38 女官きたる
時々鹿の群が草を踏んでいくだけで一帯は静まりかえっていた。だがその日は、離舎に訪問者があった。
「
調薬していた慧玲は背後から声を掛けられ、振りかえった。
溌溂とした女官だ。齢は十八歳くらいか。髪は編みあげてふたつにまとめ、動きやすそうな
はて、誰つきの女官だろうか。急患かとも思ったが、女官は慌てている様子もなかった。女官はにこやかに揖礼する。
「この度、慧玲様つきとなります
「ああ……そういえば」
ひと月程経っていたので忘れかけていたのだが、皇后からは今後女官がつくと教えられていた。慧玲は戸惑いながらも頭をさげかえす。
「ごめんなさい。今丁度、手が離せなくて……」
「わわっ、お薬を調えておられるんですね! すごい! なにか、私にできることは……きゃあああっ!」
藍星と名乗った女官は
「…………ええっ、嘘」
慧玲は慌てて藍星を助けおこす。額にたんこぶができている。大事ないことを確かめてから、薬碾で擦りつぶしていたものに視線を落とす。
「これってそんな悲鳴をあげるほどのもの?」
蛇や
◇
暫く経って、
「う……うぅん、なんだか悪夢をみたような……」
「ご体調はだいじょうぶですか」
「
藍星はくんくんと鼻を動かす。額はたんこぶになっているが、もう食べ物に意識がむいているくらいならば、それほど心配はいらないだろう。
「宜しければ、こちらをどうぞ」
慧玲は盆に載せた
「いいんですか!」
こんがりと焼かれた煎餅にかじりついた。まだ炭火の熱が残っている。耳に心地いい音が弾け、藍星はんんっと歓声をあげた。
「素朴だけど、おいしい……この香ばしいたれはなんですか」
「東の島でつかわれる良質な醤油です。大陸の醤油は
緊張を解すように微笑みかけた。
「……よかった。慧玲様が優しい御方で……その、かなり緊張していたのです」
藍星は心底安堵したように息をついた。
慧玲はただの妃妾ではない。いわくつきの後宮食医で、
(でもこの
慧玲は煎餅を頬張っていた
「きてくださって、ありがとうございます」
藍星は戸惑い、わずかに指をはねさせたが、すぐに握りかえしてくれた。
「……御役に立てるように頑張ります」
混沌の姑娘だからと疎まず、にこやかに挨拶してくれただけでも、藍星は充分に頑張ってくれている。
「それでは食べ終わったら、煎餅やきの補助をお願いできますか。刷毛でたれを塗ってくだされば助かります」
「それくらいでしたら、私にもできますよ! 任せてください!」
藍星は胸を張る。
網に乗せた煎餅は、
出会い頭こそ散々だったが、調理補助の手際は悪くなかった。
焼きあがったそれを日が暮れるまでに秋の妃妾に配達する。
「こちらが痒みの薬です」
妃妾は意外そうだったが、食べて、まずは味を気にいってくれた。なによりだ。薬は旨いと感じられてはじめてに効能がある。
「これでしたら、続けられます。
「取り敢えず、三日続けていただいて、まだ痒みが収まらないようでしたら御申しつけください。秋季の宴には確実に回復されますからご安心を」
頭をさげ、
「喜んでおられましたね。さすがは後宮食医様です。私だってもっと食べたいくらいでしたもん! ああ、つまみ食いしとけばよかったなあ……」
荷物をもってついてきた藍星がもったいなかったと唇をとがらせた。
「あのくらいでしたら、いつでも焼けますよ。帰りに集めていきますか?」
ちょうど林があると、慧玲は庭に敷かれた遊歩道を外れて踏みこんでいった。藍星は彼女の後をついていきながら、ぱちくりと瞬きをする。
「集めるって……何をですか?
わくわくしながらついてきた
「蟬の抜け殻ですよ」
幹には親指くらいの抜け殻がしがみついている。
「いッやあああっ」
落ち葉を
「なんで、蟬の抜け殻なんか」
「蟬の抜け殻は
「ま、まさか……ち、違いますよね?」
藍星が青ざめながら頭を振る。慧玲はなんとか受けいれてもらおうと、頑張ってよさそうな言葉を重ねる。
「ほら、海老の殻みたいなものですよ。海にいたら海老。森にいたら蟬です」
「海老は海老! 蟬は蟬! 別物ですよおおお」
虫嫌いの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます