第5話

 二日後に病院に戻るとベッドは出て行ったときそのままの形で残っていた。整理されずにシワシワで、体重のかかって影を残したようにシーツにだぶつきがあった。僕はテレビを置いたり日用品を入れたりする床頭台にインスタントコーヒーの大きな瓶を置き、歯ブラシが入れてあるコップの底をテイッシュで磨いた。僕がカタリと会わない間、カタリは大分看護師に念を入れて叱られたらしく、彼女はラインでのメッセージが言葉少なになっていたし、恋愛的な想像を膨らますのを我慢しているらしかった。僕はその事がちょっと悲しかったし、カタリの世界に戻っていけることは楽しかったので気恥ずかしかった。その気恥ずかしさは恐らく別世界とこの世界を乗り越えたときの反動にすぎないのだろうが、とにかく僕は日常に楽しみというものを感じていた。

 僕はもう死んだように空気を食べるような生き物ではない。ゼリーも粥も梅干しもちょっとした魚の佃煮も食べられるようになっていた。僕は人を動かそうとする運命が、他の人と同様に僕をコントロールしようとしているのなら、この頃はその意思というものから善意を感じていた。憂鬱な気分にもならず前向きになれた。はっきりと自分の人生がなんとか動いて前進している気がしたし、それは形が崩れもせず故障もせず正しく動いていると感じていた。確かにゆっくりとではあるが動いていることに僕は喜びを見出した。それは一つの恋愛の観念を諦めたということが原因みたいだった。もしかしたらこれからも一人一人の相手の恋愛の価値観を理解しようとし、又理解し合おうとしなければならない。そして離散するかもしれないだろう。僕はサトリを選んだ。それは一つの義理としても選んでいたし、彼女が僕を迎合してくれたこともあるし、彼女が変わらない姿としてこの世のあらゆる荒んだ部分を一年間見ても変わらずにいてくれたこともあった。僕は彼女と恋愛している。彼女は平日のうち隔日で会いに来てくれる。僕はそこそこ痛みを伴うトレーニングをする。それだけだ。それだけでも僕の人生は確実に進歩していき、成長した。そして何度か友人たちが僕に会いに来てくれた。最初は痩せこけた僕を見ることを予見して気味悪がっていたものいたそうだが、この頃は多少脂肪も筋肉も戻っていたので元気に話ができた。

 話はサトリの事だったり大学の専攻を他のものにすれば良かったなどの愚痴だったり、病院食が美味いか不味いかだったりした。僕はまだ主にやわらかい物しか食べれないが病院食は案外美味しい。調理師が病院についていると僕は彼らに伝えた。彼らは僕が入院生活に大きな不満を持っていないことを意外そうにした。病院を刑務所より少し上のグレードだくらいに考えていた者もいた。僕は彼らの大抵の質問に笑って受け答えした。彼らは僕の顔を見るまでどれほど回復したか不安な気持ちでいたそうで、僕が平常に生活できていることを知り気分が楽になったようだった。

 友人たちは僕を最初はまるで別の世界からやってきた人間のように扱った。まるでご機嫌を取らないと周囲から軽侮の対象にされるという筋道でも成り立っていそうだった。僕は彼らが緊張をしないようにいつもよりかは明るく振る舞った。そして彼ら自身も和を尊ぶ優しい人になった。彼らは午後六時半辺りに来た。友人の中にはサークルのバンド活動を熱心にやっている者がいた。一般的な仕事とは違う起業するようなことを言う者もいた。自分に誇りを持ってできる仕事をやろうとする者もいた。又、何も考えていないでただ一日を静寂と怠惰の中にいて、自分の人生に見切りをつけたような事を言う者もいた。僕は彼らの一人一人の考え方が一年で大きく変貌したことに、青年時代の思想の激動を感じた。僕は彼らの変貌した様子や彼らのしっかりとした意思表示の態度に対面してみて、強い気後れを感じた。僕は何か小さなことでもいいからやってみて社会的な遅れを取り戻さなければいけないと考えた。それが僕の可及的に行うべき義務だと信じた。そうして自分を社会の流れの中に戻そうとした。そうすれば自分は幾らか安心するだろうと決めつけた。又金銭や愛情など何かを得られなくても人生上に多くある疑問に答えが出るかもしれないと思った。その答えが僕に幾らかの手助けになると理論づけた。

