42 腹が減ってはなんとやら

「どんぐりを拾ってきてください」


 農夫と別れ、紅葉した森に踏み入った慧玲フェイリンはまず、藍星ランシンに頼んだ。藍星はどんぐりなんかで何をするのだろうと言いたげに瞳をしばたかせながらも、了解しましたといった。


「よかった、蜂の子とかじゃなくて」


 どんぐりのなかには蜂の子そっくりな幼虫が棲みついていることがあるのだが、それは言わないほうがよさそうだ。


「できれば、背篭いっぱいに」

「多っ! が、頑張ります」


 畑は荒れていたが、森には豊かな実りがあふれていた。森のあちらこちらではきのこが頭を覗かせ、木通あけびがたわわに実っている。ちょっと耳をそばだてるだけでも雉や山鳩の声がし、枯れ葉の絨毯にどんぐりの落ちる音まで聴こえてくる。

 飢饉とはいっても、慧玲が旅さきで経験したような規模のものではなかった。


(よかった)


 ここは地獄ではない。


「あ、後は栗も拾っておいてください。あまり遠くにいかないように」


 腰をまげながら遠ざかっていく藍星ランシンに声を掛け、自身は頭上に視線を凝らす。さながら鷹の眼だ。


(あった)


 背伸びをしたくらいではとてもじゃないが、届かない高さだった。

 慧玲は裾をぎゅっと結び、続けて縄を取りだす。その縄を自身の足頚あしくびに掛けて結わえ、勢いよく落葉松の幹に跳びついた。これは大陸の土着民族などがもちいる木登りの技だ。とてもじゃないが、妃妾とは想えない格好で幹をあがった彼女は、枝に乗っていた鳩の巣から卵を拝借した。


 いくつか卵を集めたら、今度は茸を採り、ついでに木の洞を覗いてまわる。

 そのとき、蜂がぶんと慧玲の頭上を通り抜けた。慧玲は瞳を輝かせて、蜂を後を追いかけていく。想像していたよりもかんたんに食材が集まりそうだと胸を弾ませて。





 日が傾きだす。

 大量のどんぐりやら栗やらを背篭に積みこんで、藍星ランシンがもとの場所に戻ってきた。


慧玲フェイリン様! これくらいあれば、だいじょうぶそうですか」


 あれ、慧玲がいないと藍星が首を傾げたところで背後から悲鳴じみた声が聴こえてきた。


藍星ランシン! 逃げなさい!」


 慧玲が息せき切って坂道を駈けおりてきた。暗雲めいた黒い塊が耳障りな呻りをあげながら追い掛けてきている。蜂の大群だ。


「わっ、やだっ、なんなんですか、あれ!」


 慌てて走りだしつつ藍星が叫ぶ。


「蜂蜜を蜂の巣ごと貰っただけなのに」

「だからじゃないですか! なんかごついを担いでいるとおもったら、蜂の巣だったんですね、それ!」


「大収穫です」


 慧玲が素晴らしい笑顔で親指をぐっと突きだす。藍星はあきれていいのか、怒っていいのかと頭を抱えてから「もういやああ」と絶叫した。




 なんとか蜂をまいたときには黄昏のせまる時刻になっていた。

 後宮のように時鐘がないので、いまひとつ時間の感覚がずれるのだが、申の刻※午後四時を過ぎたくらいだろうか。

 庖房くりやは借りられそうにもなかったので、ひとまずは村のはずれで、落ち葉と薪を集めて焚火で調理をすることになった。後宮から調理器具を持ってきておいて、よかった。


「さあ、調理を始めましょうか」


 まずはどんぐりを鍋に取りだして、水に浸ける。虫食いの実は浮いてくるので取りのぞき、今度は茹でてから再度水に浸けた。中華鍋を振りながら乾煎りすると、殻が弾けて割れはじめる。

