第12話
篠宮を家に送り返す頃には随分と夜も更けていた。
彼女の借りるアパートの一室に辿り着いた畑野は、初めて訪れる彼女の自宅を見て、静かに吐息をこぼす。蛍光灯を浴びながら呼気が揺れた。
何度か彼女を自室に招くことはあったが、こうして彼女の自室を訪れるのは初めての経験だ。畑野はしみじみと噛み締めながら、部屋の鍵を開ける彼女をぼんやりと眺め、篠宮がどこか緊張したような手つきで鍵を開けたのを見届ける。
カチャリ、と音を立てて鍵を開けた彼女がドアノブに手を掛けたのを確認して、畑野はそんな彼女に別れを告げようとする。しかし、寸前で振り返った彼女が緊張を宿した瞳で畑野を見て、恐る恐る口を開いた。
「あの、時間……大丈夫そうなら。少しだけ休んでいきませんか?」
不安と緊張に苛まれた表情で懸命に紡がれた言葉に、畑野は思わず目を見開く。
篠宮はそんな畑野の反応に怯えを覗かせながら、焦燥と共に言葉を続けた。
「珈琲くらいなら、出せるので――せ、先輩の安っぽい舌じゃ価値が分からないくらい立派な豆ですよ! だから、その、ちょっとくらい……」
初冬が故か、ほんのりと染まった頬。まるで恋人みたいではないかと客観視して、心のどこかで悪い気をしていない自分を俯瞰する。けれども、彼女を取り巻く環境や彼女が抱える問題と向き合う時に、その没頭は視野を狭くする。畑野は誘惑に負けそうになりながらも、寸前で踏み止まって、苦笑をしつつ首を横に振った。
「終電がそろそろ無くなりそうだから、今回は遠慮しておく」
誤解をさせないようにハッキリと断ると、篠宮は酷く瞳を揺らす。
「もし次の機会があるようなら、その時にもらうわ。その時は――珈琲だけじゃなくてお茶菓子も十分に用意しておきなさいよ。生憎、安い舌だから」
畑野は空気が重くならないように軽口を交えつつ告げ、篠宮は動揺と寂寥感を表情に浮かべながらも笑みを取り繕って頷いた。「……しょうがないですね」と、仕方が無さそうな声色を作りながらも、言い終えた後、彼女は俯いて唇を噛んだ。
そんな彼女の所作がどんな感情に基づくものなのか分からない訳ではない。畑野は彼女に手を伸ばし、今の言葉を撤回しようかとも考えた。しかし、これ以上、彼女の傍で一緒の時間を過ごしていくと、彼女に溺れてしまいそうだった。ただでさえ惹かれつつある自分を自覚しているのだ。これから先は、どうなってしまうか分からない。
今は彼女の友人として、一歩引いた場所から彼女の抱える全てと向き合いたい。
惚れるなら、彼女が前を向いて一歩を踏み出した時だ。
「それじゃ、おやすみ。鍵はしっかり掛けなさいよ」
畑野はしっかりと彼女に釘を刺し、後ろ髪を引かれるような思いで踵を返して駅へ向かおうとする。去り際、脳裏に焼き付く俯いた彼女の姿を思い出して胸が痛んだが、軽く胸を叩き、今はそれを受け入れろと自分に言い聞かせた。その時だった。
――不意に、背中に衝撃を受ける。何かがぶつかったのだ。
思わずたたらを踏みかけて留まり、少し遅れて、誰かが背中から手を回していることに気付く。その白く柔らかい手が誰のものか、考えるまでもなく理解した畑野は、篠宮がどうして抱き着いてきたのか、振り向いてその意図を尋ねようと口を開こうとする。
しかし、畑野が何かを尋ねるよりも早く、彼女の小さな掠れる声が耳を撫でた。
「……やだ」
何が嫌なのか。そんなこと、もちろん聞くまでもなく理解をしている。
畑野は酷く揺れる心を懸命に宥めながら、回された彼女の手に手を重ねる。その手はとても暖かく、その熱が伝わるように、畑野もほんのりと体温が上昇した気がした。
「どうしたのよ、急に」
どうにか冷静であろうと、分かり切っていることを彼女に尋ね直す。白々しくなかっただろうか、言葉は詰まっていないだろうか。跳ねる心臓の音が彼女に届いていないか、そんな心配をしながら尋ねた畑野に、篠宮は力強く抱き着きながら告げた。
「……分かってください」
心の中で踏ん張っていた何かが、折れるような音がした。