 僕は幾らか物事全てを断定的に考える傾向にあるかもしれないなと思った。

 友人らは僕にポテトチップやエクレアなどのお菓子を持ってきていた。僕は柔らかそうなもの選んで彼らの前で食べた。それから楽しく、これといって内容が定まらない話をした。それは僕の入院生活と無関係だったし、彼らにとっても密接には繋がっていないことだったので、話は着地点を見出だせずにいて、かといって皆が注目すべき話題もなかったので流れるままに話は続いた。だが僕は退屈ではなかった。かといってとても楽しいとは言いがたかった。僕はそのうちカタリの事を打ち明けられたらどれだけ楽だろうかという感情がわずかに表出したのを感じた。だがそれはすぐにどうでもよくなるような出来事だった。

 ある友人は一年間眠っていたことを不思議な現象として思ってはいたが、話をしてみると平凡でごくごく一般的に見え、特別な経験をしたような人間には見えない、というような事を幾らか笑いを誘うような感じで言った。そして彼は笑っていた。僕は彼が自分でアクションを起こして反応を窺うのを楽しむような人間だったのを思い出し、そして幾らか彼にからかうようなことを言ってみたくなった。

「特別な人間じゃないよ。僕は。一年間ほど睡眠してただけさ。世知辛い世の中に疲れて元気を取り戻すために睡眠が必要だったんだ」

「へえ」

 彼は自分の述べた不謹慎な理不尽を誤魔化すようなひきつった笑いをしていた。かといって言い合いの中で物事を撤回するような頭が働いていないように見えた。

「愛している者のためさ。眠り続けることで心配をかけはしたが、かえって愛は深まったのさ」

「サトリのことを大事にしてやりな」

 彼はそう言って話題を大学の生協の本屋に充填してほしい本の話をしだした。それは僕の研究したいことでもあって、彼はそれを承知で何気なく話題に出してくれた。大学近くの生協が必要と水準する人数分だけ本の需要があれば充填してくれるのだ。僕はそのアンケートの性質を含んだノートに名前を書き、図書コーナーが購入しなければいけない需要的質問に自分の答えを記入した。僕はアンケートを読んで人間は特に意味もなく相手の性質に疑問を持つような質問をかけるのだな、と思った。それは学生の領分として問いかけているのだか本当にこの本が必要だから問いかけているのだか分かりかねる質問だった。

 ともかく僕は質問の項目に答えを記入していった。ありがとう、と彼は言った。

「サトリはなぜ皆と一緒に来ないんだろう」

 と、僕は皆の気分を窺うようにして呟いた。彼女が人を拒絶する人間だというのは皆分かっている上に、僕と交流があることの方が皆不思議にしているのだった。サトリは美人であったが、交流を好むような人物ではないことはその感動のない瞳や固まった表情から見て分かるはずだ。僕はこの一年でどうサトリという人物が変わったのかを軽い気持ちでカマをかけたのだ。だが皆、微妙で複雑な笑みを浮かべ、取り合いかねるといった感じの表情だった。

