第6話
僕が退院する一週間前となった。僕はカタリと普通に話せる様になっていたし、看護師さんたちも大分僕らが関係を築くことについて咎めなくなっていた。サトリはいつもどおりやってきて、僕の友達に彼女が出来たとかそれが傍目から見て不釣り合いなのが話題になっていると一つ笑って教えてくれた。僕は彼女に友達をつくらないのかと尋ねた。彼女は友達がいると耳障りでしょうがないから、と答えた。彼女が友達をつくらない理由は友達と騒ぐことができないからだった。彼女の態度はいつもその大声で笑ったり叫んだりすることで緊張した。それも鋭い緊張で身を縮めるくらいだった。彼女は小さい頃からそうだったそうだ。大きな声に非常に敏感で小さい頃はそれで泣いていたらしい。
今日サトリは僕にたこ焼きを買ってきていた。少し冷めてはいたがソースの甘みと大きなタコの歯ざわりが良かった。サトリは笑顔だった。最近のサトリは僕の前ではいつも笑顔でいてくれる。僕はこの笑顔を守りたいと思っている。偽りのない笑顔を。
僕は外を眺めた。残暑がきつく残っていた。だが確実に日が落ちるのが早くなっていて、それを眺めていると秋に近づいた優しい夕日が目に強く残るようだった。
僕は病院の早寝早起きに慣れ、九時に眠り五時に起きるような体になっていた。部屋に属しているテレビも七時からでないとつかないため僕はその時間帯電灯を点けて本を読んだり勉強したりしていた。
午後六時にサトリはやってくる。面会時間締め切りの七時まで一時間僕らは時間を共有する。僕はこの時間の静かさに愛おしさを感じる。そして彼女にもうすぐ退院できるという事実を教えた。
「そう。良かったわ。大学に戻ってくるんだ」
僕は頷いた。サトリはそれだけ言って僕に微笑を送る。僕は彼女の喜びを嘘偽りのない笑顔かどうか幾分か推し量って笑う。彼女は何の邪気も無しに笑っている。僕はそのいつも通りの笑みに安心を覚え、服従をしているつもりである。
一年間もここにいたのでその時間が親しさを取り払って、大学の連中にも顔を合わせづらい奴がいる。そいつは僕のメールアドレスを一定期間日記帳代わりにしていた男で、顔は年上の女性からもてそうな可愛い感じの男だ。僕はその男の日記の女々しさにかなり多くの苦笑をしたものだった。恋する人に振られたこととか、厚底の靴を履いて低身長を誤魔化そうか迷っているとか、そういう人生でごく些細な事情が僕を現実につなぎとめている気がした。だから彼の日記は僕を元気づけたり正気でいさせたりすることができた。僕はお礼にメールをした。そして最後にいつかコーヒーを飲みに行こうと伝えた。
彼は日記のことに少しも触れずに冷静を装った愛想のない返事をした。だが僕と彼は親しい人間だと知っているし彼の御見舞の手紙は大分厚かったし、病院ではあればあるほど一日を過ごしやすくなる上下のパジャマを買ってきてくれていた。
彼は一年間の眠りに就いていたときよく顔を出してきた男だ。といっても見えずに声で分かったのだが。多島はかなりセンチメンタルな部分を出す男で、僕にボソボソと元気か、とよく尋ねてきたりした。それがまるで日記などの自己満足の態なので僕は少なからず、けど多からず大学の情報を聞いてもいた。サトリがずっと意気消沈していることも聞いた。早くサトリの元に戻ってやれ、とかかなり偉そうな口も聞こえてきた。僕はその命令にため息を意識した呼吸をするだけだった。
僕は静かな一年の間を何もしてこなかったわけではなかったかしれないな、と思った。サトリや友人らと大学の事を聞いて推察してそして一喜一憂して、自分のこのどうにも出来ない状態を悔やんで、悲しい生活をしてきていたのだ。その悲劇から僕は人間と人間のすれ違う痛みを学んでいたのかもしれない。
サトリが帰った後、僕は彼女の舌使いの力加減を考えながらマスターベーションした。それは暇つぶしの手段の一つに過ぎなかった。僕はこれからはサトリとセックスした方がいいだろうかと考えだした。そういう簡易な方法で愛の気持ちの一部分を伝えるのも良いのだろうか。相手の満足と自分の満足を念慮した方がいい年なのかもしれない。そうすれば恋愛相手として自分らを認める手段が一つ増えるかもしれない。
カタリにラインで来週帰っていなくなることを伝えた。通院を幾らか済ましたら本当にそこから会えなくなるかもしれないと。彼女は既読したが何も返さなかった。自分の気持ちを素直に表現することに臆病なのかもしれない。お別れというものを認められない年頃なのかもしれない。別れという一つのもどかしい儀式を彼女は日常にあまり経験していないのだろう。
翌日、僕は何度もこなしてきた朝の読書にふけた。僕はよく文豪と呼ばれた小説家の小説を読んだ。夏目漱石、坂口安吾、太宰治、芥川龍之介といったくらいだろう。僕はあまり手を広げて読んだりしない。そのため、最近の小説の良さというものをあまり感じることができない。それは僕が昔の人の苦悩や病的な資質に同調し、同情していて、自分は他人とは違うのだからかけ離れていて当然だという考えもあった。僕は当時の人たちの事を考えることがあった。そして彼らに悩みを打ち明ける空想に陥ったときもあった。僕はその一時が過ぎ去ったとき自分に嘲笑のような陰湿な影を自分の口元に感じたことがあった。それは彼らと同様、自分は人間ではない、普通ではないというような自分を異端視する悲しい蔑みと同じように思えた。
僕は朝まだ薄暗い中、弱めの電灯を点けた。最近は平常の電灯の強さだと眩しさを感じるようになっていたからだ。僕は歯車という短編を読み始めた。芥川龍之介はこれを書いている時ごろに自殺したとかを聞いたことがある。僕は中学の頃この本を一度読んだ。泥と墨汁の間の色をした絵をインテリが描いたように思えた。彼は無論頭が良かったに違いないが、今読んでみると僕はそれが彼の著作の中から見るとかえって異質な気がした。それは幼い頃から時間を経て読んだから物事の見方が変わったのかもしれないが。いずれにしろ僕は死の予感という不吉な感覚が自分の周りを囲みだすというその短い一編を読み出した。
そのうち僕はブラインドの隙間から僅かな光が漏れ出てくるのを目で感じた。外は昨日の酷暑を残して蒸しているように思えた。夜に雨が降ったようだった。僕は窓に残った雨の跡全体を眺めて、ああ、もう少しで退院なんだ、という感じが暗く、それでいて漠として湧いてきた。僕にはなぜだか大学に戻ることが憂鬱な出来事のように思えてきていた。今のままで満足出来ている気もしていた。そして波乱の調子もあるように感じ取れた。
僕は大学に自分自身の価値というものを問われている気がしてならなかった。というより社会全体がそういうものに思えてしょうがなかった。お前の価値はなんだ。お前の価値はどれだ。僕はそういう問答の前でただ漠然とした焦りを感じた。そして何も答えられないでいた。
僕は価値とか対価だとかそういうものを取っ払った世界に居たかった。自分が何者であろうと認めてくれる世界を求めていた。それなりの働きを払ったのを理由にして良い気持ちを与えてくれる世界であってほしかった。僕は世界に自分をどういう人間だと答えたらいいだろう。情欲に抗いつつもそれを容認している男だとでもいえばいいか。真面目に勉強できる人間といえばいいのか。恋人を大事にできない男だといえばいいのか。僕は世界を前にしてどういう表情でいればいいのか分からない。笑ったり媚びたりすればいいのか。生きているということを悲しんでいるという告白でもすればいいのか分からないのだ。しかし誰がそんな恐ろしいものの前で答えを言えるというのだろう?
僕は丁度その歯車の区切りのいい部分でベッドから足を下ろしてトイレに立ち上がった。家族に買ってもらったスリッパを履き、静かな朝の病院の廊下を歩いた。廊下の窓からは爽やかな日差しが強く入って窓の輪郭までくっきりと光を床に映し出していた。僕はその窓に苦笑をした。この窓の前で僕がカタリと接吻したことを思い出す。僕は限られた女性にしか興奮しなかった。その限られた、というのも僕にも説明のし難いもので、体の部分がとか顔の部分が、とかいうものに興奮するわけではなかった。
一種の精神的な部分が素直に表現されたときに僕は興奮した。その素直な部分には説明しがたいあどけなさがなければ僕の恋愛の性質は振るわなかった。少女らしさとでも言えばいいのか、子供らしさとでもいえばいいのか。いまいち分からないではいるが、僕はそれに興奮した。
僕はセックスしたカタリとの一時を思い出した。彼女の体は僕が興奮するには十分以上に足りていた。彼女の体は痩せていてかつ柔らかな質感を持ち、筋肉も肌も若かった。頻繁に体を動かすらしく、近所の習い事で体操部に入っていると教えてくれた。僕は興奮する反面、彼女では本気になることが出来なかった。体が動かないこともあったが、僕の意識の片隅にはやはりサトリの悲しむ表情があった。僕はそれを想像するとどれだけ魅力的な彼女でも真に興奮することはできなかった。僕はやはり純粋な一人の男だ。だがセックスしたのも事実だ。僕はサトリに対する不実さのうちの悲しみと、カタリに対する不実な怒りに挟まれた。僕は苦笑のうちに自分に対する冷笑を感じずにはいれなかった。そのような笑いしかできなかった。
僕はそれからの数日を弱々しく生きた。不誠実に生きた。人生の中でこれほどに残酷な数日はなかった。僕はそれからサトリとの恋愛を終わらせた。サトリは僕の犯した事をなんとなく知っていたが許しているというようなことを言った。彼女は僕でしか満たされない性質を持っていると言った。僕は不幸にもそういう彼女を幸せにできるような言葉をかけてやれなかった。そのときはただ自分を傲慢で強い立場に居たからその様なことをしたのだと思っている。だがひょっとしたらそうではないと思う。僕は自分らしい恋愛に決着をつけたかっただけなのだ。自分の幸せを捨て、公然と表現できる平凡な恋愛をできるようにしたかっただけなのだ。
僕はサトリに君を忘れないという平凡な言葉で切り捨てるしかしなかった。僕は自分の恋愛を捨て新しい自分になりたかった。今までの自分を認めなかった。僕は彼女を捨てるべきではなかったと今では後悔している。だがあのときは全て抗えない運命のような物を同時に流れとして感じた。そのようにしか言い訳できないでいる。
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