2‐41神様の薬物と救済された姑娘たち

 酷い臭いがする。

 強烈な香煙に腐臭が絡まるようにまざって、鼻腔を焼く。噎せかえりながら、慧玲フェイリンは眼をさました。


 想わず喉を押さえようとしたが、腕が動かせなかった。暗くて状況が把握できないが、音を聴くかぎりだと鎖のついた手枷てかせ倚子いすに拘束されているようだった。

 音が反響することから、地下室だろうとあたりをつけた。


 ここまでは予想どおりだ。


 殴られて気絶させられるとまでは思わなかったが、宮廷官巫きゅうていかんふは慧玲の命を奪うことはしないだろうと推測していた。いま、慧玲が死んだら、宮廷官巫に殺害容疑がかかる。罪を認めたようなものだ。

 かならず捕えて薬漬けにするはずだと予測していた。

 慧玲フェイリンには毒が効かない。麦角バッカク菌の毒をつかった薬物もまたしかりだ。

 だから危険は承知で、慧玲がおとり役となったのだ。

 宮廷官巫を直訴することでジンや女官の注意を惹きつけ、裏からヂェンリウが季宮に侵入するという手筈になっている。薬を押収、もしくは薬を醸造している施設や証拠がみつかれば、宮廷官巫を摘発できるだろう。可能ならば、失踪した女官の捜索、救助もする。


 今頃は内部捜査が始まっているだろう。

 慧玲フェイリンの役割は果たせたのだ。


 神経をとぎすませば、微かに喘鳴のまざった荒い呼吸が聴こえた。動物か。いやこれは人の息遣いだ。

 暗がりに眼をこらしかけたとき、背後で燈火あかりがついた。

 緊張して振りかえる。ジンだ。彼女は空疎くうそな眼をして、提燈ちょうちんをさげていた。いつから後ろにいたのか。


「ほら、みて」


 燈火とうかをかかげたジンにうながされ、視線をもどす。


「っ」


 うす暗がりのなかには想像を絶する大勢の姑娘むすめたちがわだかまっていた。壁にもたれて項垂れているものがいる。敷きつめられた藁に横たわるものがいる。脚を投げだしてすわるものがいる。いずれも恍惚と微笑んでいた。

 だが剥きだしの足は壊死えしして、骨が覗いたりちぎれかけたりしている。涎を垂らして失禁しているものもいた。彼女らが垂れながす腐臭が一帯に充満しているのだ。それなのに、笑っている。笑っている。笑っている。


「幸せそうでしょう」


 静が愛しげな声で囁きかけてきた。


「あの姑娘たちは神様のみもとにいったの」


 背筋が凍りついた。続けて、腹の底から腐るような嫌悪感が湧いた。慧玲は倚子から身を乗りだして、声を荒らげる。


「なにが幸せそう、ですか。なにが神様ですか。彼女たちは身も心も毒されて、壊れきってしまっただけよ!」


 中毒患者は二割が幼く、八割は笄年けいねんを過ぎていた。秋の季宮ときみやにいるのが笄年を迎えていない女官ばかりなのは時が経つほどに中毒が進んで、廃人になるからだろうか。


「よくもそれを救いだなんて」


「だって、彼女たちはこれまで地獄にいたのよ」


 慧玲フェイリンの言葉を理解できないとばかりに静が瞬きをする。


「戦火に故郷を焼かれて、敵軍に家族を虐殺された。毒疫に親を奪われた。飢饉に見舞われて捨てられた。納税できず奴婢ぬひとして売られた――想いだすたびに錯乱して泣き崩れて――でもね、もうなにもおぼえていないの、それは幸せなことよ。……私もそう」


