23 暗殺者はたわむれに接吻ける

 雨が降りはじめた。葉桜の枝さきで雫が弾けたと想ったのがさきか、桶をかえしたような驟雨しゅううになる。


(ああ、ついてない……)


 妃嬪きひん房室へや屋頂やねのついた廻廊で繋がっているが、近道を選んで庭に降りたせいで雨宿りできる軒がない。いきかう妃妾きしょうたちが傘を広げた。雅やかな油紙あぶらがみの華が咲き群れる。


「まあ、あれをご覧になって。さながら濡れねずみですわ」


 通りすがりの妃妾きしょうが指を差してきた。頭が傾ぐほどにかんざしこうがいをつけ、黄に赤紫という華やかな襦裙じゅくんに袖を通している――趣味がいいとはいえなかった。


「陛下から慈悲をかけていただいて、後宮食医になったのでしょ? 罪人の分際で……あんなものに薬を頼むくらいなら、死んだほうがましですわ」


胡蝶フゥディエ様の仰せのとおりです。毒ならばまだしも、薬なんて」


 妃妾たちはみじめに濡れそぼる慧玲フェイリンを嘲笑いながら、通りすぎていった。


(……これは、さすがにむかっとしてもいいんじゃない。ああ、傘が破れたらいいのに)


 胸の裡で毒づきながら、何処かの木の根かたにでも身を寄せられないかと捜していると、背後から傘を差しかけられた。

 虚をつかれて、振りかえる。


「やあ、久方振りだね」

「……ヂェン


 黒絹くろぎぬの漢服に身をつつんだ青年がたたずんでいた。後宮の華も恥じらうほどの秀麗なる風貌に紫がかった霊妙な双眸ひとみ妃妾きしょうたちならば一瞬で恋に落ちるが、慧玲はとっさに緊張を張りめぐらせた。

 彼は風水師をよそおっているが、その素姓は毒を扱う暗殺者なのだ。


「あれから、風水師の仕事がいそがしくなってね。春の終わりに左丞相さじょうしょうが不幸にも毒蜘蛛に刺されて命を落されただろう?」


 左丞相の訃報を耳にしたとき、慧玲フェイリンはすぐにヂェンの仕業だと直感した。依頼者を暗殺することで、彼は完全に風水師として宮廷に紛れこむことに成功したのだ。


「毒蜘蛛が侵入するというのは風水に綻びがあるせいだと上申じょうしんしたら、宮廷の風水を細部まで確認するよう、依頼されてね。ちょうど昨日から後宮の調査が始まったんだ」


「おまえ、なにをたくらんでいるの」


 慧玲が瞳をとがらせた。鴆はふっと毒っぽく微笑みかける。


「そんなに恐いをしないでくれよ。僕は動いていないよ、いまのところは、ね」


 傘を差しだす袖から猛毒の蛇が頭を覗かせる。そこらの姑娘むすめならば、悲鳴のひとつでもあげるところだが、慧玲は眉ひとつ動かさなかった。


「だが後宮にきてから、どうにも蟲たちが落ちつかない。僕の蟲たちは毒に敏感だ。おそらくは、後宮に毒物がもちこまれている」


「いったい誰が毒を」


「さあね。僕には関係のないことだ。けれど貴女は毒に好かれやすい。毒のほうから寄ってくるんじゃないか……ああ、それと」


 袖をひき寄せられ、旋風つむじかぜのように唇を奪われた。

 痺れるような熱。毒の、灼熱感だ。彼は身のうちに毒を帯びている。


「どういうつもり」


 思いきり突きとばしてから睨みつければ、鴆は彼女の唇を指さしてきた。


「誘われているのかと想ったんだけど、勘違いだったか」


 雪梅嬪にべにを施されたことを想いだす。


莫迦ばかなことをいわないで」

「僕だけじゃないさ。後宮とはいえ、宦官かんがんがいる。彼らはそう想いかねない」

渾沌こんとん姑娘むすめに好意を寄せる男なんか、後宮にはいないでしょうに」


 ため息をついた。誰もが視線があっただけでも、呪われるとばかりに逃げだすというのに。彼は余所者だから解っていないのだ。

 げんなりして眉根を寄せていると、鴆は肩を竦めた。


「いいじゃないか。僕は、貴女を気にいっているんだよ。僕と接吻くちづけをしても、毒に侵されないのは貴女くらいのものだからね」

「私は、おまえのことなど、好いてはいないのだけど」


 そもそも、死にはせずとも、毒に侵されないわけじゃない。いまだって、彼の毒で指さきが痺れだしている。


(……最悪だ)


 脈が、どくどくと弾ける。じきに解毒できるだろうが――


「今度こんなことをしたら、舌をかみちぎってあげる」

「それは熱烈だな。楽しみにしているよ」


 ヂェンは愉快げに唇の端をゆがませる。


 宦官が側を通りがかった。

 鴆は一瞬でぱっと風水師らしい穏やかな微笑にきり替え、傘を渡してきた。慧玲フェイリンは戸惑い、身を退きかけたが、強引に押しつけられる。風水師と口論をしていると想われては面倒なので、諦めて受け取った。


「それじゃ、仕事頑張ってね、食医さん」


 鴆は袖を振り、振りかえることなく嵐のなかを遠ざかっていく。


(ほんとにつかみどころのない……)


 唇に触れる。まだ微かに熱が残っていたが、毒によるものに違いない。ほんとうについていないと慧玲は再びにため息を重ねた。

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