第9話

 僕は今日アルバイト先に面接しにいったことを叔母に伝えた。叔母はどうだった、と月並みで質問の目的が曖昧な質問をした。昔知った女の子がいた、と僕は答えた。彼女にこのようなことを言うと後が面倒かもしれないが、僕は相談に乗ってもらえるかもしれないという算段から自分から身を乗り出して言うこととした。

「へえ、良かったじゃない。可愛い子?」

 僕はへらへらと苦笑し、彼女の好奇心旺盛な光る目を眺めた。彼女の目には若い輝きがあった。僕はその若い輝きがこの年になってまで続くことに不可思議や奇妙さを感じ、人間一人一人に対する希望を幾らかは持っているのだろうと結論づけた。僕はといえば普段寝てばかりいたから今日少し走っただけで体は疲れていたし、人に対して窮屈さを感じているから心ばかりが年を取っていく感じがしている。

「可愛い子たって、僕には縁がないでしょ。僕はそういう事はもう勘弁してほしいくらい味わったんですから」

「幾ら痛い目を見たって人間恋をする生き物なのよ。それは自動的にハマってしまうものなのよ。あんたが読んでた小説のタイトル・・・・・・歯車みたいにね」

 彼女は中肉だったが顔は人が良さそうに丸かった。その丸い顔が愛想良く笑った。

「人生は甘くないですよ。恋愛だって甘いわけじゃなかった。確かに癒やしや美しさに対する陶酔は感じてきたけれども、僕はそれに騙されすぎたんです。それで死ぬところだった」

 僕は缶ビールの冷たさと頭がぼやけていく感覚にのぼせながら笑った。彼女は笑いもせずビールを飲んだ。

 話はそれで沙汰止みになった。テレビの天気予報が話題を転じながら静かになった沈んだ雰囲気の中に浮き出てくる。僕は叔母さんの買ってきた焼き鳥をかじった。外ではみぞれが降っているらしかった。車や向かいの家の屋根に降り積もらずに解けていくのが見えた。この狭いダイニングキッチンでも多くの物事が見えて変わっていく。僕はこの部屋で起きることだけが僕の周りで移り変わる事々の中で美しいことに思えそうだった。

 壁は可愛らしい飾りだったし、部屋は食事をする机の上が煩雑としているだけで、周りはよその人から見てもキレイだと言える最低限の整理がされていた。

 僕はこの古くから普及した狭い部屋が好きだった。そして窓の奥でいつも小中高の学生やジョギングするおじさんが通るのを見た。おばあさんも手押し車を押しながらゆっくり通った。僕はたまに見るその人たちを見て楽しさだとか自分だけがわずかでもその人々のことを把握している愉快を感じた。

 そしてその人たちが生きている日常の事を想像した。なにに喜びを感じるのかを考えた。人それぞれの生き方に共感を得ようとした。だがそれは段々空しいことのように思えてきた。自分の苦しみが大したものではないと思えてきたからだった。自分の受けた苦痛が徐々に否定されている気がした。僕は段々生きていくことに対して神経質になっていった。ただ存在して日常を生きることも苦痛になった。僕は精神安定剤を飲みながら今の自分を肯定しようとしている。自分の苦痛は誰も自分を否定していない。それは分かっている。だが僕は自分の苦痛はきっと他の人の苦痛を凌駕していると思っていた。だが人の苦痛を見聞きするとき僕も苦痛を感じた。

 それを人に相談したことがある。人は他人の苦痛を自分にも感じるというのを「優しい」というのだとその人は言った。僕は自分の優しさに何の感謝も感じない。むしろこうも優しいというのが重荷になるだけだ。他人の苦痛は知りたくなくても伝わってきてしまうのだ。恐らくそれが僕の才能というものなのだろう。僕はたまに日常や世界を恨む。これほどに容易く人を傷つける世界だったなんて、と僕は世界の姿が明らかになる度に思う。人が人を傷つけるのも、自分で自分を傷つける人も。そして僕も。

 僕は世界が段々世界を否定していく感覚を覚える。僕が僕を否定するように、他人が他人を否定する連鎖からそれは始まっているようだった。僕はそれが蒸気機関車のようにパワフルで非合理的なエナジーを放っているのを感じている。無駄にエネルギーを使いすぎている。僕は漫然とそのような事柄に振り回され、そして生きていく。

