第3話
家に一時帰宅している最中、僕は一年前と元通り変わらない部屋へ入った。その時に世界が僕を異質なものとして捉えているような、もしくは僕が世界を異質と感じているような感覚がした。それはゆっくりとぶよぶよとした液体が迫ってくるような感じに似ていた。逃れようと思えば逃れられるがどこまでも追いかけてきそうだった。吐き気がした。元の自分の家とは思えなかった。確かに家のどこも大きくは変わっていなかった。テレビの大きさも電球の明るさも壁紙の色も漂う匂いも棚の高さも。ただ大きく違っているのは僕だけなのだと僕には分かった。僕は一年間の眠りで大きな違う世界をさまよい、そこでの生活に慣れてしまったのだ。そのような解釈が一番合う。僕はカタリが住む世界を生きてきた。そこでの純粋で清廉潔白な世界に僕は生き慣れている。彼女の世界には嘘や欺瞞がなかった。
以前の僕と今の僕を比べると全く違った生き方をしていた。僕は冗談などの軽口で皆を笑わせ、そのために汚い事を幾つかやった。かといって自分がまるで悪い事をしていると思っていなかったし、楽しかった。
そんな世界を淋しいとは感じていたけれど確かだと認めていた。僕は自分を騙して生きていると感じたからその世界を悲しく思った。適応していないのだと考えるときがあった。僕は自分だけが存在できる孤独な世界を求めているときもあった。だがそれも僕には適していなかった。
ついには僕が悪いのかと考え始めた。どこにも適応できない自分が悪い気がしてならなかった。そういう悩みの最中に僕は事故に遭った。そしてカタリの世界に出会った。彼女の純粋な世界に触れ、僕は幸せだった。だから僕のこれからの言動が彼女の存在を否定せざるを得ないことは残酷な事実だった。僕はその事実を何でもないことだと無視しようとしている。
本当は上手くカタリの情緒不安定な気持ちを和らげることで、彼女の世界に長く触れていたかったのだ。心優しいカタリの世界は長い間僕の慰めだった。誰もが僕を死んでいると認めていたけれど、彼女だけは僕を生命として扱った。僕が死者ではないと教えてくれた。
僕はいつも人を見てものを言うクセがあった。人は平等ではないと世界が語っているから僕も人をそれぞれ違う扱いをした。でもその観念は僕を孤独にした。世界は真に仲間などいないと語っているみたいだった。僕は孤独を愛せるほど偏屈には成れないでいる。それで恋人をつくっても無駄なのではないかと考えそうになる。友達や家族の親しさも遠ざかっていく気がする。僕が一年間味わった長い空白は遠ざかった彼らとの空白に似ている気がする。同じく淋しい空白な気がする。
僕は最近面白いと思っていた事柄にも興味を持てなくなり、生きている上で衝突する様々な事々にも、強い反発を感じなくなっていた。それは生きている事に慎重になり、衝突すべき事にも丁寧に要領を用いるようになったからだった。僕は生きている実感である痛みという感覚を回避しようとしているのだった。僕は自分で鞭打って人生を歩むことに疑問と疲れを感じていた。生きているということに対していつも疑問を持っている。僕は憎まれている気がしてならなかった。今まで蹴落としてきた、蹴落とされてきた人たち一人一人に、毎日毎日憎しみの気持ちを注がれている気がしてならない。それは僕自身が生きているという事に嫌悪しているからかもしれない。僕が存在しているということに。さっさと消えてしまわない邪魔者なのだということに。その事実に敗北し続けている気がする。僕はいつだって醜い。そんな風に捉えられる。消えてしまった方が楽だとは分かっていて、その上人生を器用に生きながらえても、何も意味を持ってくれない。ただ器用なだけじゃ、何も意味を持ってくれない。僕を褒めてくれるカタリやサトリのような存在を裏切っているからだ。僕は自分らしく生きられていない。自分を殺して、そっと、息をひそめて、そうして今頭の中を巡る感情に必死に耐えている。淋しさ、悲しさ。そんな感情は普段誤魔化しているが本来これほど息をひそめてしまうくらい辛いものなのだ。
僕は松葉杖を使い、ベッドの上に横になり、スマホでカタリの文章を読んだ。
「アキラがいないから、今日の私の昼食は寂しいものになりました。アキラだけが私の心の支えだと言っているのに、あなたは信じてくれないんですね。私をあなたのものにしていいのに、あなたはサトリとかいう女の子と過ごしていますね。ずるい。あなただけが一人じゃないなんて。私は一人なのに」
カタリは僕の恋人の恋愛に対するジェラシーだけでなく、僕が孤独ではないことにまでジェラシーを感じ始めていた。僕はそんな風な文章を読む度、今日も孤独だったという実感が湧く。一日が悲しい色を帯びて纏わりついたのだと僕は思う。外の空気を吸う一呼吸一呼吸がまるで悲しく透き通った痛みの実感があるようだ。
