第10話

 カタリの現在の事実を知ってから四週間経った。僕は少しずつ仕事に慣れてきていた。仕事をしつつ漂流は続けた。漂流は好きだったから。幻惑世界への漂流は見た事もない人と会えて、話ができ、僕はたまに説教され、たまに言い返したりした。彼らの多くは僕に批判的な姿勢を取り、そしてその批判はあまりに稚拙な事が多く、僕は言い返す事で鬱憤が晴れたりした。僕はアルバイト先では作業中は無口な事で通っていたが、休憩中に嘘のように楽しそうに話をするので皆びっくりしたそうだ。僕は人生でお金をたくさん儲ける事はなさそうだが、どこにいっても居ても困ったことにはならない気がした。ただ心の奥底を打ち明けられる相手がいないことが問題だった。だが、それも漂流したときに話せば良い事だった。

 今日漂流した所は僕の実家だった。父さんが居た。父さんは僕に「仕事をやっているか」と訊いた。

「やっている」と答えた。

「カタリとセックスしろよ」と彼は言った。

「大きなお世話だ」と僕は笑った。そして手に持つナイフで彼の手のひらを抉った。僕は最近彼らを傷つけようとすることがあった。そして彼らを可哀想に思った。こんなに傷つけられても誰にも相手をされない。僕以外には。僕は制御している自分を不安に思った事がある。だがこれでストーリーは進んでいくそうなのだ。アカシック・レコードがあるように、僕の中にもその事々が記されているようなのだ。この通り進めないとまたやり直しなのだ。だから自動的にこういうことをするように話は補正されていく。最初はひどいことをさせるそのストーリーに僕は反対した。空想の世界であろうがやってはいけないというか、考えてはいけない事がある。だから僕はまともじゃない状況というか、精神病らしい男である精神状況になるように物事は運ばれていった。だが僕はその中でも正常になろうと精神安定剤を多くした。そうしたら漂流は比較的静かで、穏やかな物事から始まるように書き変えられていった。僕は段々この漂流をすることに否定的な気持ちになった。だが止めなかったし止めたくはなかった。僕は素晴らしい世界を見てきた。映像を編集して僕に見せてくるときもあった。何かの芸術作品であるかのようにそれは過激で、斬新な映像だった。そして猥雑だったときもあった。だから僕は最初はその映像を見せられるのを止めようとしたのだが、それは通り過ぎなければいけない漂流だった。ほとんど自分の意思で止められない漂流もたまにあった。僕はそれを難破と喩えた。

 カタリはあれから僕とセックスフレンドになった。金の貸し借りをしないことや恋人にならないことが条件だった。僕はカタリとセックスする度に幻想世界が新しいものに移り変わっていくのを感じた。なんというか、属性が変わるのだ。それはパソコンのアップデートと同じだった。周期があるようだった。そしてその周期が来るのを僕は楽しみにしていた。彼女の部屋の丸い窓から見える街灯の光と月の光だけが僕の印象に強く存在し、変わらなかった。僕はその高級なマンションのことで他に何も印象が残らなかった。本棚があった。清潔な台所と、小さいけれど綺麗に飾られた食卓があった。テレビは無くデスクトップ型のパソコンがあった。それらだけは記憶している。しかし本棚に何が入っていたのかも知らないし、清潔な台所はIHなのかガスなのかも知らない。食卓は何で飾られ、何を敷いているのか知らない。そんな風にカタリは空気のような部分を持っていたように思う。捉えようとしても捉えられない存在だった。彼女は話しているときもどこか超然としている。僕は初めこの女性の得体の知れなさに困惑したのだ。だが今は分かる。彼女はそういう風に見えるだけなのだと。確かに川園カタリという人物はこの肉体に存在し、精神病を治療しつつ仕事に励み、僕と同じく精神安定剤を飲みながら生きているのだ。

 僕らはフラットな仲であったし、相手の生きている世界のことに干渉したりしなかった。交わっているのに自分という形だけは確かで境界線は混じり合ったりしなかった。確かな輪郭で僕と彼女は分かれていた。交じり合っていても別物のように存在した。

 僕はその境界線の太さを確かに感じ取り、それに満足もした。彼女は確かにいると僕は認識している。僕はその事に満足した。僕はそれが大事な事なのだと思う。彼女という肉体に交じり、たまに話をして精神と精神の面に触れ合う。それが彼女を感じるという事なのだと知った。それだけが僕にできる事だ。そして彼女を感じて深く喜べることだ。

 僕は今日、係長の佐川宏光と話をすることになっている。彼女は口が固い方かもしれないがさすがに何度かマンションに出入りしていると、佐川も気付いたようだった。

「君たちの仲を絶つという事をするつもりはないよ。それをまず言っておくよ」

 僕らは恋人だと思われているらしかった。カタリもまた何も特に言わなかったのかもしれない。僕はそんな事はどうでもよかった。恋人だと思われようが、セフレだと知られようが、彼女と交われることに意味があるのだから。

