第4話
僕は比較的冷めた生ぬるい粥の中に梅干し入れて食べつつ、家の中を眺め回し、代わり映えの無さに、かえって記憶が欠損した感じを覚えた。僕は極端な精神状態にあった。映像を写真のように手にとることが頭の中で出来るのだった。そして触覚も奇妙に変化しているようだった。温もりが何かの物体にしっかりと残るみたいに、感覚もそのようにじっとりと残るようだった。僕はこの一年間で妙な穴にはまったみたいに奇妙な感覚の癖みたいなものを覚えてしまったようなのだ。それの所為でじっとりと今という感覚を感じ取ることが出来た。そしてそれは違和感というよりはカフェインなどで覚醒しすぎた感覚に似ていた。妙に神経質な感覚なのだ。
僕は空想の中の父の笑顔を観察して、この笑顔にはどれだけの辛さがこめられてきたのだろうと考えた。
そしてサトリとカタリのことを考えた。僕はこの二人の潤ってなめらかな肌の感覚を忘れられずにいた。その感覚は夜に月を一人で眺めることに似ていた。どちらも悲しみの感情の器が次から次へと入れられて溢れでてくる。僕は二人を思い出すことで心に痛みも感じていた。二人を悲しませていることを思い出すと、僕は人を裏切るという行為には自分の意図しない原因が伴うこともあるのだと理解した。
僕は二人に恋愛したことの問題に取り組むべきか放置すべきか迷った。僕はこの類の問題にはいずれの選択をしたにしろ、喪失の感情が伴うことを理解していた。それで機会(この場合危機というべきか)がやってくるまで待って喪失を遅れさせることも手だと思った。というより、そもそも僕は迷う必要がない。サトリがいるのだから。そして元の世界に戻っていけばいいのだから。理屈ではそう分かっている。だが居心地のいいカタリの世界への恩の心もあった。だからこそ拒絶するのも嫌だったし、今もカタリの世界へ向かうことも考え方によれば正しい選択肢なのかもしれなかった。欲望に忠実であることは正しい選択肢かもしれない。時と場合によっては。僕は少なくとも自分の中枢にあるものが将来的に拒絶しない結果を望んでいた。僕がそう考えればサトリの事が疑わしくなっていった。サトリは一年の間本当に僕以外の異性と性交渉してこなかったのかということだった。問題は性交渉したかどうかではない。僕を裏切ったかということでもない。彼女が恋する相手として信用できる人間であるかどうかというシンプルな疑問だけだった。
僕は弟に二階の自室へと担がれながら、空間の隅にある夜の薄暗さに目を遣った。僕の体の中に溶け込む何かにそれは見えた。そしてそれは性の欲望の悦楽の観念に思えた。
僕は性交渉することに疑問を持っているが、別に悪いことだとは思っていない。ただ何か悲しく思えるのだ。それはアダルトビデオで用を済ましたときに感じられるものだった。思春期の男はそれでマスターベーションするとき、どこかに存在する女性の優しさなどを胸に覚えてしまうときがある。そして僕は用を終えた後精神的な関係性の何もかもが遠のいていった気がした。なぜだろう。空想であるはずの関係は本来相手に持ち得ないほど薄弱な思いのはずなのに。
僕はサトリで一度童貞を捨ててみて、実際に彼女にも同じ感情が芽生えるのを感じていた。それからサトリと僕はセックスをしなくなった。僕は彼女が僕の世界に入り込んできたのを感じた。そして僕の世界は拒絶とも肯定とも取れない曖昧な答えを出したことが分かった。それは確かに分かることなのだ。相手が目の前で一歩下がるのが、確かに分かったのだ。僕は一時期はその反応が怖かった。僕は段々物事に対して冷めた感覚で捉えることが多くなった。僕は性欲を拒絶してしまう臆病なタイプの人間なのだろうと知った。多くの女性から弱虫、と呼ばれるのだろう。
サトリはそんな僕を、その感情が覆すのは難しそうな悲しみの表情で見詰めていた。
僕とサトリはいつも同じ物を共有しているように思えた。だがそれは関係を壊したくないから共有したのであり、目の前に差し出されるものが蹴落としてまで欲しいものじゃなかったということなのかもしれない。だから僕とサトリはやってこれたのかもしれない。本当に欲しいものは、今あるのかもしれない。カタリという優しい世界が。
僕はベッドの上で弱々しく動く自分の腕を真上の空中に差し出してみた。扱いづらく上下左右に傾く微妙な重みがあった。僕は弱いオレンジ灯に向けて手のひらを開いた。僕はその行為がなぜだか自分が存在しているか確認しているように思えた。手のひらを天井に向ける。無いものを掴もうとしているみたいで淋しい行為だ。それでいて無いものをあると思い込もうとする行為だ。僕はそう思うと淋しくなった。憂鬱な感じがした。たった今考えているサトリとカタリの二つの世界を否定しているみたいだった。だがむしろ僕にはそれが自然で正しい選択に感じられた。どちらをも否定することで自分が自立した世界に存在することを決定づける。そう思えてきていたが錯覚だとすぐに頭の中で否定した。僕は自分だけでは生きられない。今まで一人で何処にも行けなかったみたいに。一年の間を精神面でも支えられて生きたみたいに。
この夜、僕はサトリと一緒に同じ世界に戻ると決めた。僕は彼女となら安心して生きられると分かった。確かにカタリには感謝している。だが感謝を世界が今より強く大事にしていたら世の流れは全く別の方向に動いている。だからというわけではないが、僕は病院に戻ったら彼女の恋する思いを拒絶することを伝える。君の思いは叶えられないのだ、と。
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