「お前と彼女の関係の方が皆不思議がっているんだよ。皆やサトリじゃない。問題はお前なんだよ」

 と、友人の一人が複雑な問題を回避しようとする笑みを浮かべた。僕はそうかもしれないな、と思った。彼女の存在は世の中ではもちろん少数ではあるが存在しても別にそれほど奇妙ではない。ある一定の距離を取っていればいいだけで、問題を複雑化しようとしているのは僕の方なのだった。人とあまり関わり合おうとしない種類の人間と僕は交わり合っている。他人からすればそれは問題という形ではないが、奇妙な形として目に映るだろう。僕はその事に一つ笑った。だから何だと言うんだろう。問題は過去にあるのではない。これから精一杯生きていくのが問題なのだ。僕が社会人として生きていくことに、そしてサトリと関係を続けられる是非があるということに、そしてカタリがいるということに、そういう事々に問題があるはずなのだ。あえて答えを出すならサトリが僕に波乱を持ち込まないのが彼女と付き合う理由なのだろう。いつだって過去を追求したがってしまう性質が僕にもある。でもそういうのにはこりごりなのだ。いつも頭を悩ませてきた答えの出ない事柄にいつまでも苦悩し続けるのはごめんだ。僕もそれから逃れようとしている最中なのだ。前に進みたい一心で生きているのだ。世の中に対する不安がどうとかは問題ではない。自分がどのように処理するかが問題なのだ。真実が不謹慎なものであっても、僕たちは生き続けなければいけないのだから。

 僕の頭の中には様々な問題が存在する。バンドで頑張っている人たちや、研究にのめり込んでいる人たちや、何もせずアルバイトだけをして生活している人たち、彼らの姿がはっきりと頭に焼き付くのだ。彼らが寄越すメールの一言一言の希望や挫折、悲しみに、僕は触れてどのように反応したらいいか、どういう感情を抱くことが正しい反応なのかが分からないでいる。僕は僕の生活の一端である彼らの生活との交流点で、激しく動揺して迷い続けているのである。それでも必死に迷わないように惑わされないように振り返りすぎないように進んでいるのである。その一点でサトリは平穏と安らぎをくれる愛おしい存在だ。

 僕は彼らが帰った後、カタリからのラインを見た。彼女は精神状態が安定しているようで、明るい話題を語り始めていた。学校で新しい友達が出来た。きつい性格をしていると思ったがそうでもなかった、とかそういう感じのよくある話だった。


 入院して二ヶ月経った。外は夏の暑さと湿気で歩く人誰もが気だるそうにしている。僕はエアコンの効いた中で全くそういう問題とはかけ離れた状態にいた。僕は補助の装具付きではあるが自分の脚で歩き、病院のコンビニや庭にまで行けるようになった。僕は一日中勉強していることが多くなっていた。自分が生きていく上での様々な問題を回避するように、又は無視するように、勉強は続いた。実質の問題上だと僕は人間として真面目でありたかった。様々な問題に直面した場合真面目に取り組むという事実上の実績もあった。僕は生きている上で誠実でありたいという性質を具有している。それは自分が誠実でありたいという理想があるわけではなく、そうでなければ自分は自分ではあり得ないという僕なりの答えを持っているからだ。だがそれが問題になる場合もあった。

 実質上、それは融通が効かないととられることもあったからだ。僕は理論上で扱いづらい人間として見られた。真実の多角的な見方からすると、僕は厄介だと見られる。僕は考え果たして、そうかもしれないな、と思った。そしてそれが大きな問題として受け取れずにいた。カタリが久しぶりにテレビを見ようと誘ってきた。週末で人が少なかったので僕は少し用心してホールに向かった。

 カタリはこの頃明るかった。自発的なおしゃべりが増え、笑顔もよく見せるようになった。最初はそれが僕を戸惑わせた。段々精神病に属する性質の何かがそうさせているのだろうと思うようになった。