畑野は小さな吐息と共に瞳を瞑り、その言葉を噛み締めた。家族に理解されず、誰かに認めてもらうことに飢えていた彼女が。自分が惹かれつつある彼女が、自分になら理解をしてもらえると期待をしてそれを望んだのなら。自分にそれを拒むことはできない。
本当に、魔性の女だった。
終電は間違いなく無くなるだろう。かといってタクシーで帰ろうにも、代金は馬鹿にならない。楼海に代金を請求しても構わなかったが、一度は彼女の誘いに乗って家に上がり込んだ以上、無理に帰宅をする気にもなれず、畑野は泊まっていくことを選んだ。
アパートは1LDKの間取りになっており、存外に広いなというのが入った時の感想だった。同時に、彼女の今までの生き方からは想像できないくらい、質素で味気ない内装だった。家具や寝具は飾り気のないものばかりで、派手さやお洒落さとは無縁だ。
「お風呂準備しますね! お洋服は適当なハンガーを使ってください」
帰宅して荷物と上着を置いた彼女は、パタパタと、足早に浴室へと赴く。
本格的な冬の寒さはもう少し先で、どうしようもなく体が冷えている訳ではないものの、有難い話だ。畑野は寝室らしき部屋の隅に掛けてあったハンガーに脱いだコートの袖を通し、戻す。その時、ふと、半分だけ開いたままの押入れが目に入った。
詰まれた参考書類の奥。乱雑に置かれた木の板、紙。傍には絵の具のチューブや瓶、画材の数々。随分と昔に使われて最後、ここしばらく使用された形跡は無かった。
陰で虚しく埃を食べ続けるそれらをしばらく眺めた後、畑野はその事実を噛み締めながら瞳を瞑る。そして、気付かなかったフリをしてリビングへ戻った。
浴室から戻ってきていた篠宮は、脱衣所の鏡を覗き込んで髪を弄っていた。何をしているのかと視線を向ければ、畑野に気付いた彼女はビクリと肩を跳ねさせ、照れ笑いを浮かべながらリビングに戻ってくる。
「あ、珈琲淹れますね。適当に座ってください」
「ああ、うん。悪いわね」
置かれたテレビと長机、その近くに置かれた二人掛けのソファに腰を落とした。置いてある小綺麗なブランケットと小さな枕から、ここで寝ることもあるのだろうなと察した。それから、暖房が効き始めてきた温かい室内で、覚えつつあった微睡を堪えて深い豆の香りに身を委ねる。目蓋が落ち始めてきた頃、彼女がマグカップを持ってソファに来た。
礼を述べながら口を付けようとすると、隣に座った彼女がそわそわとしながらその様子を見守ってくる。少しの飲みづらさを覚えながらも期待に応えるべく口を付ければ、口に含んだ途端、畑野は目を見開く。
素人なもので、高価なものと安物、どころかインスタントとの違いも分からない安い舌の持ち主ではあるが、確かにこれは美味しく飲みやすかった。「美味しい」と素直に告げて二口目を飲むと、篠宮は嬉しさに緩む頬を隠せぬまま、上機嫌にマグカップに口を付けた。意外な趣味もあるものだと、畑野は温かい珈琲でリラックスをする。
それから、気まずさを感じない静寂の中、浴槽の湯が張られる音を遠くに聞きながら特に何かをすることもなくぼんやりと時間を過ごす。他人の家は独特な香りがするものだが、珈琲の味わい深い匂いの中、ほんのりと篠宮を思い出す柑橘の香りがして、畑野は自分が篠宮の家を訪れていることを再認識した。少しだけ、彼女が隣に居る事実に目が冴えるような感覚を覚えていると、彼女がこちらを見た。
「あの……今日、泊まっていきますか?」
それはまた、随分な質問だと畑野は苦笑をする。
「誰かさんが引き留めたせいで終電が無いからね。嫌だと言っても泊めてもらうわよ」
軽口混じりに答えれば、彼女は嬉しそうな顔を隠そうともせずに「仕方が無いですね」と、苦渋の決断であることをアピールした。漫画の主人公のような鈍感さを持っていればもう少しだけ気が楽だったのだろうが、生憎と他者から向けられる好意にそう疎くはない。彼女が素直に喜んでくれている事実を認め、畑野も少しだけ嬉しかった。
「……先輩って本当に変な人ですよね」
唐突に貶してくるのだから、彼女の情緒が本当に分からない。どういう意味だと視線を投げれば、存外に悪い意味ではないようで、彼女は微かに笑いながら畑野を見ている。
