第7話

これは日記帳である


 僕は日記を残すこととした。だがそれは普通ではない形として残っている。僕は頭の中に映像を描いて残すことが出来る。それを利用してこうやって言葉を一瞬で刻んでいっている。現在進行形で刻むことも出来る。そんな風に記録を残しているから誰にも洩れることはないと思う。

 あれから四年半、冬の寒い時季を僕は南東北の淋しい町で過ごしていた。僕は一人で過ごす時間が増えた。大学を終えて就活も失敗し、アルバイトを掛け持ちしてあとは仕送りと障害者年金で生活した。僕は今病を患っている。僕は都会の真ん中で働けるほど自分の仕事ぶりの評価を自分で認めていなかった。無論、世界も認めていなかった。

 日常で直面する様々な問題に対して大きな恐怖を感じるからだった。精神科医は一般社会で過ごすにおいて強い不安があるとだけ伝えた。医者が伝えたのはそれだけで精神面上も一般生活上もなんの解決も施してくれなかった。僕は簡単なミスや人の言葉の折々に恐怖を感じる症候群、俗にいうならばコミュ障とかいうものに罹っていた。それは折に動悸や焦点のブレ、目眩などを引き起こした。一般的なコミュ障というのとはかけ離れているようだった。本当に病的で一般生活を送るのにも支障が出る状態だった。精神安定剤を処方された。それで恐怖は連続はしなくなった。それでも断続的には起きることがあった。僕は精神障害者として手帳を渡されて、障害者三級を言い渡されて二ヶ月に一度十一万弱ほどの支給があった。

 僕は大学に戻ってから誰とも話さなくなった。友人だった者からはたまにメッセージアプリでメッセージがきたが、特に僕の心に触れたような内容は話さなかったし、話せなかった。僕は憂鬱を常に感じていた。たまに通りすがったように僕の人生に非干渉的な女とも体だけの関係ともなった。多くの人々はサトリに同情し、そしてそのうち僕が崩れていくさまを観て僕を同情した。サトリは何も誰にも伝えなかったし、何も言えなかったと思う。僕もサトリとの関係に何も言えなかった。

 僕は自分を罰すればいずれ自分はみじめな人間でなくなると考えた。そのために孤独な苦しみが必要なのだと僕は信じるようになった。だがその孤独は自然と表れたものではなかったし、誰かが味わわせるために発生させたものでもなかった。僕は自然と人の一言一言を疑惑するような人間になっていたし、困惑するようになった。サトリは大学を辞めた。僕は勉強をした。必死に勉強して世の中の仕組みについても多くを語れるくらいになった。だが僕はその知識を人の人生のために理解させる気にはならなかったし、僕はそういう教師になるとか仕組みを利用するとかして生きる気にもなれなかった。

 僕は生きるために必要な物事をことごとく放棄しだしていた。幸せになる選択もしなかったし、窮屈で苦しいような選択をあえてすることもあった。それが何故だのかは僕自身はあまり理解できなかった。ただそうすれば苦しみで、人を傷つけてきた代償としての満足ができるかもしれないと考えていた。そして不幸な選択もその一直線上にあった。僕は大学の講義に顔を出すように努力したが段々とその努力の根源すら霞んで失せた。僕は大学を休学して、結局半年後辞めた。

 それから四年の間のうちの最初の一年は何もしないで夏目漱石の本を繰り返し読んでいた。三四郎とこころが好きだった。僕は愛情という価値を人生から見出そうとする彼に倣おうとしていた。僕ももう一度人生に愛を持とうとしたのだ。それは苦痛で大胆な作業に違いなかった。

 それをさせたのは父という存在が僕自身の価値を高めようとさせるからに違いなかった。彼は息子の僕にさえ挑発的だった。僕は思春期の頃、彼のその意図がよく分からないでいた。子供じみている。浅はかだ。愚の骨頂。僕はそう評価して父を冷遇していた。彼がそれでも笑っている事に僕はますます腹が立った。そしてついには諦めた。そうして諦めをもって彼を観察したら分かってきたのだった。彼が僕を試そうとするのだと。彼は妻に愛を持つ人間になることよりも息子を物事に情熱を持つ人間にする方に力を入れたのだ。僕は高校三年の頃にそれを知り、勉強に励み、熱心に打ち出せる何かを探すことに決めた。だが入学して数ヶ月で交通事故で一年の眠り。そしてカタリとの出会い。僕は痛烈すぎる痛手を負った。

 そして退学一年目は地元の社会人フットサルグループに入り、週に二回を三ヶ月ほど通って辞めた。皆いい人たちだった。僕より年上もいたし年下もいた。高校一年生の男の子もいた。僕はその反骨精神豊かな若者にさえも友情の気持ちを抱いたし、相手も友好的になってくれた。だが僕は何かが満たされない気持ちと、ここに居てはいけないという何らかの磁石の反発のようなものを感じて通うのをやめた。僕は破滅的だった。辛かった。自分から何かを破壊してしまいたい衝動が湧いたが、それをどこにも発散することはできなかった。僕はよく高い建物を見るとそこから落ちる自分の姿を想像した。それは魅力的に思えた。美しさすら感じるくらいだった。とても象徴的なジ・エンドだ。人生に失望し、世界に幻滅し、自分を嫌悪し、愛する者たちをおいて新たな世界に逝く。その儀式がこれほど華麗で破壊的で鮮烈に行われることに、僕は想像するだけで芸術を感じる。僕は何度も高い建物から落ちる自分の姿と気分を想像した。素晴らしい。風を感じるし、身をバラバラにする感触と弾け飛ぶ体のパーツの赤々とした様子。血はやはり美しい。

 僕はその頃よく安全ピンの針先で血をインクにしてA4の紙に日記を書いた。その日常は血の若々しさで鮮明に感じられたし、僕は血でその日常を描いている最中は温泉に入っているみたいに安心し、落着きを持ち、心地よかった。

 炸裂する体の一端一端に僕は僕を感じる。醜い僕の感情を美しい色に染め上げてくれる。そういうイメージが湧いて浮いてきては沈み、浮いてきては沈みを繰り返した。僕がそういうイメージを繰り返している間、気づくと僕は自分の部屋の窓の桟に足をかけていた。僕は下を見た。ここじゃだめだ。もっと高いところじゃないと僕は美しくなれない。この高さじゃ背骨が折れたり、手足が折れたりするくらいだ。もっとバラバラにならないと。

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