 テレビではマラソンがやっていたり、昼からバラエティ番組なんかがやっていた。僕はテレビをさほど見ないので集中できずにぼうっとしていた。エアコンは少し弱かったので少し暑かった。彼女はやってくるなり、僕に接吻してきた。僕はこの挨拶に慣れるようになった。舌を絡めるようにはならなくなったが、僕は少なからず最初のうちは興奮していた。そして僕らは一度だけベッドでセックスした。彼女は僕の幾度もの僕の拒絶を無視した。その日も週末の暑い日だった。彼女は完全に僕を彼女自身の所持物として扱っているみたいだった。子供が話しかけるためのぬいぐるみみたいな役割だ。僕は日頃溜まっていた精液を吐き出すために彼女とセックスすることにためらいを持ちつつも我慢できずにしてしまった。僕はセックスしている間彼女とキスしたり、陰部を舐め合ったりしていた。僕はよくこのような事を病院で行えたものだと後で思い出した。僕はそれ以来カタリとの交流を多くしていた。サトリがやってこない日と時間を見計らって、僕と親密な関係になろうとしていた。

 僕はサトリにもカタリにも悪いとは思っていたが、それ以上自分の気持ちをどう動かしたらいいか分からなかった。情欲に動かされるままカタリとセックスしたのは悪いことだと思う。けれど、それから後悔や懲罰の観念だとかは湧き出てきたりしなかった。僕はそれが予測していた結果とは違っていたので、どうやって心に始末をつけたらいいか分からなかった。僕はそのうちセックスしたことを無視するようになった。それでいてサトリと話すのになんの罪悪感もなかった。僕は最悪な男だろうなと思った。だがその最悪な男にも色々な出逢いが待ち受けている。その出逢いが何かの結果や結論を生み、僕なりの形で僕の立場を位置付け、決定づけるのだろう。そうやって皆生きているのだから。

 一年間僕は眠っていた。その間はもちろん出会いがなかった。恋愛に限った出会いではなく、色々な宿命に関連づいた事や何かしらの結果を生む出会いがなかった。僕はスケジュール上全くの空白を彷徨っていた。そしてその空白をいつも物惜しい時間だと感じている。カタリとのセックスは時間を取り戻そうとしているみたいだった。僕はそしてセックスした後情けない気持ちになった。同時にカタリへの恋慕は強いものとなった。

 僕は不必要な事柄によって衝動的に動かされたのではないかと一時期は思った。けれど一年間の眠りなんかの所為ではなく、ただの一般的な恋愛から生じた一つの結果なのだ。僕はカタリとサトリとの間に生じる思いを何とかして解決しなければいけない。これは僕が生んだ宿命だ。悲しいことに、いずれか、もしくはどちらともと別れねばならないだろう。僕はサトリが来たときにこの決意を伝えようと決めた。僕はその日の午後五時辺りまでカタリと共に過ごすとともに、僕はもし二人のうちどちらかを選ぶ事になったらどうするかを考えた。そうやって考えてみると僕には寸分の隙間もなく選択肢がないように思え、選択する頭の回転が働かない事に気づいた。僕は人生で初めて大事なものの取捨選択をしている。だがもしかしたらどちらからも捨てられるかもしれないな、どうしようもない男だから、という結果に落ちた。僕は人から好かれやすい男だ。同時にその好意を浅はかな推測をし、浅はかな結論に運んでしまう男だ。僕は女性の頭を精一杯働かせておきながら自分だけ寝に入るような男だ。自分の実直な気持ちを伝えようとしない男だ。どうしようもない男だ。誠実であろうとする一方で女性に対してはそういう怠惰がある。

 僕はカタリを見詰めた。カタリは笑顔を絶やさず僕と隣り合っている。

「カタリ、僕には彼女がいるんだよ。君はどうして僕としたの」

 彼女は笑顔を少し照れくさそうなものに変えた。それには幾らか異性を誘う種類の色気があった。

「だって。あれくらいしないと彼女を奪えそうもないんだもん」

 奪う。今頃の少女はそうやって平気でそんな感覚でいるんだろうか。いや、まさか。

「僕は君とセックスするつもりはなかった。サトリの方が大事なんだから」

 彼女は可愛い顔に辛そうで悲しそうな表情をした。透明な水に黒い絵の具の点が落ちて沈んで拡がったみたいで、どこか物事の純粋さを汚く染めたような気持ちになる。

「男の人ってそういう事言うのね。悲しくなるよ」

 僕はどういうつもりで彼女の恋を否定したのか自分でも分からなかった。サトリの方が大事だって伝えたかっただけなのに。僕は話すのが上手のつもりでいたが違うのではないか、と思った。