 僕は翌々日からデータ入力の仕事を始めた。ほとんどの人が僕と同じくらいかそれ以上の年齢だった。その中でカタリはかなり若い方だった。彼女は僕よりも早くに仕事場に着き、職場の人全員に挨拶して回っていた。僕はそれが以前の彼女とかけ離れているとは思ったが、同時に彼女らしいとも思えた。彼女は明るく若く、そして生活に希望を持って生きている人の一員に感じた。彼女は僕に昼休みに話しましょうと言った。僕は頷いた。

 就業時間になるとメールで送られてきた住所を専用のソフトウェアに記録する作業が始まった。僕の教育係は西町ミツルという青年だった。後から知ったことだが彼は僕がいた大学に在籍中で、友人とホームシェアリングして生活しているそうだった。彼は平均して明るかったが、年上や上司に対しては緊張したような面持ちでいた。

 僕には初めのうちは敬語を使っていたが、僕が丁寧で優しい対応を取っていたら同世代の友人のように笑顔を見せるようになった。ゆったりとした時間を共にした。第一からして僕はこの手の作業はしたことがある。そのため彼のような指導員はさほど必要としていなかった。だから初めのうちはミツルは僕とほとんど会話をしなかった。ミツルはまるでコミュニケーションの取り方に悩むロボットのように逡巡する時間が長かった。僕はその彼の態度に苦笑をしてみせることしかできなかった。

 だからそのうち僕は彼の緊張を和らげるように「そんなに緊張しなくていいですよ。僕は僕で出来るから」と伝えた。

「責任っていうものがあるので」と彼も苦笑して答えた。

「でもその責任を辞退したり、僕が失敗したりしても大きな問題にはならない。今までがそうだったようにね。そうだろう?」

 彼ははにかんで「そうですね」と笑いの影を濃く深くした。

 彼は細身で背の高い大学生で、日常を過ごすうちの他人の強さにひるみながら苦笑して生きていて、好みの異性のタイプがだいぶ年上だと判断できる臆病な一般的な青年だった。僕はその青年が童貞だろうなと思って一瞬一瞬の観察を深めた。彼は係長の佐川宏光に休憩時間に指導が必要ないというような事を告げたようだったが、係長は続けるように示唆した。という事があったのをミツルは言った。ミツルは慎重に慎重を重ねるタイプらしかった。だが慎重になりすぎて人と親密になるに必要な第一歩を超えられないタイプにも見えた。僕はその青年に年上としてのエールしたい気持ちを胸に秘めながらまた作業を続けた。 

 僕は作業をしている間は落ち着いていられた。まともな思考や意識で自分が自制させられている気がしていたし、一つの事柄に打ち込むことで神経の落ち着きを感じた。だが休憩時間に僕は自分の思考が激しく一定の事柄になだれ込むようになり、考えることが止められず、そしてその考えは自分を激しく否定するようなことなので手を焼いた。僕は精神安定剤を飲んだ。激しさは止んだが動きがスローになっただけで意識の流動は静かになって続いていた。

 僕は世の中の人が僕を差別した時期を思い浮かべていた。僕は精神病です、と言ったらその人の顔色が全く変わり、僕を見る目も変わった。そして僕を無視するようになり、僕をいじめるようになった。僕はそのときは何も悪いことなど起きていない振りをした。誰一人傷ついていないよ、という反論を暗にしてみせた。だが彼女のいじめは止まなかった。その女は普段は人間に対して深い希望の話をし、人が喜ぶことをする皆から可愛がられるタイプの女性だった。僕はその人の差別と無視に対しどういう対応も取らなかった。周りも彼女の味方をしていた。僕は何一つ失っていないんだ、君の言動では僕の何一つも変えられないんだという主張を無言で仕返した。だが彼女とその取り巻きのいじめは止まなかった。僕は辛かった。ある日バーで知り合ったその優しい人の変貌が、僕を孤独にし、神経質にし、苛立たせた。僕はその人に何かしてしまったのだろうか、それなら分かる。これらの行動の意味も理論だたせて理解できる。僕は彼女を大事に思っていた。そしてその取り巻きも愛せる者たちなのだと思っていた。だがそれでも僕は一人になった。表面上の付き合いだったのだろうな。心の通った言葉など彼女は使わなかったのだろう。そして彼女は僕の「反論」に苛立ったのだろうか。僕を底の底にいさせて安心したかったのだろうか。僕は休憩時間の今、無料で飲める紅茶に砂糖を混ぜてその太陽に似た色を見つめている。

 その途中でカタリが話しかけてきた。

「よっ。新米さん」

 彼女は明るかった。微笑んでいるのが常らしい顔つきだった。僕のそのときの顔つきは恐らくひどいものだったに違いない。鋭く尖った目で宙を睨み、意識が違う次元にいってしまっているような目つき。

