16 梅とむらい
「
ほつほつと梅のこぼれるように雪梅嬪は語り始めた。
「蝶よ、華よ、と育てられた。
唇をかみ締めてはまた緩ませ、彼女は「だから」と続けた。
「いまさら恋になんか、落ちるとは想わなかった」
私は、莟でありたかったのよ、と雪梅はこぼす。
咲かぬ、ゆえに散らず。
想わせぶりに芳烈な
それでも、綻ばぬ莟がないように。
彼女の春は明けそめた。
「
霜にあたれば、花は
けれども、硬い莟ならば、堪えられたはずの寒さだった。
「恋など、しなければ」
悔やんでも、綻んでしまった
妃嬪と宦官は結ばれない。まして、皇帝の寵妃となってしまっては。ゆえにふたりは、死後に望みを託したのだ。
「
慧玲は想像する。
星のあかりだけを頼りに、宮を抜けだして梅のもとにむかう
死に逝くときにも彼女は唇に紅を乗せ、髪を艶やかに結いあげて、
後悔が、ないといえば、嘘になるはずだ。全てを裏切ることになる。一族。親姉兄。寵愛。権力。財。名誉。富。位。命。なにかもを投げだしても、彼女は愛したかった。愛されたかったのだ。
「梅が、しな垂れるほどに咲き誇っていたわ。夜陰を透かして、
如月の宵は
「けれど、あのひとは、こなかった」
咲き群れる梅にひとつふたつと指を折り、時を過ごしたに違いない。
「朝まで俟ち続けたわ。しらじらと東雲が緩みはじめて、想ったの。ああ、彼の愛は、綺麗なばかりの嘘だったんだと」
「ですが、そうではなかった――哀しいことに」
慧玲がようやっと唇を割った。
「
血の毒は《金の毒》に属す。つまり《木の毒》を絶つための《金の薬》は《金の毒》に
現在では水銀が猛毒であることも解っているが、百年も時をさかのぼれば水銀は不老不死の
(けれど、白澤の叡智をもちいれば、水銀から不老の薬を創ることはできる。つまり水銀の毒も薬に転ずるのだ)
水銀は《陽の猛毒》だ。巧く扱えば、強い
故に
水樒は有毒の植物だが、その芳香が邪を遠ざけるとされ、葉が葬儀の棺に敷きつめられることがある。
(ただ、花は毒が強すぎて、都に持ちこむだけでも縄をかけられる。もちろん、植えることも禁じられている)
だが《陰の毒》を遠ざけるのにこれほどふさわしいものはない。
《陰の毒》を解毒したら、最後に《火の薬》を投与する。死を荼毘にふすように火をもって《金の毒》と《木の毒》を克すのだ。
「そんな……ありえないわ」
最愛の人がその身を毒したなど受けいれがたいのか、雪梅嬪は頭を横に振った。
「地毒に
「それは……」
如何なる経緯で雪梅嬪が毒に触れたのかは慧玲自身も不可解だったため、言いよどむ。
そのとき、一頭の蝶が窓の飾り格子をすり抜けてきた。
(そうか。蝶だったのか)
死者の魂を運ぶ蝶――言いえて、妙だ。
「蝶です。蝶が離れていた
蝶は梅が散ったことを惜しむようにあたりを飛びまわる。
解らないことといえば、もうひとつ、ある。
「畏れながら……この庭に梅は、幾百とあります。なぜ、そのように大事な待ちあわせに梅を選んだのですか」
「間違えるはずはないとおもったのよ。八重の紅梅はひとつだけだもの」
雪梅嬪はきまって紅の絹を纏っていた。彼女と梅を重ねあわせたならば、かならず八重の紅梅で
だが、そうではなかった。
なぜか。
想いかえす。雪梅嬪が最後に舞ったとき、こぼれ落ちたのは
「彼はあなたさまの姿ではなく、御心に、梅をみたのではありませんか」
艶やかな舞姫ではなく。
雪のように清らかなその華を愛したのだ。
雪梅嬪が瞳をまるくした。鏡のような
ひと際強い春の風が窓から吹きこんできた。
雪梅嬪が不意に息をのみ、泣き濡れた瞳をあげた。
「……
とっさに慧玲が振りかえったが、そこにはただ、蝶の群がいるのみだ。
蝶の群は戸の隙を抜け、廻廊にむかう。雪梅嬪は愛しいひとを呼びながら、蝶の後を追い掛けていった。
薬による幻視――という言葉が慧玲の頭を過ぎる。樒をもちいた薬は強い。どれだけ完璧に調えても、
「御待ちください、雪梅嬪!」
外はすでに日が暮れ、
「梅……が」
散ったはずの梅が、しらじらと咲き誇っていた。
八重の白梅だ。潤むような光を帯びて、宵の昏がりに浮かびあがっている。満ちる花の重さに枝垂れた梅枝がさらさらと風に舞っていた。
慧玲が息を洩らす。
「ああ、……蝶、なのね」
月を帯びた
梅のたもとにたどりついた雪梅嬪は、崩れるように根かたで膝をついた。
「
息をきらして、彼女は呼び掛けた。さも、そこに愛しいひとがいるかのように。
「
死んだ
梅が浪だつようにそよいだ。
「でも、私は、もう逝けないわ」
自身の下腹に触れて雪梅嬪はいった。胎のなかに脈打つものがある。新しい命だ。彼女が誰を欺いても、護りたいと望むものだ。
だからと彼女は続けた。
「
雪梅は涙を堪えながら、自身の髪に挿していた
「私の恋は今生で貴男だけよ」
ひと際強い風が吹きつけて、蝶が一斉に舞いあがった。
春の吹雪だ。舞いみだれる蝶のただなかに一瞬だけ、男の影が過ぎる。慧玲の瞳にも人影は確かに映った。輪郭は
愛する女の幸福を祈るように。
春は、逝く。珮後の香を微かに残して。
雪梅嬪は愛する人の残り香を抱き締めるように梅のたもとで泣き続けた。
涙はつきるものだ。散らぬ花がないように。されども胸に秘めた華は散らない。秘が秘であるかぎり、華は華であり続けられるのだ。
愛は
いつか、橋のむこうで
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます