セカイってなんか分からんくね?

日端記一

第1話

 一年。



 僕は命がある限り燃やし尽くすべきだと常々思って生きている。


 僕は今まで死という観念と密接に繋がっていた。大学一年の頃に自動車事故に遭い、昏睡状態で一年近く眠っていた。


 たまに意識がはっきりしてくるときがあった。その瞬間瞬間の感触を僕はスプーンで時間の小さな砂粒を拾うように感じ取ろうとした。僕は一日一日に生きることへの諦めを感じつつ生きた。意識の労力も無意味なまま僕の人生はいつか放棄されてしまうのだろうと思っていた。


 だが、呼吸がゆっくり自制されていくのを感じ、そのうち手の指の関節を震えさせるようになった。そうして瞼を開けられるようになり、喋れるようになり、手を握れるようになった。意思表示ができるようになったのだ。


 僕はそれから一年という月日を埋めていこうとしている。


 僕に希望を抱かせたのは両親や兄弟の献身的な言葉ではなく、携帯電話に溜まっていたメールの数々だった。


 いつか。彼らはいつかを待って僕に言葉を送ってきてくれていた。中には一つの惰性のように僕の携帯を一人呟く風に言葉を残す者もいた。それはそれで悪くなかった。人生をペットボトルの液体の中で閉じ込められながら生きていたようだった。


 そして今は少しでも今までの何も無い流れに逆行しようとしている。自分の見たいものを見、触りたいものを触り、食べたいものを食べようとしている。


 僕の病室の隣にはカタリという高校二年生の女の子が居た。彼女はただ沢山の不幸の真ん中にいるように目が虚ろだった。言葉も同世代と比べると恐ろしいくらい少なかった。その代わり守ってあげたくなるように磨かれでもしたかのような美貌を持っていた。僕はその蝶の羽根のように薄い儚さに恋をした。


 そのうち僕は彼女が定時制の学校に通い、この病院に戻るのを日課として組んでいると知った。彼女は僕が寝ている間いつも僕の横顔を見ていたようだった。僕を女性との部屋にする病院の体制を疑ったが、比較的不穏な様子にならない調子の彼女が医者は互いにいい刺激になると思ったらしい。


 彼女はいつも自分のことを深く悟られないようにしていたようだし、どんな話し相手のことも理解する気がなかった。


 彼女はたまに僕の手のひらを触れた。顔を指の先で圧されたりもしていた。彼女はそんなときに楽しかったと言った。そしてそれを言われ、僕はそうですかとはにかんで答えた。僕は徐々に目の前の彼女のことを眠っていた一年の中に存在したと思い出していった。 


 彼女は僕に好きな人が存在するかニコリとしながら訊いた。僕はその質問に少し失望した。彼女の問いの調子が異性としての配慮の気配が微塵も含まれていなかったからだ。


 僕は彼女の顔を見た。ツルリとした丸みを帯びた瓜実顔に、綺麗な毛の穴からツヤツヤとした髪を七三分けにして黒い一固まりとして揃って横に流していた。


 僕は彼女がよく私は〇〇という心の病気だから、と投げ遣りに言うのを聞いた。それは僕と彼女が結ばれることは永遠にないという決まりであるかのようだった。僕は大丈夫だよ、と何が大丈夫なのか、また、何が大丈夫ではないのかを分からないまま言うのだった。僕は何度もその言葉を言う彼女にいつも、(むしろ君なら何でも許すことが出来る)と答えたかった。


 僕は彼女に触れられたという記憶を探ってみると、頭の中で確かに感覚を思い出せそうだった。断片的な感覚で、断片的な吐息の音が残っていた。それと肌触りらしい温もりもあった。僕は病院の方針が何ヶ月かリハビリして退院する方向になると聞いた時、カタリの困り果てて戸惑う顔が頭に浮かんだ。メールアドレスやメッセージアプリのIDを交換したいと言ったら一声笑って彼女は快諾した。


 彼女は僕だけを独占するように会話していた。彼女は僕とだけよく話した。彼女が話す態度はまるで生物を研究するタイプの人間らしく見えた。多分それは観察するような接し方の経由をしたからそう感じられるのだろう。僕は病院の流動食で少しずつ胃を慣らしていきながら、歩行訓練で筋肉を付けながら、彼女との仲をゆっくり進めていきたかった。彼女はほとんど発作的に僕に質問したり、黙りこんで僕の質問にイエスもノーもしなかったりした。ほとんど会話が一方的なので僕はもやもやとしていた。


 そして彼女はある夜セックスがしたいと言った。僕に向かってだった。僕は彼女にこの行為に対し貞節や仲が深まったら考えるべき行為だとかを教えるべきだと分かっていたし、このままの関係でそのような行為に至るのは正しくないと思ったので看護婦さんを呼んで鎮静剤を打ってもらった。僕は彼女をかわいそうに思った。そして彼女を独占したいと思う自分に抗って欲望を制御しようとしていた。


 僕は入院の三ヶ月の間、窓の外を眺めたり、読書したり、彼女を学校の帰りから待ったりという日常に組み込まれていった。大学は休学届けが出ているそうだ。僕は両親に感謝するべきだと思った。感謝はするはした。だが両親の言動には失った年月を取り戻そうとするかのような性急さがあった。僕は最初は笑い事にしていたその一貫した言動に、いつだかから窮屈さを覚えるようになった。そしてそれを愚痴らしくカタリに伝えた。カタリは気分の変動が激しい日以外はほとんど黙っていることが多かった。同じ人とは思えないくらい感情の勢いに差があった。