「済まない。ごめん」

 僕は謝って取り返しがつけばいいと思った。彼女は笑って許してくれたようだったが、僕は彼女が心から許したとは思えなかった。

 僕はこういう時どんな純粋な人でも仕返ししたくなるような気持ちになるのを知っている。でも僕は今回その仕返しに余念なく対処するつもりはない。僕はもう考えるのが辛くなっている。一人の男として二人の女性と対面し、関係が壊れていく様子を凝視するだけの状態に疲れている。

 人生というのはこういう状態の連続な気がする。人に触れようと思えば思うほど難しい選択肢が多くなっていく。ただ僕は温もりを求めただけなのに。人間に対して希望を持ち始めたのに。人生をやり直そうとし始めたのに。僕は辛いことを繰り返したくない。ただ一瞬の誤ちだろう。許してくれればいい。誰も傷つかなければいい。僕は目覚めなかった方が良かっただろうかなんて考え始めている。ただベッドの上でカタリの世界に浸っていれば良かったのかもしれない。辛いことを全部無視して、心地よい純粋無垢の世界にいればよかった。僕の心は虚勢を張る余裕もなかった。かといってサトリの立場を蔑ろに出来るほどカタリの気持ちにいれこむ事もできずにいた。

「ねえ。カタリはどうして僕のことが好きになったの」 

 僕は野暮な事を訊いていると知っていたがそれを尋ねずにいられなかった。それはそもそもの疑問だった。僕は人を好きになるのに理由を必要とするような頭になっていた。僕だって人を好きになるのには理由なんて要らないし、目的が必要だとは思っていない。優劣などもってのほかだった。どれも必要のないことだし、それに囚われるほどまだ僕らは計算高くないだろう。

 だが訊きたかった。なぜ人が自ら死を選んで高い建物から飛び降りないの、と尋ねているみたいに奥に踏み入った質問だった。死を感じ取る微妙な心境にもあったかもしれない。訊いてもしょうがないのに尋ねずにいれない。

「……死ぬ時ってさ。淋しいのかなって考えたことある?」

 僕は彼女の震えた声にあまりに深い空しさを感じた。その空しさを言葉に出来る方法があるなら教えてほしいくらいだ。その空しさはあまりに深く、その深さに小石を投げても着陸した音がするまで十数秒ほど必要なくらいだろうと思った。

「いつも生きているときに淋しいって思ってる人ってさ。私ぐらいなのかなってたまに思ったりするの。常に。一秒一秒に淋しいって感じてるの」

 彼女の呼吸は、湧き出てくる多種多量の感情を、どのように今の自分の背丈に合わせるか調整しているように浅くなったり深くなったりした。

「その淋しさを埋めれる人って楽しい人なのか。カッコいい人なのかって考えたりするの。自分の空っぽを埋めてくれる人ってどんな人か。それがあなただと思ったりするの。一番フィーリングが合う人」

 僕は彼女の瞳から潤みが出て来るのを見て、ああ、このままだとまた落とされる、と思った。僕は彼女の淋しさにかこつけられて、彼女の面倒を見てきた。淋しさを埋めるというのは話し相手や艶っぽい話ができる相手がいればそれでいいのだ。僕である必要性はない。僕は彼女の若さを心の中で笑った。その笑いには少しも侮辱だとか軽薄だとかいう印象はなかった。ただ羨ましさだけがあった。これほど感情をストレートに表現し、そして実行し、大抵の男を虜にしてしまう可愛らしさがある。ただ僕はこれ以上は勘弁だった。

「もう駄目だよ。おしまい」

 彼女は両手で膝上で拳を握ったまま椅子に座っていた。そして片足を宙に浮かしていた。彼女は淋しいというより不機嫌な状態になっていた。淋しさを苛立ちに変えて僕の顔を軽く睨んだ。その睨みはたった今現在消化できる退屈だとか暇だとかを解決してほしい風に思えた。

「ねえ。キスしてよ」

 僕はため息を吐いて誰もいないホールを眺めた。ホールには監視カメラは付いていないようだ。

「一度だけだよ」

 と言ってすぐ表面と表面を合わせた。お父さんが娘にするキスみたいだった。

「あ、ねえ。今のもう一回して」

「やだよ。一回だけって言ったもの」

「そこをなんとか」

「あのねえ。キスってそう何回もするもんじゃないでしょ」

 僕は彼女の顔を少し睨みつけた。それでも彼女は臆する様子もなければ悪びれる様子もなく、むしろ挑戦的な態度を取った。

 彼女は幾らか恋愛に対して臆面を持った方がいいようだ。恋愛して取り返しがつかないくらい傷めつけられて両親が彼女を慰めるまでにならないと彼女はこういう軽率な恋愛をし続けると思う。

 彼女の言動には相手の意思を尊重するという理屈がなく、ただ相手が自分の思うままに動けばそれでいいという横着な心構えがあるように思えた。何度同じことを求めても彼女の心は満たされない。彼女の心が満たされないのは恋する人の気持ちを無視した独りよがりな線の上を淋しく進んでいるからだ。彼女の恋愛は受け身である上に何かをしてもらう事を求めている。それが愛の享受だと思っている。

 彼女のすることはまるで繰り返し同じ要求で、彼女の言ったことに僕が従うという堂々巡りなのだ。ほとんどの要求はキスや手を繋ぐ行為だが、それらには服従という帯が巻かれている。相手からの行動をまっすぐ受け止められるなら僅かな事々だけで人は満たされるものだ。彼女は客観性がなく愛を受け取ることばかり渇望している。僕は客観性をもって彼女の活動の一連の行動の往復をそう評価した。さらに一歩深く追及すると恋愛に対し相手を思いやる感情が欠落しているということにもなる。

 それでも、僕は彼女の淋しさや悲しみについて真剣に取り組んでいた。はっきり言って僕は普段他人の悩み事に真面目な意見を言うことは少ないだろう。大丈夫だよ、とか、きっとなんとかなるさ、とか。悩み事は大抵僕には動かしきれない不安な塊だ。だがどうだろう。僕は今カタリの悩みを自分の物として捉え、自分の心の中に存在する事象として感じていた。彼女の若いセンチメンタルだということは承知している。だが、僕にはその淋しさが元々の僕を形成してきた環境にも基づいている感じがした。

 それは君の心が独りよがりだからなんだよ。本当は皆が君のことを好きなんだよ。と僕はもっと奥に踏み入ったことも言いたかった。不安になる必要なんて無いんだよ、と。だが僕はそれが言えなかった。苦しみの中にいる彼女を動かすことで自分が壊されてしまうことを恐れていた。

 僕はテレビの事を忘れて、かつ視界にテレビを入れながら相談めいたものを彼女から受けていた。彼女には答えが出ていた。ただその答えに自分で満足がいっているわけではなかった。彼女はどうしても自分の経験のある事でなければ勇気もやる気も出ずにもう一歩を進めないらしかった。その話題は僕との恋愛関係の進捗のことだった。僕を喜ばせたいという話題だった。僕は彼女に答えとして恋愛に限らない一般論を語っただけだった。喜ばせたいならやりたくないこともやらなくてはいけないかもしれない、と。彼女がどんな見当をつけて結論を出したかは知らないため、僕の答えも曖昧にならざるを得なかった。

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