2‐39藍星の怨嗟と絶望

「父様が死んだのは宮廷官巫きゅうていかんふのせい、だったんですか」

藍星ランシン……」


 藍星は復讐のために後宮にきた。

 父親を死刑に処した先帝の姑娘である慧玲フェイリンを恨んでいた。だが、慧玲が身をなげうち患者を解毒する姿をみて、彼女は復讐を諦めたのだ。

 だが、慧玲は知っている。

 怨嗟という毒はそうたやすく、身から抜けるものではないと。


「そっか、そうだったんだ」


 青ざめた藍星の瞳のなかで火が、燃えた。毒をはらんだ劫火だ。藍星は踵をかえして駈けだす。


「藍星っ」


 慧玲は声をあげ、慌てて彼女を追いかけた。

 怨嗟の毒はひとの魂を喰らう。怨嗟に毒されて身を滅ぼしたものたちを、慧玲はこれまでいやというほどに見続けてきた。

 ひとりにするわけにはいかなかった。


「待ってくださいっ、藍星ランシン!」


 日が陰りだす。黄昏かとおもったが、雨垂れが笹を弾いた。雨だ。凍えるような雫が髪や額をたたく。

 慧玲は雨に濡れながら藍星を追いかけて、竹林を踏みわける。

 紅葉を控えた竹はところどころが黄に錆びていた。日が差せば黄金だが、陰ればくら黄土おうど色で、ここにだけは春がこなかったような虚しさが漂っている。

 歩き慣れている慧玲が藍星に追いついて、濡れそぼった肩をつかむ。息を乱して振りむいた藍星は泣いていた。


「こんなの、変じゃないですか」


 身を震わせて彼女は訴える。


「悪いことをしたひとが裁かれなくて。なんで、忠誠をつくしていた父様があんなふうに死なないといけなかったんですか。まちがっています、こんなの」


 痛切な訴えが、慧玲の胸に深々と突き刺さった。


 現実は不条理に満ちている。藍星の父親が処刑されたのも、助かるはずだった患者たちが毒死したのも、事実を告発できないのも不条理きわまりない。


 だが、現実の毒にさらされ続けた慧玲はまっこうから嘆き、不条理を糾弾することがいつのまにかできなくなってしまった。特にわが身に振りかかった不条理には。

 毒を喰らい、毒を飲む。唇がただれても、喉が焼けても。

 そうでなければ、進んではこれなかった。


「そうですね、そのとおりです」


「終わったことじゃないんですよ。いまだに続いています。母様の心は壊れて、遠くにいってしまった。どれだけ時が経っても、還ってはこないんです」


「ええ、知っています」


 怨嗟も、絶望も、悲嘆も終わりのない呪縛だ。慧玲だって、いまだに縛られている。


「十二歳になる妹が今、弟たちを育てているんです。十歳の弟が受験勉強をしていて。文官になって家族を裕福にするんだって。無実の父様を処刑した宮廷の官吏になるために勉強して、勉強して。想像するだけでもやるせなくなります」


「……そうでしたか」


「許せません、父様を有罪にした官巫かんふを捜しだして、殺せたらどれほど。誰も裁いてくれないんだったら。なんて、いまだって、そんなことばかり考えてしまって」


 両手で顔を覆い、藍星は項垂れた。肩がわななく。


「……だめだ、って叱ってください。怨みは毒だから、いつまでも持ち続けていたらだめですよ、はやく捨てなさいって、叱りつけてくださいよ……!」


 悲鳴じみた声が雨の幕を劈く。

 唇をかみ締めてから、慧玲は藍星の凍てついた肩を抱き寄せた。強張って、微かに震えている背に腕をまわして、なぐさめるようになでる。


「叱れません……叱れるはずが、ない。理解わかるから、あなたのきもちが」


 藍星の眼が揺れる。


「怨んだこと、あるんですか。だって、慧玲様は誰かを怨んだり、なさらないと」


 怨み続けてきた。ディアオ皇帝を、索盟スォモン先帝を――だが、もっとも怨嗟して呪い続けてきたのは慧玲自身だ。先帝が壊れた時、薬になれなかったことを悔やみ、母親の呪詛とともに怨み続けてきた。


「怨んでいます」


 だが、そんな怨嗟の毒が、彼女を薬としている。

 毒は薬となる。裏がえせば、毒がなければ、薬にもならない。


「怨んでいた、じゃないんですね?」


「怨み続けます、息絶えるその時まで」


 これからさきもこの毒を抱え続けていくのだ。


 その声の強さからすべてを理解したのか、藍星が息をつく。


「そ、か――だったら」


 もうひとつだけ、なみだをこぼして。

 藍星は強い眼差しをした。


「慧玲様が我慢しておられるのに、私が我慢しないわけには、いきませんよね」


 涙でぐちゃぐちゃになった顔で藍星は懸命に頬を持ちあげた。

 藍星は強い。


(ともすれば、私よりずっと)


 不条理に殴られたら殴りかえして、間違っていることは間違っていると訴えてくれる彼女が、いる。それがどれほど心強いことか。

 割れた雲からひと筋だけ、黄昏が差してきた。まもなく、あがるだろうか。


「ですが、宮廷官巫が毒を盛ったのならば、看過できません」


「でも、調査は……できないんですよね?」


 官吏かんり宦官かんがんでは宮廷官巫の禁域に踏みこめないのならば、選択肢はひとつだ。


「私が秋の季宮ときみやに赴いて調査します」


 藍星が眼をまるくした。


「危険です。だったら、私も一緒に連れていってください」


「いえ」


 慧玲は静かな眼差しで藍星を見据える。


「あなたは残って、調薬をひきついでください」


「え、えええっ、む、無理ですよ」


 後ろにのけぞって、藍星はぶんぶんと頭を振る。


「あなたが日頃から真剣に勉強を続けていることを、私は知っています。脈診もすっかりとまかせられるようになりました」


 この頃は調理補助の域を越え、調薬の段階でも藍星に委任できるようになってきた。残念ながら女官には科挙試験かきょしけんの受験はできないが、おそらくは医官に就職できる程度の技量は備わっているはずだ。


「あなたならば、できます」


 信頼して、託せられるとすれば、藍星だけだ。

 藍星は戸惑っていたが、その言葉を聴いて決意したのか、きゅうっと唇をひき結んだ。皇帝のみことのりを賜ったとばかりに畏んで、藍星が袖を掲げる。


ミン藍星ランシン、確かに拝命いたしました」

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