第三部《金の毒》は眠る

37 秋風吹いて血が香る

 北風が吹き渡り、繁る青葉あおばはいそいそと錦のよそおいに移ろいだす。緑と紅の織りなす綾が後宮を華やかに飾りつけていた。


 秋の宮は金箔張りの豪奢な御殿みどのだ。

 紅葉を映して、いっそう雅やかに照り映えている。どれだけの財を投じて造りあげたのか。慧玲フェイリンには想像もつかなかった。


 慧玲は診察のため、妃妾きしょう房室へやを訪れていた。


「ご安心ください。こちらは地毒ちどくによる毒疫どくえきではございません」

「でも、全身の痒みがひどく、瞼だってこんなに腫れあがってしまって……地毒ではないのならば、いったい何だというのですか」

「かゆみのもとは、よもぎです」

「蓬ですって?」


 蓬は何処にでもある草だ。言うまでもなく後宮の庭にも繁っている。


「はじめは猪草ぶたくさかとおもったのですが、三日前から痒みが始まったとお聞きして……違うとわかりました。その日の昼に青団よもぎだんごを召しあがられたそうですね」


「ええ。この頃、体調がすぐれなかったから健康にいい食べ物を、と思い、女官に作らせました。ですがよもぎに毒はないはずです」


「薬になるものであっても、体質にあわなければ、容易に毒へと転じます。特に秋は、蓬の花盛りです。蓬は風媒花ふうばいかなので、花粉を飛散させますが、この花粉が喉や鼻、眼の炎症をもたらします。それほど遠くまで散りませんので、女官か宦官に頼んで窓の側にある蓬をすべて抜き、艾葉茶よもぎちゃを含めて蓬を御口になさらないようにしてください」


「蓬にそのような毒があるなんて思いませんでした」


 人によっては小麦や蕎麦でも中毒を起こすし、杉が咲き群れる頃にきまって風邪のような症状を起こす患者もいた。

 万物は薬にして毒だ。


「ですので、ひとまずは医官に痒みどめの薬を処方してもらってください」


 妃妾たちが渾沌こんとん姑娘むすめに頼るのは、毒疫の薬を調えられるのが彼女だけだからだ。毒疫ではないとわかれば、慧玲は不要である。

 だが妃妾は退室しようとする慧玲をひきとめた。


「貴方が薬を処方しなさい」

「……宜しいのですか?」

「医官の薬ではいっこうに痒みが収まらないんですもの」

「承知いたしました」


 慧玲は頭をさげ、肯った。


 この頃は時々だが、毒疫ではない患者からも薬を依頼されることがある。


 火の毒の事件――夏妃かきフォンの女官であった依依イーイーの処刑で火毒かどくの雨が降ったことは記憶に新しい。処刑を見物にきていた妃妾たちは酷い火傷を負い、慧玲は彼女たちに薬を調えた。その後、僅かではあるが、妃妾からの後宮食医にたいする偏見がやわらいでいるように感じる。


 秋の宮から離舎に帰ろうと廻廊の橋を渡っていたとき、慧玲は遠くに飾りたてられた牛車を見掛けた。


 ――皇帝だ。

 後宮にいても皇帝と逢うことなどはめったにない。


(真昼から御渡りか。ずいぶんとお盛ん……というわけでもないのだろう)


 秋に差し掛かっても、妃嬪が新たに懐妊したという報せはなかった。

 医学の見地からいえば、男でも老いとともに生殖能力は低下し続ける。皇帝は不惑※四十歳を迎えて久しい。皇帝が焦燥感に駈られるのも致しかたのないことだった。


(皇帝の失踪した嫡子は今、何処にいるのだろう。いや、とうに殺されているか)


 後から調べたところ、現皇帝の嫡子は五年前に当時の正室とともに失踪したそうだ。失踪とはいっても、暗殺されたが亡骸は確認できなかっただけ、という可能性もある。事件があった頃はまだ現皇帝は庶兄しょけいにすぎなかったが、先帝には男孩だんじがいなかったので、現皇帝の嫡子が後に皇帝となる可能性は無きにしも非ずだった。暗殺される危険は充分にあったはずだ。


 後宮だけではない。宮廷や皇帝にまつわるすべてが、どれほど豪奢に飾りつけても、せかえるような血臭をまき散らしている。


雪梅シュエメイ嬪の御子には何事もないことを祈るばかりね)


 御子が誕生し、それが男孩だんじであれば、雪梅嬪に権力等が集中する。そうなれば、暗殺を謀るものも現れかねない。続々と妃嬪も懐妊し、ある程度皇帝の寵愛が分散するほうが危険は減るはずだ。


 思案する慧玲の頬をかすめるように楓の葉が落ちていった。一瞬だけ、血臭を錯覚して、胸がぎゅっと締めつけられる。


(あれからもう春秋しゅんしゅうめぐったのか)


 昨年の秋のことだ。先帝が処刑され、母親は毒をのんで死を択んだ。

 彼女だけが、今もまだ、生き延びている。


 牛車が停まる。皇帝が降りてきた。

 一年振りにみた皇帝は痩せていた。霜の降りはじめた髪を隠すように冠をつけ、絹の冕服べんぷくを纏った背を僅かにまるめている。北風に吹かれているみたいに。


(伯父様……)


 彼が皇帝ではなかった頃、何度か逢ったことがあった。

 物静かな男だった。弟である先帝を敬愛し、忠誠を誓っていた。自身に能力があれば彼の補助ができたのに、と自信なさげにうつむいていた眼差しが印象に残っている。先帝が壊れたとき――彼は何を考え、何を想い、革命を起こしたか。


 またひとつ、楓がひらりと落ちてきた。華やかな紅に意識をひき戻された慧玲は視線をふせ、皇帝に背をむける。


 腥臭せいしゅうは、もう漂ってはこなかった。

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