「辛かったのかい?」

 彼女は心配げに僕の肩を叩いた。僕は彼女の言葉に返事する余裕はなかった。

「まあ初めてだからかもね。ゆっくり慣れていけばいいよ」

 僕はそうして昼休みに彼女と打ち明けた話をすることが出来なかった。僕は作業を再開しだした頃に彼女に終業時間に残ってもらえるようにミツルに言伝した。幾らか社内を行き来できる融通がある彼は僕と彼女の関係性を不思議そうにはしたが特に何も訊かずにいた。僕は彼に「悪いね」と言って誰にも怪しまれないように連絡係に使えるミツルがいることが嬉しかった。

 僕は終業時までに頭の中が様々思考で研ぎ澄まされていくのを感じた。また一方で他人の事を思いやる感情が鈍くなったのを感じた。自分中心に回転をして巡っている世界を僕は洞察した。叔母のことや父が僕に会いたがっている事、帰ってきてほしいとの事、死にたいと思う事、サトリやカタリの事、大学生時代の連中で連絡を取り合い、仲間同士都合良く動きを窺って読み合って利用しようとし合った事、僕は単純に出来ている系図を複雑にし、体に神経を絡め合わせている気がした。僕は人生の何を知ろうとしているのだろう。何も無いのだ。何千年も前に出来ているブッダの証明を覆す事は出来ない。僕はそういう面に無力で無知な一員として生きているのだ。僕に出来るのは当たり前の人間として生きて当たり前の所行をし、あらゆる場所を往復し、目的を見出すことだ。

 僕はある風景を想像した。よくする事だった。あの一年の眠り以来、頭の中の映像で遊ぶことが出来る。

 なだらかな凸凹の山々や丘、そしてそこに流れる川をイメージした。空は水色のクレヨンで塗りたくったように特色がない。というよりそれが特色だった。僕は草原の丘で一人だった。そこにある人が歩いてくる。ピアノを弾く人だ。僕はそこで彼、または彼女のピアノを聴いた。性別は分からないし重要に思えなかった。この人とは異性でも同性でも打ち明けた話が出来そうだったから。僕はここでショパンの夜想曲を聴いて彼(あえて彼と呼ぶこととする。そうすることでイメージの固定化がされるから)に小銭を渡しにいくのだ。彼は今晩の食事の金銭が目的で電子ピアノを弾きに来た。それを僕は知っている。彼は「君には精神が無い」と言った。「目的を果たす精神でしょうか?」僕はそう尋ねた。慎重を用いたつもりだったが、彼はその質問に軽く顔をしかめるのだ

「君は生きているのに死んでいるような顔をよくしている。生きている事に自信がないみたいだ」

 僕は苦笑いして首を左右に振った。そして彼に質問するのだ。「誰がこの世に生きている自信を持った人がいるでしょうか? 僕はそれが不思議です。生きている資格みたいなものが必要なのでしょうか?」

 彼は笑った。彼はよく見ると一見したより年老いていた。そしてその深いシワの中には柔らかな微笑があった。そしてその柔らかな微笑みには何らかの意図を表すようで、そしてその意図を敢えて言わずにいるズルさみたいなものがあった。「君には早いさ。資格を取るには年齢制限があるんだ」そして彼はそこでフフと含み笑いした。

 僕は何故だかかえって愉快だった。彼の思惑に転がされることを祝福や選ばれた者などと同義に思えた。僕は笑って彼に「手続きなんてあるんでしょうかね?」 

 彼は吹き出して笑い、大きな鼻を指で掻いた。指はピアニストとして見合うように長くて綺麗だった。そしてだぶついたまぶたが微動するような瞳の動きをちょっとしてみせて、今度は背中を掻いた。

 行動自体は年寄りの行為なのだが動きが柔らかいので若い人のちょっとした折りの動作に見えた。

「手続きなんてあるわけないだろう」彼は息を吐いてようやくのこと嘲りと呆れを含んだ笑いをしてみせた。そして人差し指で鼻の下をこすり、困ったことでも目の前にしたように僕を見た。

 僕は青色のショルダーバッグを携えていた。

 彼は人差し指と親指で丸をつくった。金を寄越せという意味だろう。

 僕は彼がそういうところにがめついのを知っている。ピアノで儲けられる分だけの技量があっても困っているふりをして人からちょろまかすのだ。僕の青いショルダーバッグの中身はなんだろうか。ポケットティッシュ二つにこざっぱりしたハンカチ一枚、折りたたみ式のガラケー、折りたたみ式の財布一つ、バスの予定時刻をメモした手帳、ノート一冊。ノートには楽譜を書いてそこに音楽を並べてある。

 彼は石段の階段のところまで来ていた。(意識的な場面変更である)周りは狭い土壁で欧風だった。建物や石段は乱雑に出来ていて、まっとうな工事がされているようには見えなかった。もしくはこれが西洋風なりのまっとうな工事なのかもしれない。空はもう夕方近くになり、空は薄暗い青さを帯びていた。海の匂いがした。(それはその気であればもっと現実めいてくるかもしれなかった)

 魚屋の閉めたシャッターが彼の背後に見えた。彼は黒々とした目で僕を見据えていた。渦巻きみたいな瞳だった。その瞳はどこか心の内に重いものを持ち込んでいる気がした。彼は僕に一緒に行くか行かないのかどちらかを催促して待ち構えているように見えた。そしてそのうち彼は背中を見せて階段を上がっていった。階段の複雑な凹凸に彼の肩は揺れた。僕はその背中を見ていると首を吊っている人間の影のイメージがあったのでイメージを中断することにした。

 僕はこのビジュアライゼーション、イメージの可視化にのめり込むことで幾らかの欠陥があることを発見した。その一つがこのイメージの可視化をあまりに連続して行うと止めることができなくなり、自動的に登場人物たちが暴れる。そしてその大暴れが僕自身への精神的な攻撃的態度だったり、罵倒中傷だったりするのだ。その中傷は現実での僕の行動の安直さや犯したミスへの叱責を一時間近くくどくどと続くのだった。精神が参ってしまう。僕は精神安定剤を飲んだ。僕はこのことを医者に黙っていた。病状に関係ないことだと思えないが、僕は楽しんでもいたので深入りしなければどうにでもなると思っていたから。

 僕はミツルの話していることを聞いた。彼は専用のソフトウェアの僕個人のアカウントを作ると言ってその作業をしている。午前中はミツルのアカウントで行っていた作業をこれからは僕のアカウントで行うと彼は伝えた。

 彼は僕に「カタリさんとはどういうご関係なんですか」と多少失礼を恥じてみせて尋ねた。

「さあ。僕にもよく分からないな」僕は心情をそのまま答えた。

「彼女は病気ですよ。そりゃ普通に近い方ですけどね。俺はなぜあの人がうちの会社で優遇されるか分からないな」

「たしかに。若いからだけではないね」

 僕は彼女が佐川係長と不倫しているのではないかと疑った。だから露骨に彼は僕に彼女が優遇されているという立場を態度に出したのかもしれない。手を出すなよ、という事だろう。

 終業時間まで僕はアカウントを作ることに時間を取られていた。ソフトウェア側の不手際があって僕とミツルの時間は大幅にサポートセンターの電話に時間を取られた。あちこちに振り回されて僕とミツルは神経を尖らせていた。僕は余裕さえあれば空想を作って遊べたかもしれないが、ソフトウェアを制作した側が謝るまでに僕らは二・三時間の手間を取らされた。

 終業時間を過ぎたら佐川係長が「もう抜けていいよ、僕がアカウント作っておくからそれまではミツル君のアカウントでやってくれたらいいよ。上には掛け合っておく」

 僕は気が抜けて力も抜けて、疲れという液体に浸らされていたみたいな気持ちになった。

「ありがとうございます。係長。助かります」僕は心からのお礼を言った。

 このようにサポートセンターに手続き先が違うとか、私どもでは責任を負いかねます、とか私どもは存じませんなどという台詞を吐きかけられるのはとても辛いことだった。

 真面目に取り合う人と適当にサジを投げてやり合ってくる輩も関係なく嫌だった。話す全員が同じく嫌だった。

 世界がそういう壁に塞がれてしまったときは言葉が違うと思った方がいい。僕らが方法や言葉を学ばねばならないのだろう。方法やある種の諦めが必要なのかもしれない。

 イントネーションの差による注意が必要になったり、ある程度形式の違う口調にもなったりしなければいけない。

「君たちは帰りはどうするの? 良かったらカタリさんと一緒に帰ってくれないか。ストーカーにあっている気がするらしいから用心のために」

 僕は彼女がさっき会ったときそれほどそんなことを心配しているようには見えなかったのを理由に黙ってしまった。だが形だけ頷いてカタリと話そうと考えた。

 ミツルは「新人だからというわけではありませんが、俺もアキラさんがいいと思います」

「じゃあ、そういうことにしよう。アキラ君よろしく」

 彼女を送り返すことで体を交わしていたときのあの瞬間を思い出した。僕はあの瞬間が今もう一度起きればいいと思っている。そうして彼女は暗そうな顔つきをして僕の前に現れた。


 僕らは二度目のセックスをした。三度目と四度目が起きるのはその日の内だった。僕は彼女の体が一際魅力的になっているのを感じたし、僕も若さからの荒々しい内容ではなくセックスの質が四年ほど前と違って良い感じに内容が伴ったのが嬉しかった。僕は三度目から本気になれた。過去の悪いことを幾らかぬぐえた感じがした。

 彼女の家は上品なマンションだった。アルバイト程度では賃貸を払いきれないのではないだろうか。

 彼女に「こんな風に男を誘うの?」「僕もその一人?」と質問した。彼女は男をいつも誘っているわけではなく、僕についてきてもらったら昔を思い出して気持ちが高ぶったと答えた。そしてセックスしたことを昔の思い出を汚していると感じたらしい。

 暗く笑って「馬鹿ね」と言った。

「僕だって当時そう思ったんだ。君という人物をただの一度の過ちとしておきたくなかったんだ」

「あのときはごめんなさい」

 彼女の謝罪はなんとなく彼女自身を慰めている風に思えた。僕はそう思った。僕は彼女が佐川係長とどういう関係なのかを訊いた。

「ビッグなビジネスパートナーよ」と彼女は答えた。

 僕はどういう事なのかを尋ねた。

「私はゴーストライターをやってるの。作家三人分のね。だけど私はそういう事に興味ないの。名誉欲とか。目立ちたいとか」

 彼女はあそこでいつも佐川に有名な小説家の原稿を仕上げさせられているらしい。それも三人分だからすごい量だろう。

「その分給料もすごいのよ。月に八十万よ」

 僕はどういう訳でそうなったのかを尋ねた。彼女は小説家の文章を真似することを昔からしていた。そこを知り合いの仲介で知らされて文章の作成速度も速いのを買われて彼女はヘッドハンティングされたらしい。

「彼は私のファンでもあるのよ。だから私を使っているという意識より楽しんでいる意識の方が強いんじゃないかしら」

「なるほどね」

 僕はどういう風な表情をしたらいいか分からなかった。ただ面白いことを見ている興味が勝ち、つい笑ってしまった。

「笑わないでよ。世間にばれたら大騒ぎになるほどの著者よ」

「すまない」

 じゃあ、と僕は口火を切った。

「君は日本の有名作家の三人になっているわけだ。その文章の世界では」

「そうよ」

「君はそれに八十万というお金を貰うだけで満足している」

「そうよ。本当に有名だから私、名前言わないからね」

「聞くつもりないさ。ただちょっとは気になった」

 僕は頭の中の困惑を一度なおしてみる必要があると思う。彼女が作家で三人も彼女には依頼がきている。僕は彼女の謎が明らかになった感覚はしなかった。

 内容の意味を理解しただけで、その内容の濃縮された驚愕すべき点に焦点が合わないように思えた。

 僕はただ笑っていた。

 その事実には打ち負かされるだけで僕の思い出の不確かさを正す考えはあっけなく消沈してしまったようだった。

 僕は正直彼女の生きてきた精神とやらを窺ってみたかったのだが、そんなつまらない事よりも面白い事が目に入ってしまった。彼女は偉い作家なのだ。僕と会って思い出がどうとか、恋人がいるかどうかとか、毎日楽しいかとか、そういう忙しい現実などとは対面させてはいけないように僕は思う。

 そんなことより彼女の楽しい本の話をしてみる方が幾らも有意義だというものだ。まるで作家インタビューをするわくわくする記者と同じくして。

「告白してみたくない? 自分が書いたのよって」

「思うわ。正直最初の内は書店で買っている人を見ると、へえ私の本でも買うんだって。妙に笑っちゃった。おかしな世界よね」

 僕はにやにやと笑いが止まらないことに強く歯止めをかけた。彼女におかしく思われる。

「ごめん。でもすごいな。世界を動かしているような気分にならない? 有名な作家の本を書いているんだって思うと僕だったら幾らか業界を牛耳っているでもないけど、そんな気分になりそう」

「最初は牛耳るでもないけど、征服感はあったわね。私でも出来るんですよ、って優越感はね」

 僕らは楽しく会話を続けた。僕は一緒に世界征服を企んでいる組織の一員の気分を味わえたかもしれない。僕は彼女が大分話のできる人間と思えた。彼女の部屋にある書いた本を一冊少し読んでみたが、とてもエキセントリックで魅力的で、たまにエロチックだった。そしてまともな印象も受けた。