「君は特別になる。僕らの存在を知ってしまったのだから。説明しておくが僕は元々雑誌の編集長と長い関わりがあって、こういう事をしている。作家も今は名前だけでは売れなくなったり、もっと面白い話を書ける人が出てきたりするんだ。そういう人らを放っておいて無名にしておくより、違う名前を与えることが僕の仕事だ。編集は僕はしていない。彼女が精神病という事も知っている。だから経過を記録しつつ監視も僕はしている。恋愛沙汰でどちらかが壊れるようなら僕はいつだって君の方を壊してやる。それでもいいなら付き合いなさい」

 僕は彼の純粋な気持ちを内心笑いたくなった。彼女がこれほどまともな人間と関わっているなんて不自然だ。僕はいつだってなんだって壊れてもいいと思って生きている。どれが壊れたって、自分が壊れたって佐川が壊れたって、カタリだって父さんだって、サトリだって。僕はもはや違う世界の中に生きている幻想世界、幻惑世界、漂流、難破、言葉はなんだっていい、たくさんの事々を経験してきた。僕は幻想の中に生きている。こちらの世界で何が起きたって今更どうでもいい。僕は幻想の中で生きていたいだけだ。それだけでいい。金も要らない。この生活があればいい。だがまあ、彼との約束も一応守っておこう。僕は約束なんて守れる人間ではないが、お金は最低限必要だ。

 僕はそうしてこの世界にとっては葉っぱのように脆くてか弱く、大した意味などない約束をした。僕はそれを守るつもりではいる。だが僕にはそれは重要ではないのだ。世の中の他人は僕にとって重要な存在ではなくなってきている。僕は幻想世界で知ったのだが、他人が非常に弱いものだというのは知らなかった。それは違う世界から同じ形の石を拾うように不思議な話だった。

 他人というのはいつも自分を守るために攻撃的な姿勢を取るのだ。僕はそれらに傷つけられてきた。攻撃を受けるかするか、どちらかにならなければいけない。普通は。攻撃的になるか優しく人に愛される人間になるか。となると皆人に優しくしたいが、それは難しいことなのだ。人に優しくしているつもりでも、誰かを傷つけていることになるときがある。そして人間の感情というのはそうも容易く制御できるものではない。

 僕は色々と話すことが沢山あるのだが、それを収めきれないかもしれない。そしてこの記述を読んでいる人らにとっては僕が異常な人物であり、その異常さの一端として僕がこのような事を書くと思っているかもしれない。(といってもこの日記帳を読めるのは僕以外存在しないのだが、だがどこかの神様みたいな存在に見てもらえているかもしれない)僕は自分が異常じゃないと思いたい。だがそれは不可能なことだ。僕は幻想旅行ばかりしているのだから。僕はこの日記に何を残せばいいか分からないでいる。

 私的なことを書いても誰にもこの事は伝えられない。だから最近はパソコンにも記録を残した。誰かに見てもらうために。僕は混乱している。誰かは重要じゃないのに。誰かを欲している。孤独だと最近になって分かった。幻想は皆、私達がいるじゃない、と言ってくれる。だが僕には誰かが必要なのだ。現実世界で。僕は最近もう何のために生きているのか分からなくなった。ただ辛いことが分かる。幻想と戯れるのは楽しい。だが何かが圧倒的に違うのだ。僕はこうやって現在進行系で必死な気持ちを綴っている。だがこの記録は誰にも見てもらえないのだ。痛みを知ってもらえないのだ。悲しい気持ちがあるのに、淋しい気持ちがあるのに、そして世の中の人の多くがそれをこらえているのに、僕だけが耐えられていない。僕ぐらいの年になると皆人生をつまらないものだという。僕はそれを変えたいと思った。そして幻想世界が生まれた。そうではないだろうか。分からない。僕は今という現実にすがるだけで必死なのだ。考えることも辛い。生きていることが辛い。死を望みたくないのに、死を望む自分が自分を殺すために人格を崩壊させていこうとする。僕が僕を殺すために幻想が僕を殺そうとするのだろうか僕が生きていることは間違いなのだろうかそうやって世界の中の僕は消えていくのだろうか必死に今を記述している気持ちも無駄で終わるのだろうか質問ばかりだああ何をすればいいのだろう、記述は止まらない余計なことも記述していく記述は気絶しそうな気持ちだああ今日が休みでよかったこうしてセカイがほろびていく僕のセカイがカタリとサトリもどっちも本当はだいじだダイスキだったなんでああやってカッコツケてすててしまったんだろうくすりをのまなくちゃ、このシコウをとめるためにくすりをのまなくちゃたくさんのんでとめてしまなくては

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