようでも笑っていられるだろうか。疑問だらけの僕の人生に答えがおりてくるだろうか。

 僕が起きていられる時間は短い。先生は過眠症とも違う症例だが、眠りすぎだと言った。それもそうだろう。僕は三日間で五時間ほどしか起きていない。減薬しようかと先生も考えたそうだが、まだその段階には至っていないそうなので、先送りにした。

 僕はただ部屋で何もしないで看護師や先生の話に頷いて「そうですか」と受け答えするだけの日常を送っている。なんの刺激も無い。だからせめて暇つぶしに考えている事を文章に起こしたりするのだ。書くことは山ほどある。でもなんの意味も持っていない。僕が幸福と活力を意識しつつ生きるようになるにはどれだけの歳月がかかるのだろうか?


 二月五日 晴れのち雪


 病棟の暖房が少し強いようだ。暑苦しさで目が覚めてしまった。掛け布団がはだけている。それでも寒くない。窓の氷は一つ一つの氷の粒がまた一つ一つと大きな固まりへと繋がっているように見える。そして更に大きな塊となり、大きな勢力をつくり、温度が高まる正午過ぎに氷の勢力と他の勢力の隙間に流れを作りながら一気に溶けていくのだ。僕は外を眺めた。公園が見えた。僕は公園に雪だるまがあるのを見た。雪だるまには殴られた跡が幾つもあった。それを見て、殴られればすっきりするような事も世の中には沢山あるだろうな、と苦笑いした。もちろん僕はその雪だるまが羨ましかったわけではないが。

 実を言うところ、後十分ほどしか起きれないだろう。少し眠い。今は午後二時ほどだ。世間とのズレがこれほどまで大きくなるとは僕はちょっと考えられなかった。もちろん睡眠時間の事だけを取ってみてもそうだが、僕の生きるという意識と社会でいう生きるという意識は大分かけ離れたものに移り変わっている。世間は仕事をし、給料を貰い、そして消費し、愛する者のため、または自分のために気持ちを揺り動かしながら奮闘して生きている。だが僕の場合、その揺り動かすものが難破だったり、精神安定剤の調整だったり、人との軋轢で生じる些細なストレスだったりするのだ。僕はほんの少し指先で押すだけで倒れてしまう。立たせることの方が難しいのだ。だから社会的な保護を受けなければ生きていけない。だから僕はただの幸福を目指して生きているんだ。何も偉そうなことを言っているわけではない。ただ楽しめればいい、と少し遠回しに言っているだけだ。この経過報告のノートだって、ただの暇つぶしだし、三日で五時間しか起きれない男に楽しみな行事なんかそうそう起きっこない。

 先生は経過は順調だと言った。僕はあの予言らしい「伝えた事」は忘れてくださいとぼやいた。先生はそれでかえって記憶に残ったみたいだった。僕は苦笑した。苦笑いのつもりなのだが本気で笑っているように見えると斜め前にある鏡を見て思った。そんなどうでもいいことを僕は書いている。それではそろそろ寝ることにします。おやすみなさい。


 二月八日 雪

 

 起きたらなんだか外が騒がしい。外がと言っても部屋の外のことで、看護師や医者などが集まってやけに深刻そうに立ち話をしている。その様子がとても大切な事に問題が起きたのだと僕には分かった。なんだか記録してはいけないような雰囲気なので今日はこれで終わる。


 

 二月八日 経過報告:看護担当 市川京介 

 

 私は彼の看護担当です。彼の睡眠時間の著しい長さなどの点においては言及しません。ただ最近妙なことを始めました。目が覚めたらスマホの録音機能で夢で見たことを記録しているようでした。これは自分で自分の夢が大切であり、幻想や空想を愛す者の傾向に私には思えます。それと担当医師の川上圭太郎先生からの報告ですが、超感覚的知覚を会得しているとの報告がありました。詳細は今週末の会議で議題として出される予定ですが、私は担当から外されると思いますし、私には超感覚的知覚という未知の領域に足を踏み入れるほど自分には力量が無いと思っています。これは自己否定という意味ではなく自己肯定したうえで自分の身の上を決定しているつもりです。ただ、私見でいうのであれば、超感覚的知覚を持ったものの多くは他人に利用されがちになり、自分自身の生活したいように生きるというわけにいかなくなる場合が多いと思われます。だから私は彼の超感覚的知覚のみにとらわれて考えるのは彼のためにならないと思います。多くの精神障害者がそうするように、デイケアや生活訓練施設などに入れてそこから一般的な就労施設に移行していくべきだと私は思います。