僕はスマホを枕元に置いて、天井の色を見た。ミルク色をしていた。僕はこの家を懐かしく思った。小さい頃、僕の物心ができる過程でこの家は建てられた。だから僕もこの家に親しみを持っている。だが、僕の世界ではない。あくまでカタリとの世界とは違う意思で創られた世界。父と母と弟の家なのだ。僕はこの世界の住人とは言えなくなっていた。だが段々この世界に戻っていかなければいけない。この空気に、この匂いに、風景に。
僕はサトリに電話をすることにした。淋しかったから、声を聞きたかったのだ。
「もしもし」
「もしもしサトリ?」
「どうしたの」
「淋しくて。君の声が聞きたくて電話をかけた。生きていくのに不自由になるくらい淋しいんだ」
「……私の事を考えてみて、私の腿の上でゆっくり呼吸し、ゆっくりと目を閉じるの」
僕は言われた通りにしつつ、彼女の言葉に耳を傾けた。力が少し抜けた。
「海を想像してみて、あなたは私の腿の上でリラックスしながら波の力が流れるまま体を任せるの。そうしているうちに空が見えて、光が見えて、雲の影が軽く差す。それも小さな雲。通り抜けるのも早い。それを見てあなたは思うの。皆どこへ行ったんだろう。皆一人ぼっちなのかなって」
僕は彼女の利用するリラックス方法を何度か試してもらったことがあった。彼女はイメージトレーニングのそれを愛用しているらしく、幾らか言葉が抜けてはいたが僕にそれを試した。
僕は可笑しく思いながら彼女の声に耳を傾けていた。彼女が愛らしいものとしてますます愛着が深まった。僕は彼女のリラックス方法には効果を受けなかったが、彼女の息の仕方、彼女の気の配り方、彼女の話す海の話に僕は多少気楽な気持ちになれた。
「ありがとう。リラックスできたよ」
「ふふ。本当?」
「僕、本当に大学に戻れるかな? こんな事をしたって意味がないって段々思えてきていたんだ。空しいことなんだって。静かに暮らせればそれでいいのに、僕はそれすらもまともにできないような気がしてきた」
彼女は心配したようにわずかに呼吸を乱したようだった。僕はその彼女の心配が少し滑稽に思えた。僕は恋人である彼女でも人に心配するなんて愚かだと感じるところがあった。それは僕の愚かなところだった。誰に対しても真に心を許していないのだ。生きて傷付いている人はたまにそのように身構えることがある。だがそれは僕の生きてきたうえでの常たる習癖なのだ。
人が人を傷めつける事実が僕を傍観者であるような見方をするように作り上げてきたのだ。僕がそこで遭遇したのは他人が痛めつけられるということだ。それで人に傷つけられたくないと常々思っている。だから人にも心を許さない。
僕はなぜサトリを恋しく思っているんだろう。いつだってサトリが僕を愛してくれていたから? サトリは悲しい顔を僕によくして、僕の痛みも共有してくれるから? 僕には考えることが山ほどある。問題が沢山ある。そしてその問題の一つ一つが僕の古傷を思い出させ、次々と僕に更なる解決を求めてくる。解決しても痛みはすぐ治まるわけじゃない。僕はいつも痛みに耐えている。生きていく上でまとわりつく様々な小さい事々、僕は並々ならぬ労力と時間をかけてそれらの問題を解決する。
僕はいつも癒しを求めていた。だが僕はそれほど大きな不幸な事件に出会ったわけではない。たったの一年時間を犠牲にしていただけだ。
僕は努力している。それだけで満足するには現状で十分なのかもしれない。
僕は支離滅裂な無駄な思考をまとめて、リラックスするために一呼吸した。僕はどうやら元の世界に戻らなければいけない。平凡で窮屈ではあるが、幻想による快楽もたまに手に入る元の世界へ。
僕はその午後に車に乗せられて、車椅子で近所の自然公園を散歩した。腕に力が入らなくなったら父を呼んで押してもらった。僕は自然の新鮮な空気を吸って、頭が明快になっていくのを感じた。ハンカチノキという木が頭に自然と残った。ハンカチノキというのはそれが正式な名称らしく、ハンカチの木とよく呼ばれる。花が白い葉に包まれる形をしている。その葉がハンカチのようで名称通りだということで僕の頭に残った。父は無邪気にそれを本当にハンカチみたいなんだな、とそれが風流であるかのように言った。僕はなんだかその父の言葉があまりにそのままで何もひねりが存在しないので、かえって面白く思った。そして父が無邪気なのは僕にとって嬉しいものだった。父は事故以前は僕から離れようとする傾向があり、それがまた孤独を強めていたのだ。僕は生きるためにそういう血縁の関係性を深めるのを怠ったと考えた。そして僕は今絶好の機会にあるのだと知った。何も存在していなかった家族の縁を再生するという機会に。
僕は以前まで親や弟は邪魔もしなければ手助けもしてくれない、厄介でもなければ邪魔でもない。そういう存在くらいにしか思えていなかった。ただ僕が死にそうになったあの日、父と母、弟の声を僕はしっかりと覚えている。最初は夢か幻かくらいにしか思っていなかったが、何物にも形容し難い悲痛な声を聞いたとき、僕の心は激しく揺さぶられたのだ。顔は見えなかったがその時はやけに意識がしっかりとしていて、悲痛な叫び声は十数分ほど続いたのだった。僕は、ああ、やってしまったな、と徐々に冷静になって考えた。そして頭に浮かんだそのやってしまったなという簡略な言葉が悲しかった。親や弟がこれほど悲しんでいるのになぜかすぐに動揺は鎮まり、自分の死に対する心はこれほどしか動かないのだと実証された。そう思った。涙は出たと思う。でも僕の心はどこかに行ってしまったか誰かにあげてしまったか、それほど動かなくなって固まっていた。それはもう諦めだった。自分の人生に対する諦めでもあったし、世界へのあらゆる希望に対する諦めでもあった。僕というものは空っぽから他の空っぽに繋がっていった。そうやって意識が違う虚に移りゆくのを感じた。
そうして僕は外界からの情報だけで漫然と動いていた。僕は少しずつ少しずつ自分を削りつつ空白を増やしていったのだと思う、失っていったのだと思う。世界が僕の期待を裏切るからだった。僕は世界を美しいものだとずっと信じていた。そしてあらゆる種類の期待をしていた。そしてあらゆる絶望があるのも知っていた。歴史が最後に正義が勝つなどと教え知って安心していた。だがそれに対するあらゆる偏見を聞く度に自分の期待する事柄が悪いものなのではないかと段々心が揺れ動くのを感じていた。そしてある時その揺れに耐えきれなくなった。そして心は期待を殺し、絶望に耐え抜くための争いの心構えになっていった。
夕暮れ時になり、窓からオレンジの光が差し込んで影を部屋に作った頃、僕は頭の中にハンカチノキのハンカチの美しさを頭に浮かべていた。
僕が死の眠りについていた頃、僕はいつも言葉で頭の中に映像を作っていた。ビジュアライゼーションというそうだ。物事の可視化。それは想像を映像にし、操作する事が出来る。
そしてカタリがどんな女の子なのか、サトリはどんな女の子だったのか、友達の映像を頭の中に作って、どういう状態にあるだろうかとイメージしていた。それで淋しさを紛らわしていたが、たまに笑顔が胸の奥をえぐるようにやってきてその人を前にし、何か一言だけ伝えたい口が空しかったときもあった。僕はそういうもどかしいとき、どうすればいいか考えて又昔を思い出し、家の庭に集ったときの少年の昔を思い出したりした。そういうノスタルジイが僕の心の中でこのような変な精神状態を作ったのだと思う。誰かがそばにいてほしい淋しさと共に虚無感が延々と奥へ奥へと繋がっていくようだった。
オレンジの光の影は妙に陰鬱だった。僕はこの部屋がそういう心境にするような仕掛けにしてあるのではないかと勘ぐってみたりしたくらいだった。僕は体を起こし窓の縁に腕を預けて体が窓に向かうような体勢を保った。オレンジ色の光は別に懐かしくはなかったが、この家から見える風景は美しいと覚えていたので、しばらくその体勢でいた。
僕は十才くらいの頃を思い浮かべた。そうすると父の恥ずかしさを隠した薄ら笑いの影が見えた。父は僕と立ち幅跳びの競い合いをしていた。
どちらの方が遠くまでいけるか。どちらの方が優れているか、のつもりだった僕は負けて泣きべそをかいていた。
父はそんな僕に済まないような笑顔でいた。
僕はそういう昔をオレンジ色の光の中に克明に浮かべるのだった。
僕の父は偏屈な男だった。正しさばかりを求める男だった。厳しかった。ずるい笑顔が妙に上手い人だった。
今の僕にはその笑顔の熟練さが苦労の証に思えるのだった。今のように笑えるようになるまでどれほど涙したか僕には推し量れないでいる。僕と父はいつも分かり合えない表面上の言葉のぶつかり合いをしていた。だが僕にはどういう人物なのかが大学に入ってから分かってきていた。
彼はいつも正しさの究極を求めるあまり、その過程の一方で正しくない犠牲を見てきていたのだと。それが彼をいつも悲しませているのだと。今の僕にはまだその辛さが分からないでいる。そうやって昔の父を釣り合いに出して僕は暇を潰した。そして夕暮れの明かりが暗がりになるまで僕はどうすれば正しい人間でいられるかをひたすら計算していた。僕の今があまりにも正しくなかったからだった。
現実というのは僕が思っているよりも単純な平行線を往き来しているのだなと笑えた。このような父と息子の今と過去の様相が現実と空想のぶつかり合いで僕は妙に理解が深まる気がした。
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