 実を取りだし、薬碾やげんで挽いて粉にした。


「うぅ、腕がしんどいです」

「後十回は繰りかえしますよ」


「ひえ」


 そうしてできたこげ茶の粉を水で練ってかたちにし、あらかじめ煮ておいたきのこを生地でつつんで、蒸し焼きにした。


「どんぐりの粉、まだ挽くんですか」


「こちらは味を変えますからね」


 鳩の卵白を茶筅ちゃせんで泡だてながら、慧玲が微笑んだ。

 まもなく焼きあがる。


「皆様に御声をかけてきてください。夕餉に致しましょう」



      ◇

 


 食欲というものは抗いがたいものである。

 余所者よそものなんぞと意地を張っていようと、疑っていようと、腹が減っているときに美味しそうなものを渡されたら……その誘惑に勝てない。


焼き餅おやきです。温かいうちにどうぞ」


 慧玲は葉につつんで、農民たちに餅を渡す。誰もが困惑するように黙っているが、彼らの顔には――なんて旨そうなのだろうかと書かれている。誰からともなく、ごくりと唾をのんだ。それがよけいに彼らの欲望を掻きたてる。


「っ……」


 農夫がまっさきに、ほかほかと湯気をあげる弾力のある生地にかじりついた。熱々の具がじゅわりと溢れだす。茸に零余子、刻んだ野良人参。素朴だが、旨みのある具ばかりだ。


「う……旨い……」


 農夫が声をあげた。


「……都から食材を運んできたのか」

「いえ、こちらのビンはすべてこの土地にある物で調理いたしました」


 慧玲がそういうと、老いた農夫は眉を寄せる。


「うそつけ。そんなはずはねぇ、ここには麦のひと握りも」


 森に転がっているどんぐりを拾いあげ、慧玲は農夫にいった。


「どんぐりです。挽いて、練りました」


「どんぐりなんか、しぶくて喰えねえはずだ。それに確か、どんぐりには毒があって、喰うと口が利けなくなるとか」


「毒はありません。あくがあるだけです。そのままだとしばらく喋れなくなるくらいに苦いですが、あく抜きをすればこんなふうにおいしく食べられます」


 加えてどんぐりには優れた栄養価があり、さらに毒を排出させる効能がある。遠い異境ではどんぐりだけを食べさせて育てたぶたが高値で取引されるのだとか。それだけ栄養価が高いということだ。


 慧玲は続けて、もうひとつ焼きあがりましたよと差しだす。


「う……」


 今度は蒸し饅頭のようにふかふかだ。

(白身をしっかりと泡だてたからね)

 まあ、これだけのどんぐりを挽いた藍星に比べたら、楽なものだ。


「ぐむむむむ」


 余所者の勢いに乗せられまいと視線を逸らそうとしても、甘い香りが漂ってきて吸いこまれるように農夫はかぶりついた。たっぷり垂らされた蜂蜜が絡みつき、後から一緒に練りこまれた栗が弾けて舌まで蕩ける。ただでも甘いものに慣れていない農民たちだ。天にも昇るような味に違いない。


「……くそう、うめえなぁ」


 洟を啜りながら農夫はだんご鼻をこすった。その言葉に、老人からまだ嬰孩あかんぼうを負ぶった女までもが続々と頷きだす。


「こんな旨いもん、どれくらい振りじゃろうなあ」

「ほんとにね……腹が膨れんのも久し振りねえ」


 食は平等だ。さきほども農夫がいっていたが、飢えれば、皇帝でも奴婢どれいでも命を落とす。


(腹が減っては戦はできぬというけれど)


 何を話すにしても、まずは腹が満たされてからだ。空腹では心まで貧しくなる。みなが食べ終わってから、慧玲があらためて頭をさげた。


「どうか患者を診せてはいただけませんか」


 農夫は盛大にため息をついてから破顔して、わかったと頷いた。


「……あんたにゃ負けたよ、小姑娘おじょうちゃん、いや――食医の小姐じょうちゃんだったか。まずは俺のせがれを診てやってくれ。だがあれは、ただの病じゃない」

「承知いたしております」

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