「変、ねえ。最近知り合った奴にも同じことを言われたけど、そんなに?」
「それはもう、類を見ない変人です。二十年の人生で一度も見たことが無いし、たぶん絶滅危惧種ですよ。十年後には環境省のホームページに名前が載ってるかもです」
随分な言い草だと肩を揺らして笑い、畑野は珈琲に口を付ける。
「そんなに奇行に走っている覚えは無いんだけども」
「だからですよ。至って真面目にお人好しだから変人なんです」
「『お人好し』?」
畑野は随分と間抜けな単語が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。お人好しとは随分と綺麗で、随分と遠い呼称だ。愉快そうに笑って足を組み、「そんな立派な人間じゃないでしょ」とバッサリと切り捨てる。褒められることにそう悪い気はしないが、畑野は自分自身を清濁纏めて抱えるごく普遍的な人間だと自負している。過ぎたる称賛に浮かれていられるほど、呑気な人間でもない。
畑野がそう否定をすると、篠宮は唇を尖らせながら食い下がる。
「新藤さんから私の具合が悪そうだって呼ばれただけで、来てくれたじゃないですか。それに、私が呼び止めたら何だかんだでこうやって、泊まってくれました。水族館の件だって、冷たい人だったらあんなことはしなかったです」
篠宮はマグカップを両手で掴みながら畑野を相手に畑野の魅力を力説する。そんな光景を客観視して少しだけ愉快な気持ちになりながら、畑野は少しだけ考える。ため息と共に彼女の言葉を聞き入れて、確かに世間一般においてはお人好しと言われるような人柄なのかもしれないと、自分への認識や評価を少しだけ改めた。しかし、だ。
「……分かった。確かに私は人よりちょっとだけ優しいのかもしれない。だけど、もしも今の話が根拠だというのなら、それはちょっとだけ訂正する必要がある。悪いけど、私は誰にでも同じように優しくできるような人間じゃない」
畑野がそう切り出すと、篠宮はむん、と言いたげな表情で身構えた。徹底抗戦の姿勢を見せる彼女を愉快に眺めつつ、畑野は胸中を語る。
「知り合い程度の相手に呼び止められたって、こうして家に泊まるなんてことはしない。私だって、こういう行為が行楽や交遊と同列のものだと解釈するには無理があるっていうのは理解している。だから――こうして泊まることを受け入れたのは、私が優しいからじゃない。アンタとなら、そうしたって構わないと思ったから」
泥酔した彼女を連れ、終電を無くした時。彼女に言い負かされて家に招いた時。
その二回とは明らかに違う。今回は、互いが互いを求めていた。
畑野が面と向かって真意を語ると、篠宮は唖然とした表情で畑野を見詰めた。まるで言葉の意味を咀嚼しかねるように。しかし、段々と理解が追い付いてきたようで、篠宮の瞳が動揺に大きく揺れ、「あ、え」と掠れるような困惑の声が漏れ出た。
今更になって、少しだけ恥ずかしくなってきた畑野は火照る身体を冷ますように顔を手で扇ぎ、ようやく言いたいことの全てを理解したらしい篠宮は、目を見開いたまま茹だったように耳まで顔を赤く染め上げる。
「あの、それは……」
これだけ心を開くのは、友愛か、恋愛か。どんな感情かは分からないけれども、顔を熱くするこの感情はきっと、このままでは留めておけない感情だ。何かを期待するように、真っ赤な顔で篠宮が畑野を見詰め、畑野は彼女から視線を逸らして壁を見る。
質問にどんな返答を返せばいいのかは分からなかったから、彼女の言葉を借りる。
「……分かって」
如何様にも解釈できるその言葉に、篠宮は動揺を表情に見せた。畑野は言った直後に、己の言葉を悔いるように口に手を当てる。まるで自分を理解してくれとでも言うような言葉は、想いの丈を打ち明けるかのようで、畑野は撤回をしたかった。嘘ではないし誤解ではないが、だからこそ訂正をしたかったのだ。
しかし、篠宮の固唾を飲む音が聞こえた。
彼女は酷く緊張したような表情で畑野を見詰め、それから、意を決したように身体を畑野の方に寄せてソファに座り直す。膝先が擦れるような距離まで近付いた彼女は、顔に朱を帯びさせたまま、熱い呼吸と共に畑野の膝上の手に手を重ねた。
途端、その熱が体中に広がるような感覚を畑野は覚える。
心臓がバクバクと鳴り出した。肩が触れ合い、指先が絡まる。
心が揺れた。畑野は、少なくとも篠宮の抱える問題を解決するまでは事態を俯瞰できる第三者であるべきだと考えていた。それに、今までは彼女に特別な感情を抱いているとは思っていなかった。だが、きっと、この胸の高鳴りはそれを否定するもので、同時に、胸に芽生え始めた感情を肯定するものなのだろう。
篠宮は緊張した表情で畑野の顔を覗き込む。絡まった指をそのままに、空いた手で自身の髪を耳に掛け、そのままその手を畑野の膝に置いた。
「駄目だったら、言ってください」
囁くように告げてから、篠宮は畑野の唇に己の唇を重ねようと近づける。
躊躇いや迷いがあった。だが、同情や憐憫や友愛による彼女を助けたいという感情とは別に、己の中に彼女に対する特別な感情が宿っていることを畑野は自覚する。そして、これだけ彼女の情欲を煽っておきながら、今更拒むのも随分な真似だろうと考えた。
一回だけだ。それだけ。関係を発展させる訳ではない。
そう自分に言い聞かせながら、畑野は空いた手を彼女の首筋に回して己へと近づけ、篠宮の唇に己の唇を重ねようとした。
――その瞬間。軽快な音楽がリビングに響き渡った。
びくり、と互いに身体を跳ねさせて、思わず距離を取る。
何の音だ、と畑野がピロリロという間抜けな音の出元を探していると、篠宮の瞳が浴室に向いたことに気付く。少し遅れて、『お風呂が沸きました』という音声が聞こえ、脱力した。畑野が思わずため息を吐いていると、隣に座っていた篠宮も疲れた様子だった。
彼女はほんのりと染まった頬で呼吸を整え、我に返ったように咳払いをする。
それから、何かに気付いたようにスカート越しに内股に触れ、何かを確かめる。気まずそうな顔を上げて畑野を見た彼女は、申し訳なさそうに立ち上がった。
「す、すみません。先にお風呂いただきますね!」
「え、ええ。ごゆるりと」
脱衣所の方へ駆けていく彼女の背を見送り、脱衣所の戸が閉まったのを確認してから、畑野は大きく天井を仰いで深々と溜息をこぼした。惜しむように、彼女に触れることのかなわなかった唇をなぞった後、ただのキス程度で大きく動揺し、緊張する自分を笑う。
そして、シャワーを浴び始めた彼女の方を見詰めてぼやいた。
「セックスまでしてるんだけどなぁ」
順序がまるで逆だった。
衣服と、汚れてしまった下着達を浴室で干して浴室乾燥を掛けた後、彼女が快く貸してくれた寝間着に袖を通す。ピンク色の可愛らしいパジャマやフリルのネグリジェなんかが渡されたら非常に気まずかったが、幸いにもビッグシルエットのシャツとショートパンツという無難なチョイスで、感謝に堪えなかった。先ほど唇を交わそうとした後輩の下着を着用しているという事実に変な欲求を覚えながらも堪え、畑野は洗面台で髪を乾かして脱衣所を出る。
パジャマに着替えた篠宮は、ソファに座って眠そうな顔で船を漕いでいた。そう長風呂をした覚えは無かったが、アルコールも入っているし、疲労の蓄積もあるのだろう。微笑ましく眺めていると、畑野が出てきたことに気付いた彼女は、ぱちりと目を開いた。
時刻は二十四時。カーテンの外では民家の照明も消えつつある。
畑野は笑いながら寝室の方を視線で示した。
「そろそろ寝ましょうか。疲れてるんでしょ」
「……あい。そうですね」
呂律も回らぬままに目尻を擦って答え、彼女は小さく欠伸をした。
それから、彼女は思い出したように「あ」と呟いて畑野を見る。
「先輩は寝る場所どうしますか? 嫌じゃなければですけど、ベッド使います? 一応、シーツは毎日ちゃんと替えてるので清潔ですよ」
「家主を追い出してまでベッドで寝られないわよ。ソファでも借りるわ――ブランケットもあるし、私はこれで構わないからアンタは早く寝なさい」
そう言いながらソファを叩くと、篠宮は渋るような素振りを見せる。