 だから気になって僕もその病気を調べてみた。完璧に治す方法がないところが深く心に残った。そして彼女がその病に人生を左右されなければいけないということを自覚するには、少し涙しなければいけないほどに思えた。


 僕は夜、トイレに起きて病院の小さな電灯の静かな唸りを聞いて、この世の中に沢山の人々がいるという事実が虚構なのではないかと感じた。自分が生きてきた過去のあの世界も作り物のように感じられた。僕はそんな夜、空想にふけずにはいれなかった。スマホでピアノの音楽を聴いた。ピアノの音楽は綺麗に僕の空想や苛立ちを起こす事々を流しだしてくれるようだった。だが僕の中に溜められた堆積物は一年でたくさん溜まっており、それに手を付けたら片付けるのに大変な時間と労力が必要だった。


 そして僕は当時恋人になったばかりだったサトリについて考えた。サトリはカタカナで筆記するのが正しいらしい。サトリは簡単に言うと嘘みたいにサラサラした黒のロングヘアーの美しさのある女性で、感情を表に出すことを苦手とするタイプの、人間拒絶タイプの人だった。表情は平常時は常に堅く、どんな言葉やどんな感情でも揺り動かすことのできない完璧な城壁のようだった。


 僕はといえば多少粗があっても場の流れをよくすれば人は認めてくれると考えている浅はかな人間だった。サトリは僕と幼馴染だった。幼稚園の頃から大学まで離れたことがなかった。彼女は僕ともあまり話をしなかった。僕はいつも口数の多い人間だったが、彼女の前では静かに甘えてゆっくりとした時間を過ごせた。彼女は僕の痛みを知ってくれているようだった。僕が人間を嫌っていてそれでも必死に笑わそうとしていることを彼女は同情してくれていた。僕はサトリがまだ僕を恋人相手として待ってくれているかどうか分からないでいた。サトリはもしかしたら癖っ毛が可愛い鼻の小さな男の子に恋をするかもしれない。そんな感じがした。


 ある日サトリに連絡をして、彼女の動向についてほとんど乱暴に訊き出そうとした。最初のうちはまだ冷静を保てた。だが彼女は噂でカタリについての事を少なからず聞いていたそうだった。それでサトリもまた僕に不信を持っているのだと分かった。そして僕と彼女は乱雑で乱暴な言葉を使った。僕は少し余裕を持とうと水を飲んだ。カタリがそのとき居ないことも手伝って、簡単に僕は浮気なんかしていないよと言えた。


 サトリはそれで安心したようだった。


 その反応に僕も安心した。


 彼女は僕に対してはいつも言葉だけで手放しで信用した。まるで僕の言葉で自分の世界の均衡を保っているようだった。


 僕は大学生になってからサトリの小さな耳たぶを触るのが好きだった。彼女は膝枕し、僕は耳を掃除しつつ耳たぶを触った。


 僕らは性的な交流を好まなかった。代わりにこういう変わった触れ合いの仕方を試みていた。よくベタベタと互いの体を触っていた。それは多くが感触を楽しむためだった。彼女は僕の閉じた上瞼を人差し指の僅かな丸みの部分で撫でた。それから鼻筋を通って頬に伝っていった。そして指は唇に入り歯に当たった。涎を白く薄いハンカチで拭いてまた上瞼に戻った。


 僕はその繰り返しが行われる度に自分が行う悪いことへの強い懲罰的な衝動が収まるように感じられた。僕は自分を悪い人間と考えることが多かった。多くの人の信頼に対して仮面をかぶって話をすることにそういう考えが去来した。


 いつからかサトリは僕の見舞いをする事が増えた。サトリが見舞いする時間帯にカタリは学校に行くことになっている。


 サトリは僕に大学のノートを持ってきて内容を説明してくれた。元々とても頭が良いサトリは中学高校と人に勉強を教えることが多かったため、教え方がうまかった。僕も頭はそこそこ良い方だから呑み込みが早く、少しずつではあるが、大学の勉強の方も取り戻そうという気にもなっていった。


 僕はサトリのために人生を取り戻そうと奮起していた。そしてたまに彼女の耳掃除をさせてもらった。彼女の耳たぶはいつもつやつやに光っていた。だから僕もますます触りたくなった。綿棒で僕は彼女の耳の穴を掃除した。最初は耳の穴の輪郭から沿っていき、あとは汚れをほじくり出そうとした。僕はその彼女の耳の穴の感触を忘れてはいなかった。しっかりとこういう構造をしているということを覚えていた。僕は彼女の耳に唇をそのまま当てるように静かで上品なキスをした。まるで彼女の耳には潤ったバナナか何かが触れたようだったろう。彼女はビクリと体を震わせて一声二声笑って僕を見た。彼女の目はからかいをどう返してやろうかと策略を練る顔つきに変わった。とても楽しそうに見えた。僕はサトリとカタリが頭の中で混じり合っていく気がしていた。そしてそれに危機感があった。カタリとサトリを恋着する相手として同一視してしまいそうな気がした。弱く、儚く、美しく、どうしようもなく変われない人間。それが僕の恋する人間だ。そして僕自身もそういう類にあるのだ。弱くて変わりようがない。

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