 人間が世界に正直さや誠実さという倫理をあらゆる不条理な部分にまで持ちかけたら、こんな風に不条理を詰問するような内容になるのだろうと僕は思った。

 正しい世界を世の中にもたらすのは、本来破綻している世界に正常さをもたらすように難しいのかもしれない。本来そういう世界で僕らは生活しているのかもしれない。僕はそういう連想をした。彼女の小説はそういう正しさに取り憑かれているようでもあった。

 正しいことばかりを追い求めた結果の不幸を主人公たちは抱いている。人はいずれもそうなるときがあるかもしれない。僕は世間に踏みにじられた人々の姿を彼女の心理に見ている気がした。僕は彼女に小説というものはどういうものなのか尋ねた。

「ひどく馬鹿馬鹿しい事を誠実にやっていると思っているわ。それがきっと小説家という生き物の性なのなのよ。馬鹿馬鹿しいことに対して本気を見いだせるか、そしてその力があるかをいつも自問するのよ」

「魅力的な話を作ることは素晴らしいことだと思うけどね」

「そうかしら? 例えば道に落ちているゴミを拾い集めてまとめて捨てることは立派だけど、彼らはいつもどういう事を考えながら作業していると思う? 私は経験あるけど昨日やったゲームの先を見たいと思ったり、宿題のことを考えたりすると思うの。小説を書いているときも他の作業をやっているのと変わらない気持ちなのよ。だから自分はどこかおかしいのかと思ったりもするの。楽しい世界を自分は創っているつもりなのに自分の世界の一般的な生活のことをふと思い出したり、その楽しい世界と救われない自分の世界を比べたりしてしまったりするのよ。段々自分はどれだけふざけた事に手を加えているかと考えたりする」

 彼女は今日はここで泊まっていくかどうか訊いた。僕は泊まる、と答えた。

 カタリは布団を床に敷いてくれて僕はそこに寝る事にした。彼女の部屋には丸い窓が付いていた。全ての部屋にこの窓が付いているのだろうかと僕は考えた。中庭からの光がそこから洩れていた。

 僕は幻想世界を広げた。頭の中がさっきの欧風の石段を捉え始めたが、老人はもういなくなっていた。代わりに奥の魚屋が見える狭い広場からヴィオラの奏でるバッハが泣き喚くように鳴っていた。僕は石段を上がってヴィオラを弾く人を見ようとした。

 僕が広場で彼女を見たときに曲は終わった。彼女は外国人の中でも特に鼻が高い方で、両目の間隔が狭かった。明るい剛毛な茶髪がカールしていた。爆発に遭ったみたいに頭に盛られており、彼女は弾けた笑顔をしてみせていた。たった少しの事でも非常に楽しい事のように笑い、それは社交的な態度の一環として現れているのだろうと僕は考えた。彼女は化粧が濃かった。まつ毛がどれほど飾られているのだろうと思った。僕は彼女のような相手が苦手だ。なんでも楽しくする。彼女が捉えたいように自由に考える。彼女は好きなように考えるし好きなように答えを出すし、好きなようにヴィオラを弾く。そして彼女が他の人との主張を戦わせることにビクビクしている。ただヴィオラの腕は認めている。プロが弾いているのと大差ない。

 僕は彼女を「役者」として認識した。幻想世界には話せる相手と群衆としての人間の二種類いる。僕は役者と対抗したり、または共に話をして楽しんだりする。人生を共有し合わなければいけない相手なのだ。僕は役者のことを多かれ少なかれ分かっていたり分からなかったりすることがある。一度幻想世界で会った相手の場合もある。幻想世界で話相手になったり、口喧嘩をしたりする。殴り合いにはならない。暴力は絶対に起こらない。ただ僕が制御できている間は確実にそうだといえる。一度体調が悪いとき、高い所から飛び降りろと何度も言ってきた相手がいる。その相手は今は牢獄に入れられている。

 幻想の世界では色々な情報が飛び交っていてつかむ事ができる。まるで伝書鳩を送りつけられるみたいにそれは確かな情報だ。この世界では言葉が唯一の暴力で唯一の酒だといえる。相手は僕を惑わすような言葉を使う。僕も使うときがあるが、わざわざ言葉を練り出すのに疲れて聞き手に回る方が楽だと思っている。

「あらまあ! 誰かと思えば!」

 彼女の名前はクレバス。氷山の大きな割れ目のクレバスと同じ名前だ。彼女はワインレッドのドレスを着ていて胸を誇張するようにコルセットをきつく締めて体のバランスを極端にしていた。彼女は非常に大きな体だった。身長は176センチだし、体重は100キロを超えている。僕は苦笑して彼女に「こんばんは。クレバス」と応じた。

「酒の相手には相応しくない、真面目なお方ですよ」と彼女は僕を評価し、群衆たちに伝えた。群衆は僕を見、愛想笑いをしたり、酒に酔って少し愉快げに微笑んできたり、ボディタッチを試みたりしてきた。

「クレバス。何を話したい?」

「何も。あなたのような相手と話をしても酒の肴になりそうもないもの」

 と言って、僕の手の甲を扇でピシリと叩いた。周りの群衆は彼女に媚びを売り、彼女はその態度にやたらニコニコしていた。

「皆君の相手をしたいようだが、君にとって誠実な話ができそうな相手も少なそうだ」

 彼女は僕の方を鋭く見て「確かに」と扇子を開いて胸の辺りを扇いだ。

「ここにいる人らは本当は私の事が気に入らないようね」

 そういうと群衆は魔法のように消えていた。彼女が出していたらしかった。魔法使いらしい。

「なぜこんな自己満足にもならないような事をしていたの」

「あなたが本音で話しかけるような相手かどうか試しただけよ。それに私、今不機嫌なの。魔法で作った群衆も暇つぶしにしてみたけど、自分で作っておきながらも妙な言い方だけど、つまらなかったわ」

「面白いときがあるのか」

 僕はとりあえず訊いた。

「ないわ。あなたをずっと待っていたのよ。何年もね」

「それは大変な話だ」

 僕は酒だらけのテーブルの中からたまたまあった近くの紅茶をポットからカップに入れた。味はしないが雰囲気作りに。

「お友達ができたらしいわね。古い友達?」

 彼女は神妙な顔つきをして言った。僕は役者らが大抵の場合、新しく会った人には慎重すぎる態度を取るのを知っていたため、何も顔つきを変えなかったし、気持ちも動揺しないようにした。僕はただ彼ら彼女らの不安定な精神の流れを見ていて、それが僕の心の不安なのだと思ったりした。

 そこはオープンテラスの酒場だった。奥には小さな構えの店があり、中は狭いがワインを飲んでいる人が見えた。ワインの他にビールやスコッチなどを開ける人もいた。僕は近くのテーブルにあったそのビールの香りに一口飲んでみたい欲求が出た。僕はビールやワインは飲んだ事があるがスコッチはない。自然と頭の中に出てきてしまったのはどういう事なのかは知らない。幻想の世界なのだし、僕の言うとおりに全てがうまくいくわけではない。とりあえず僕はビールを飲んだ。味はしなかったが炭酸の感覚だけはした。

「友達か恋人かどうかも分からないね」

 僕はニヤニヤと笑った。酔っているのかもしれない。幻想世界で自制できなくなっているのかもしれない。

「ちょっと大丈夫? ビール一杯で酔うなんてよっぽど弱いのね」

 僕はふらふらとテーブル近くの椅子の上に倒れるように突っ伏した。自分の世界でこういうことが起きるのは非常に珍しい。僕自身がコントロールできなくなるというのは。

「その通り、僕は弱い人間さ。人に対しても自分に対してもいつも弱気でいる。・・・・・・長続きする仲なんて無いしさ。欲望には負けるし、誰か僕を助けてほしいといつも思っている。何については分からないが、漠然と助けてほしいと思っている。弱い人間の一人であると自覚はしているけど、僕の周りは強い人間ばかりだから負けないように頑張っている」

 クレバスは椅子の上にもたれている僕と目を合わせて、愚痴を言う僕に取り合わない毅然とした表情でいた。だがその目には憐憫の情があった。彼女はそれを隠しきれないでいた。

 僕は幻想世界を中断した。僕はなぜこんな事が起きたのかを考えた。恐らく彼女と会えて興奮しているのだろうと考えた。

 僕は広い部屋を見回すために首をわずかに動かして眺めてみた。さっきの丸い窓から見えた街灯の人工的な光は消えて自然な夜の微妙な月明かりだけになっていた。

 僕は明日のことを考えた。週三日の労働時間だが明日は休みではない。できて当たり前のことを覚えるために明日もアルバイトに行くのだ。僕はアルバイト自体はさほど苦痛ではない。もちろんいつもと違う空間にいる事は僕を敏感にして精神状態を悪くはしている。だが仕事自体は楽しいとさえ思っている。要するにあの空間にいる事自体に慣れてしまえば恐らくどうって事ないのだ。