 今日は教授回診がありました。彼はそこでどのように未来を予知したかについて質問されました。彼は夢に出てくる花に伝えろと言われたと述べました。私は皆が彼を見る好奇の目に恐怖を覚えました。彼を特別視することに私は疑問を感じます。彼はまっとうな事を考えようとし(あまり多くは語りませんでしたが)、そして自分はもう普通ではないのだから自分なりの幸福を手にしたいと一種変わってはいますが、前向きな一面も見せるという色々な人間的な側面を見せ、そちらの方が精神衛生上大切だと思います。


 二月十八日 雨


 予知について医者が色々言及するので、特効薬aの治験は打ち切られた。

 また死にたい気持ちに襲われた。眠っている最中も起きているのと大差ないような感じがする。どちらの世界でも非日常的な事が起きて僕を圧し潰そうとしてくる。僕は毎日疲れている。こんな事働いている人に言ったら怒鳴られるだろうな。眠っているだけなのに疲れているって。しょうがないさ。分かっている。分かっている。僕は期待していた。ここに居れば何か変わるんじゃないかって思っていた。だが日々検査検査で嫌になる。ここの先生らの多くは僕を楽しそうに見たり哀れみを含んだ微妙な表情で接したりしてくる。分かっている。予知能力のことなんだろう。僕だって驚いたさ。そりゃあ。だがどうしろっていうんだ。別に僕が口に出さなければ問題にならないことだし、僕が知ったところでどうにもならないことばっかりじゃないか。それを一々何を見ただのと質問してくる。僕は段々嫌になってきた。何を糧にして生きていけばいいか分からない。疲れた。僕は普通がいい。普通って何さって皆言ってくるんだけど、そういうのいいから。普通にしてくれ。ノーマルな人間になりたいんです。疲れた。起きる時間が一日三時間になった。僕はそのうちの時間を利用して日常を記録している。今のところ十五分くらい書いていると思う。起きているときは歩く練習をするようになった。食事は点滴。おなかは空くけど食べたいと思わなくなった。風呂は体を拭いてもらう。たまに熱いお湯に入りたくなる。疲れた。一日を記録するだけでも疲れる。僕はなんのために生きているんだろう。やっぱりこの「なぜ生きている」という原点に回帰してしまう。 

 昔は生きる目的を探してそのために生きるのだと思っていた。

 だが僕にはやりたいことができていない。というより目的が無い。退屈に圧し潰されそうになる。そして生きている意味をまた探してしまう。たまにこの病院のカウンセラーに「そうやって生きていくのは辛くないですか」と心配そうに訊かれる。「楽しんで生きるっていう方法もあるんですよ」とその女性の先生は微笑んだ。僕は世の中の人が未だに好きになれない。世の中の人達と何をしたってどこに面白みがあるかを理解できない。僕は世の中の人によく無視されるから、僕の方でも無視をしてやる。というより僕の性格が悪いのだろうか。知り合って話す人には特に何も言われないのだが。ああ疲れた。なにをするにしても働かない頭を無理に動かさなければいけない。死にたいって言えば楽になれるだろうか。死にたいっていう気持ちを相手に伝えたら、その人は僕を泣いてくれるだろうか。そんな大事な人は居るだろうか。僕には大事な人はいない。親が死んでもなんとも思わないだろう。まあ親が死んだことが無いから断定的にはなれないけれど。悲しいのは悲しいが、その悲しみは家族とはかけ離れたよそよそしさがある。見たことがある人が死んだからという他人のような驚きの方が強いのだ。僕はとんでもなく孤独なのかもしれない。愛したい人がいないということはきっとそういうことなのだ。空しいけど、自業自得だ。愛していないから愛されない。それだけの理念だな。外の長い糸のような雨を見ていると、僕がこの世に居なくても構わないよと言ってくれて安心した気持ちになれる。なぜだろう。悲しいことを考えているはずなのに、僕はそう言ってくれたらとても安心する気がする。頑張ってくれなくてもいいよ、と許されている気になる。僕はどうやら本当に孤独な人間らしい。ただ今は眠れればそれでいい。起きたら自分の世界の感じ方が変わってればいい。薬の加減か何かで。

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