第2話

 カタリは午後十時半くらいに病院に戻ってきていた。近くにある公立の高校を使って授業を受けているようだ。カタリは朝起きてから午後三時頃までに僕と話をしたり、読書をしたり、テレビを見て何らかのツッコミを入れたりして生活していた。僕も似たような生活だったが不思議と退屈はしなかった。それは彼女とサトリがいたからに違いなかったが、僕は僕で退屈をしないように工夫していたかもしれない。病院の図書館を借りたり、できる箇所だけラジオ体操をしたり、リハビリをしたり、勉強をしたりした。本当ならビールの一杯でもあればもっと良かっただろうが、サイダーで我慢をするようにしていた。


 幾らか医者による脳などに支障が出ていないか検査が行われた。検査をしてから退院を促すものだと僕は思っていたが、ろくに検査もせず退院と伝えてしまうこともあるそうだ。医者というのはかなり曖昧なことを言うなと僕はこのとき分からされた。


 内容はほとんどボケの調査みたいなものや知能検査、それから電極をベタベタと専用の接着剤を付けた上で脳波を測る検査。絵の具野滲んだような鏡合わせの絵を見せられて何に見えるかという精神的な(恐らく精神面の)検査。(ロールシャッハテストというらしい)こういったものだった。中々興味深いものが多かったが脳波を測る検査では眠ってくださいという指示が出る。それには緊張して僕は眠れなかった。作業している人から、眠れませんか、と平凡なことをしているような調子の質問が出た。僕はそれに緊張しつつ「はい」と答えた。「たまにあることなので気にしないでください、駄目だったら時間を見て止めますので」と僕を安心させるような特別な感情のない、かといって事務的でもない声がその狭い部屋に通った。僕はその作業士(専門の名が分からないのでこう呼ぶことにする)の顔と声をよく覚えている。理由は分からないし、一度会ってその人とは二度と会うことはなかった。


 僕は今までの人生でこういう経験をしたことはなかった。ただ僕がその人を何かの拍子で思い出すとき、しっかりと病院とその中で起きた内容もしっかりとついてきて思い出されるのだ。逆もまた同じだった。


 そして僕はたまにそこで悲劇的な事件を幾つか見ていた。それは患者の容態が急変したり、緊急の患者が小康状態でこちらに移されてきたりしたのを見たときだった。患者らは大抵意識がもうろうとしていて目が虚ろだった。僕はそんなとき以前まで自分もそういう状況にあったのだなという意識が、針が机の上に落ちるように確かな感覚で分かった。


 僕とカタリは隣り合ったベッドにあったがそのうち別室に離され、メッセージアプリだけでの会話が多くなった。


 彼女は大抵自分の部屋にこもっていた。


 通りがかりに見る限りだとただ窓の外を見る時間が多かったようだ。もしかしたら前までは窓を眺めて横を見る風景の中に僕が居る事に興味があったのかもしれない。


 彼女はラインだと積極的で、そして恥じらいと思春期特有の情緒不安定さを持った普通の少女に思えた。ただたまに沢山の長いメッセージを送ってきたこともあった。


 僕はそれが病気の所為というよりは彼女の思考回路の循環の中で取りこぼしたものが溢れてきたものに思えた。


 僕はそれを大抵は冷静に受け止めようとしたが、その言い分には彼女が僕のことを問題にしているように思えるときがあった。直接的な内容は学校や親のことだったりしたが、それらとともに気分を害しているのは初めて人間的な触れ合いを持った僕がいるから希望的な感情を抱き、苦悩しているとでも言われている気がした。


 彼女はあまり理性的な人間ではなかった。


 確かに普段の発言や逸脱した言動からしてみてもそれはそうだった。



 だが僕は彼女を愛すべきか弱きものとして目に映していたし、僕は病気だからといって人間ではないと決めつける一部の人々の考えとは違っていた。僕は生きている者には尊敬の念を払っていることに自己満足しているのではない。僕はたまたま病気である者を愛して、それを否定することなど出来ないと理解しているつもりだ。


 愛する者がいる限り、それを否定するべきではないと思っているのだ。


 カタリはたまに僕の部屋の前でじっと立ち止まっていた。そして大きな瞳で僕に外に出てほしいという強い訴えを発露させていた。


 カタリは廊下の左右を見渡し、誰も居ないのを確認すると、僕にキスをしてきた。それは子供じみた彼女が精一杯前へ進もうとした愛を求める性的なキスだった。


 彼女は舌を必死に絡めてきた。僕はそれを拒絶しようかどうか迷った。いや、驚いてはいたが彼女を求める自分もいた。彼女の衝動を容認する自分がいた。キスは長く続いた。僕は息苦しくなった。強く勃起もしていた。


 僕はこのときまだあまり長時間自分の脚で立てないでたまに車椅子も使っていたので、そのうち脚がフラフラしてきた。彼女は僕を僕の部屋に入れようとゆっくり肩を抱いて歩いた。


 僕は少しばかり本来の恋人を持つ自分に戻り、彼女の目に鋭い軽蔑の目線を遣った。彼女はその目に面食らったようだった。


 何も言えず僕らはしばらくの間沈黙していた。徐々にその沈黙の質の重さは増していったようだった。層が段々と被って降り積もっているみたいだった。


 彼女にどう言えば僕の事情を理解してくれるだろうと考えた。


 そして「自分の部屋に戻って」と呟いた。


 とりあえずこの状態を脱するだけの言葉は、想像以上に効果があった。そして僕がカタリと様々な問題を抱えなければいけない事を暗示していた。


 またある日、サトリが来た。彼女は見舞い時にゼリーやジュースなどの軽いお菓子を買ってきてくれていた。僕は小さなぶどうゼリーを三つ食べた。それだけで僕のお腹は大分満たされた。


 今日は宇宙の惑星の質量や日本史の建築物の記録に関するものを勉強した。僕の専攻は物理学部なのだが、彼女は様々な事を僕に教えようとしてくれた。僕は宇宙のことを特には知らないがその美しさや謎めいた感じにいつも魅了されている。だから現実的な数値や数学的な問題が出てきたことが不可解だった。


 宇宙の美しさとはあまりにかけ離れている、と思った。


 そして彼女が帰った後に、美しさとかけ離れた種類の感情の鋭さを持っているのは女性も同じだな、と僕は一つ笑った。カタリの事を思っていたのだ。


 僕はその事実に笑えないほどの苦労を重ねたし、これからも女性というものの計り知れない実情に翻弄され続けるだろう。


 今日のサトリは青いツヤツヤしたリボンと暗く光る紺の色をした髪留めで長い後ろ髪をおだんごにして纏めていた。僕はそれを女性の色気の艶やかさの一つとして見詰めていた。彼女の長い後ろ髪は下部の方で豊かな広がりの丸い形ができた。


 僕は彼女のそのいつもと違う髪の一固まりについて口に出さないでいた。


 彼女はキレイだねと目線で言った。彼女は笑った。そして僕の唇の輪郭を舌で舐めた。


 僕らは恐ろしく不思議だったかもしれない。この世の存在のうちでフィクションとして語り継がれてもいいくらいあり得なかったかもしれない。


 彼女は今日、僕の頬を舐めた。僕はザラザラとした彼女の舌の生温かい感触を気持ちよく思った。そしてその気持ちよさが頭にあがってくるとともに段々眠気を感じた。彼女の体は僕の体をまたいでいた。そして彼女は舌を尖らせて僕の頬に筆で文字を描くようにした。文字は描かなかったようだが、何かの絵のようなものを描いているかもしれなかった。それはひょっとしたら美しく咲き誇った花々と蝶たちかもしれなかった。


 僕は主治医に彼女が来たら誰も入れないように固く注意していた。でもカタリが僕らのこの光景を見たらどう思うだろうか。一人の女として嫉妬するだろうか。僕はそういう系図になるのを予想したが、もしかしたらそんな関係にはならずに退院してしまうだろうなと考えた。リハビリは順調だったし一時帰宅の準備も出来つつあったからだった。


 僕はサトリと一年ほど遅れを取ることにはなるが社会人になる見立てを立てるようになるまでになっていた。一年間の眠りは不幸だとしても取り戻すのに時間をかけていけないわけではない。僕は一歩一歩の歩みを少しずつではあるが間違えないように、そして懸命に頭も体も働かせていた。


 疲れることはあったがカタリがストレス解消になった。彼女の激しく若い感情の伴ったメールの文章は僕をいつも喜ばせた。そして僕は一週間ほどすると彼女の病的な部分が段々分かるようになった。彼女は絆や関係性といった人と人の間に出来るものにとても敏感で、それにいつも感情が揺さぶられるようだった。


 考え過ぎ、といったらそれまでかもしれないが、僕は彼女の病的な部分を文面から見つけた。


 たしかそれはラインの文面で、「なぜ私に会いにきてくれないの?」という問いに対し、僕は何度も出た結論と先生の考えやカタリの両親などの考えを僕なりに考えて伝えた。でも彼女は納得してくれなかった。


 彼女は僕を一人の人間としてみているというより(たまに恋人のような関係で考えを伝えてきたほどの人間関係だった)もっと自分だけの独占できて正しくて尊敬するべき人格を求めているようだった。