 僕はイメージで世の中に存在する自分を一人にした。これは幻想世界とは違ってただのイメージだ。僕は一人だ。僕は一人だ。

 僕は生きている自分を動かすために必死の努力をしている。音楽を聴いたり自分に死を脅迫してみたり、それでも僕は動きたくないのだ。このことは最近分かり始めたことだ。僕は昔から何も欲しくないのだ、とずっと思っていた。本当はさほどセックスしたくない自分、美味しいものが何か分からない自分、好きな人を捨てたくなる自分。だが欲しいという概念が問題なのではない。僕が欲しいものは決して手に入らないのだ。お金があっても人に人気があっても、様々な事々に才能が有る無しに限らず。僕は退屈したくないものが欲しいのだ。いつまでも没頭していたい何かが欲しいのだ。ずっとそれを求めている。子供がおもちゃの車で遊ぶみたいに自然な気持ちでいたい。僕はそれを昔に置いてきたのだ。神様は代理品として僕にこの幻想世界をくれた。この幻想世界で面白いものを作ってみろと言っているのだ、多分。僕はもう現実を生きているのが嫌になっている。その感情はなかなか元の鞘に戻らず、嫌悪を残しながら消え失せていく。僕は死にたいと願うことは少ないが、最近退屈になってきた。退屈過ぎて僕が生きているよりはゴミ箱に入っている生ゴミの方が価値があるのではないかと思うときがある。再利用の価値があり、他の人の野菜になる生ゴミの方が。僕はただ退屈を潰したい。そのために人が潰れればいいと思うときもある。蟻を潰すみたいに指で潰れればいいのにと思う。僕が潰れればいいのかと思ったりする。僕は退屈ほど恐ろしいものはないなと思う。とても優しい僕がこれほど残忍になるのだから。僕は、死ねばいいのにと思う。僕が死ねばいいのにと思う。生きていても大して良い事など無いだろうと思う。でも周りの人が止めるのでしょうがなく生きている。苦痛も無く死ねたらいいな、と思う。僕は今まで僕を嘲笑ってきた人たちに復讐できたらそれはそれで愉快だろうなとも思ったりする。死ぬ間際にそれをやれたらいいなと思う。笑いものにするくらいなら死ね、と僕は一人笑う。僕も僕を笑っているのかもしれない。それほどに執着する僕を嘲笑っているかも。僕はたまにこのような気分になった。

 自分をまともな人間に見せる努力をした反動でこういう気分になる。僕はまともじゃない。

 自分自身の人生を必死に生きていても意味の無い人間と知る人は数多いが、自分自身を価値の無い人間だと僕は知っている。僕は自分を大切にしてやれない。大切にしてやれたらとも思わない。残忍な事を考える僕がいるくらいなら死ねばいいのにと思う。死にたい気分じゃないのに僕は死を考えている。ただのイメージが膨大な死の理念につながっていく。それだけが僕の考えるべき事なのかもしれない、唯一できる楽しみなのかもしれない。死ぬ事を考えている間ははっきりとした自分の輪郭を感じ取れた。僕は憂鬱そうに笑う一人の精神病の人間だった。僕はどうすればいいか、どうすれば僕は精神病じゃなくなるかを考えた。それは解決できない事柄だった。じゃあ、僕は死んでもいい人間なのか。多くの人間は精神病患者は死ねと思っている。僕もそれに共感するときがある。だから解決できない問題を延々と解こうとしている。これが僕の没頭できる事なのだと僕は思う。どうすれば精神病じゃない自分になれるかを一生懸命に考えている。これが僕の真の姿だ。解けない問題を、誰もが放っておいている問題に僕は首を突っ込んでいる。それが楽しい事なのだ。

 うだうだと生きた一日に今日も意味という傷をつけられなかった。心には傷が付いていく気がするのに。何かを変えるために刻印する記録は付けられなかった。

 僕はただ一人漂流する。幻惑世界というものの海の中で映像や人を作り出し、それを頭の中の日記に記した。僕はただ漂流している自覚の中で死という観念がこの漂流と隣り合えば面白いと思ったりする。最高の冒険が出来そうではないか。

 ああ、夜が刻々と過ぎているのに、僕はまだ漂流を続けたいと思っている。休まなければ、死んだように眠らなければ。僕は死体だ。死体には意識もなければ欲望もない。誰かと話したいとも思わない。

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