2‐41神様の薬物と救済された姑娘たち
酷い臭いがする。
強烈な香煙に腐臭が絡まるようにまざって、鼻腔を焼く。噎せかえりながら、
想わず喉を押さえようとしたが、腕が動かせなかった。暗くて状況が把握できないが、音を聴くかぎりだと鎖のついた
音が反響することから、地下室だろうとあたりをつけた。
ここまでは予想どおりだ。
殴られて気絶させられるとまでは思わなかったが、
かならず捕えて薬漬けにするはずだと予測していた。
だから危険は承知で、慧玲が
宮廷官巫を直訴することで
今頃は内部捜査が始まっているだろう。
神経をとぎすませば、微かに喘鳴のまざった荒い呼吸が聴こえた。動物か。いやこれは人の息遣いだ。
暗がりに眼をこらしかけたとき、背後で
緊張して振りかえる。
「ほら、みて」
「っ」
うす暗がりのなかには想像を絶する大勢の
だが剥きだしの足は
「幸せそうでしょう」
静が愛しげな声で囁きかけてきた。
「あの
背筋が凍りついた。続けて、腹の底から腐るような嫌悪感が湧いた。慧玲は倚子から身を乗りだして、声を荒らげる。
「なにが幸せそう、ですか。なにが神様ですか。彼女たちは身も心も毒されて、壊れきってしまっただけよ!」
中毒患者は二割が幼く、八割は
「よくもそれを救いだなんて」
「だって、彼女たちはこれまで地獄にいたのよ」
「戦火に故郷を焼かれて、敵軍に家族を虐殺された。毒疫に親を奪われた。飢饉に見舞われて捨てられた。納税できず
青白い素肌が燈火を映して暗がりに浮かびあがる。痩せた
「三年前に
先帝の頃だ。酷税に喘いだ農民たちが反乱を起こして賊に転じた。彼等がそろって青い
「私はその時の賊に家族を殺された。父親も母親も兄弟も惨殺されたけど、私だけは残されて、賊のかしらに可愛がられていたそうよ」
「そう、というのは」
「言ったでしょう? おぼえていないのよ。でも、けっきょくは飽きられて奴婢として売られたところを、お母様に助けられたの」
静は眉根を寄せることもなければ、唇の端を綻ばせることもなかった。
他人の不幸を語るようにみずからの経緯を言葉にする。
「毎晩酷い夢をみては悲鳴をあげて起き、
静は微笑もうとしたのだろう。動かない表情筋を無理につりあげるように人差し指で唇の端を持ちあげた。壊れている。
「だから、つらくもないし、かなしくもないし、くるしくもないの。ただ、神様の声が聴こえるだけ。ね、幸せでしょう? とってもとっても幸せでしょう?」
かわりに
息ができないほどの喧騒だ。
そのなかで、静は変わらず平坦な声で続けた。
「お母様が救ってくださったの。だから、私もお母様みたいにやるの」
宮廷官巫がなぜ、患者に麻薬を渡してまわっていたのか、慧玲はずっと理解できなかった。食医を失脚させたいわけでも、患者に怨みがあるわけでもない。薬物に依存させて、財を巻きあげるわけでもない。
患者を死にいたらしめても、得るものがないのだ。
重ねて、この薬物はきわめて希少なものだ。ほんとうならば、官巫だけでつかいたいはずだ。
それなのに、なぜ。
慧玲は考え続けていたが、たったいま、理解できた。
これは慈悲による施しなのだ。
「後宮が
静には罪の意識がない。この薬物が毒だという認識もなかった。単純に不幸なひとを助けてあげようとおもっているだけだ。無垢なる善意の毒。慈善に損得の勘定があろうはずもない。
「お母様、ですか」
静は先の
だが、違うのだ。
「あなたのお母様は
慧玲は冷静な声で訴えかける。
「彼女は身寄りのない幼子を救った振りをして、私利私欲を満たすために都合よく操っていた。薬をやらせて、嘘の神託をさせて――
誣告とは事実を偽って他人に罪を被せ、訴えることで、ここでは
「
「なにが言いたいの」
「あなたが聴いていたのはほんとうに神様の声でしたか? お母様にこう語れと掏りこまれたことはありませんでしたか?」
続けざまに質問を投げかければ、静の視線がぐらりと揺らいだ。
「ち、違う……私は、神様の声を。だってお母様は神様で、神様は」
舌がもつれてきた。催眠が解けかけているような混乱ぶりだ。彼女たちは毒によって思考を奪われてきた。毒をつかった一種の呪縛だ。
「これは神様の薬などではありません。毒です」
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