 ジンは喋りながら、裙のすそを捲りあげた。

 青白い素肌が燈火を映して暗がりに浮かびあがる。痩せたももには醜くただれた火傷の痕があった。焼きごてによる奴婢ぬひ烙印らくいんだ。


「三年前に青巾せいきんの乱があったでしょう」


 先帝の頃だ。酷税に喘いだ農民たちが反乱を起こして賊に転じた。彼等がそろって青い頭巾ずきんを身につけたことから、青巾せいきんの乱という。


「私はその時の賊に家族を殺された。父親も母親も兄弟も惨殺されたけど、私だけは残されて、賊のかしらに可愛がられていたそうよ」


「そう、というのは」


「言ったでしょう? おぼえていないのよ。でも、けっきょくは飽きられて奴婢として売られたところを、お母様に助けられたの」


 静は眉根を寄せることもなければ、唇の端を綻ばせることもなかった。

 他人の不幸を語るようにみずからの経緯を言葉にする。


「毎晩酷い夢をみては悲鳴をあげて起き、嘔吐いて、壁を掻きむしる私にお母様は神様の薬をくださったの。そうしたらね、ぜんぶ、わすれちゃった」


 静は微笑もうとしたのだろう。動かない表情筋を無理につりあげるように人差し指で唇の端を持ちあげた。壊れている。


「だから、つらくもないし、かなしくもないし、くるしくもないの。ただ、神様の声が聴こえるだけ。ね、幸せでしょう? とってもとっても幸せでしょう?」


 かわりに麦角バッカク中毒の姑娘むすめたちが笑いだした。壊死した身をひきつらせ、浪うつように跳ねさせて呵々と大声をだす。地下室いっぱいに喧しい声が反響して、壁にあたってははねかえり、飽和する。


 息ができないほどの喧騒だ。


 そのなかで、静は変わらず平坦な声で続けた。


「お母様が救ってくださったの。だから、私もお母様みたいにやるの」


 宮廷官巫がなぜ、患者に麻薬を渡してまわっていたのか、慧玲はずっと理解できなかった。食医を失脚させたいわけでも、患者に怨みがあるわけでもない。薬物に依存させて、財を巻きあげるわけでもない。

 患者を死にいたらしめても、得るものがないのだ。

 重ねて、この薬物はきわめて希少なものだ。ほんとうならば、官巫だけでつかいたいはずだ。


 それなのに、なぜ。

 慧玲は考え続けていたが、たったいま、理解できた。

 これは慈悲による施しなのだ。


「後宮が毒疫どくえきに見舞われて、悲しむ声があふれかえったときに声がしたの。天地神明てんちしんめいの声よ。お母様みたいに神の薬をあげたらいいんだって。そうしたら、みんな幸せになった」


 静には罪の意識がない。この薬物が毒だという認識もなかった。単純に不幸なひとを助けてあげようとおもっているだけだ。無垢なる善意の毒。慈善に損得の勘定があろうはずもない。


「お母様、ですか」


 静は先の秋妃しゅうひに地獄から救いだされたと想いこんでいる。

 だが、違うのだ。


「あなたのお母様はろくでもない女でしたよ」


 慧玲は冷静な声で訴えかける。


「彼女は身寄りのない幼子を救った振りをして、私利私欲を満たすために都合よく操っていた。薬をやらせて、嘘の神託をさせて――誣告ぶこくしていた」


 誣告とは事実を偽って他人に罪を被せ、訴えることで、ここでは官巫かんふが神託を偽ることを指す。


神明裁判しんめいさいばんで罪もないものたちが続々と死刑に処されました。よほどの報酬をもらっていたのでしょうね。あんな祭壇を建てられるくらいですから」


「なにが言いたいの」


「あなたが聴いていたのはほんとうに神様の声でしたか? お母様にこう語れと掏りこまれたことはありませんでしたか?」


 続けざまに質問を投げかければ、静の視線がぐらりと揺らいだ。


「ち、違う……私は、神様の声を。だってお母様は神様で、神様は」


 舌がもつれてきた。催眠が解けかけているような混乱ぶりだ。彼女たちは毒によって思考を奪われてきた。毒をつかった一種の呪縛だ。


「これは神様の薬などではありません。毒です」

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