 彼女は若かった。正しさと華々しさと儚さを追い求める彼女は、理想的な異性からの優しさを求めていた。


 彼女は一人の女性として完成するのを求めつつ、その相手として見合うよう、僕にそれらと対になるような完璧さを求めていたようだった。


 僕はどうすることも出来ないで、彼女へ返信するのに困窮していた。


 翌朝携帯電話の電源をオンにすると五十件近く彼女から連絡があった。僕は彼女が精神病だということをこの時初めて体の真ん中にある芯まで理解させられたと思った。その病の重さと彼女への憐憫の情は付き合った時間の浅さの割には深かった。僕は病院で一人の時は大抵彼女の事を考えていた。だがこれからはその憐れみの気持ちが徐々に薄まっていき、そして彼女のことを社会からはみ出てしまった人間の一人として認めていくだろうと予覚した。僕とは無関係になっていき、サトリとの関係が深まっていくはずだ、と僕は信じた。


 段々と筋肉と内臓が元通りの具合に戻っていく中、カタリは僕をホールのテレビ観覧に誘うようになった。カタリは車椅子の僕の隣に立った。僕は心の中を決め兼ねていた。離れていくと思った気持ちはむしろこの顔合わせで急激に接近していた。僕は連絡が五十件近くあってストーカー被害にあったとは誰にも言わなかった。


 僕は自然と全てが成行きで解決すると思っていた。


 彼女は黙っていた。精神安定剤を増やされた、とぼんやり言った。風呂の栓が抜けてしまって漏れ出ていく様子を眺めさせられているような言い方だった。


 僕は何か言うべきかと思った。だが言葉は出なかった。


 本当は君の事を大事に思っているんだよ、誰よりも可愛く思っているんだよ、と言うべきだった。


 僕はそういう恋愛に関する言葉を何一つ彼女に返していなかった。伝えないことが正しいと思っているからだった。僕には恋人がいる。恋人を二人作ることはできない。


 だがそれに反して、恋する感情に正直であるべきだという言葉が僕の中で大きく広がっていた。それは言い訳や屁理屈に過ぎないと感じていたかつてのうそぶきだった。


 たまに冗談でテレビなどでタレントが言いそうな言葉だった。僕は今それにすがるほど楽になりたいと思っている。矛盾を解消して進みたいと心が喚いている。


 僕の気持ちは沈んでいたが心の調子は不安定に高鳴っていた。彼女は椅子に座らず僕の隣にしゃがみこみ、黙って水泳を見ていた。

「私、小さい頃は泳げなかったんだ。でも中学の頃スイミングスクールに行って、泳げるようになったんだ」


 彼女はそう言った。言ったというより恋愛の感情を文章にするのを避けてテキトウな言葉を「使った」ように思われた。そうやって無関係な話と言葉を使うことで、この間の失態を解消して、同時に僕との関係の大きなひび割れを直そうとしているようだった。僕は彼女の使った言葉を「そう」とか「そっか」とか平坦でその場しのぎの言葉を使って応じた。僕は彼女の横顔を眺めた。彼女の肌の色は透き通っていて、白かった。サトリと同じだと僕は思った。僕はカタリとサトリに対して合致点を認めなければいけなかった。そしてそれが僕の恋するタイプなのだと分かった。無口で弱くて可愛い女の子、そして僕に尽くしてくれる。


 僕は昼食まで彼女の話を聞いていた。テレビの内容が変わるごとに彼女の話すことも変わった。僕にはそれがテレビの内容を話しているというより番組に動かされる気分のパラメーターに思えた。


 彼女は僕の車椅子の横でタイヤの上に置かれた僕の手に触れた。指を握った。そして小さく何かを唱えていた。それは僕に何かを伝えるためというよりは自分自身を勇気づける言葉かもしれなかった。もしくは何かを空想してその思いが言葉として溢れ出ているようだった。そして僕はその言葉に耳を傾けた。

「……愛するのは誰か、私を愛してくれるのは誰か。私が愛せるのは誰か……」



 はっきりと断言できないがこのように言っているように聞こえた。彼女は病魔に浮かされつつ悲しくもまだ愛せる誰かを、もしくは愛してもらえる誰かを必要としていた。それはもはや愛の飢餓状態に近かった。彼女の丸く真っ黒な瞳はテレビから離れないというより、焦点が合っておらず、テレビも何も見えていないようだった。彼女に見えているのはこの部屋に含まれるぼんやりとした縁取れない机などの輪郭とその輪郭の中の曖昧な色だけだった。細かい影やブラインドの隙間から見える鋭い明かりなどのはっきりした部分さえ認識できていないようだった。


 僕は彼女の頭の中の混沌とした状態をどう打破すればいいかを考えて、彼女の目の前に手をかざしてみた。すると彼女は目をぱちくりさせながら僕を見た。

「アキラさん。すみません。ぼうっとしてて」

 そう言って彼女は僕の指から手を離した。僕は愛想笑いを一つ浮かべていた。彼女の世界には明るい者の言葉が届くのだろうか。もしかしたら海中のようにモヤが張っていて光が届きにくいのかもしれないな、と僕は思った。

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