「むぅ……それは少し気が引けます」
「んなこと言ったって、逆は認めないわよ」
小説を書きながら寝落ちをすることも多い。元々悪環境での睡眠に慣れているため、畑野としてはソファなんて極上のベッドとも言えた。少なくとも篠宮から快適な睡眠を奪ってまで、ベッドを使う理由もなし、畑野は欠伸混じりにブランケットを広げる。
しかし、そんな畑野のシャツの裾を誰かが――誰かも何も、この家には自分と篠宮しか居ない訳だが、彼女が掴んだ。母親に何かを言いたいけれども適切な言葉が見つからない時の子供のような、不満そうな表情で、不満を訴えるために。
畑野の服の裾を掴んだまま微かに頬を染めて不満げに見詰めてくる彼女に、畑野は小さな嘆息をこぼしてから彼女に半眼を投げた。
「……何よ」
「ベッド、広めです」
案の定な彼女からの提案に、畑野は顔をしかめつつも思わずベッドを見る。
確かに、一般的なものよりは少し幅に余裕があるようだ。ダブルベッドとまではいかないものの、自分と篠宮が一緒に寝る分には不足は無いだろう。そんなことを目算で考えてから、畑野は微かに首を横に振った。
「ソファで寝させることに罪悪感を覚えているなら、そんなの気にしなくていいから。遠慮じゃなくて、本当に私はどこでも寝られる。それに、こう見えて寝相は結構悪いし、アンタを起こすかもしれない。だから気にせず一人で寝なさい」
追い払うようにベッドの方へ手を払うも、篠宮は素知らぬ顔だ。それどころか、いっそう強く服の裾を掴んで離さない。
畑野は額に手を当てて唸る。強く断れば彼女も諦めるだろうが、強く断ろうと思う程に拒みたい訳でもないのだ。そもそも――彼女と寝ることが嫌な訳ではない。
問題は、彼女と同じベッドで寝て、理性が保つか分からないことだ。性欲や情欲と無縁の生活を送っている訳でもなし、ただでさえ少なからず意識している相手なのだから、猶更だ。それに、そうなれば彼女もそれを受け入れてくれるだろうことも問題だ。
畑野はしばらく考え込むも、無理に拒み続けるのも彼女を不快にさせかねないと考えを改める。彼女の甘えるようなこの誘いは、今まで他者の愛情に触れてこなかったが故のそれに由来するもので、自分自身も嫌だと思っていない以上、少しくらいは受け入れてもいいのではないだろうか。自分が、我慢すればいいだけなのだ。
「……寝言で起こしても恨むんじゃないわよ」
月明かりだけが差し込む寝室。少し広めのシングルベッドの上。
彼女の普段遣いの枕を使って仰向けに寝る畑野と、そんな畑野の方を見ながら、小さなソファ用枕で横向きに寝る篠宮。彼女の視線に居心地の悪さを感じた畑野は、どうにかそれを無視して寝ようと足掻くも、右側には常に誰かの視線を感じ続ける。
畑野は深々と溜息をこぼすと、彼女の方に身体を傾ける。
「こういうのは背中を向け合って寝るもんでしょ」
「普段からこっち向いて寝てるんです。癖になってまして」
「じゃあ場所入れ替えるわよ」
「無駄だからやめましょう。反対向きに寝る癖もついてます」
「なんなのよ、アンタ」
思わず笑ってしまいながら、畑野は篠宮の鼻先を突く。「うぐ」と顔をしかめた篠宮は、不服そうに唇を尖らせながら「眠れないのでお話してください」と訴えた。先ほどは船頭のように船を漕いでいたというのに、よくもまあそんなことが言える。畑野は苦笑をしながら「話したら余計に眠れないわよ」と窘めた。
篠宮は不貞腐れたようにそっぽを向く。しばらくして、彼女は間に置かれた畑野の手の存在に気付くと、布団の中から手を出して、その手に手を重ねた。柔らかく温かい手の感覚に、畑野はほんの少しだけ鼓動が加速するのを知覚する。
スクリーンの中の出来事を眺めるように、どこか他人事のような気分で彼女と手を重ねる己の手を眺める。しばらく眺めていると、篠宮の手が畑野の手を掴んだかと思うと、自身の口元に引き寄せ、その中の人差し指を立てるように持つ。
それから、畑野の人差し指を咥えた。舌先でコロコロと指を転がし、情欲を煽るような流し目で畑野の瞳を覗き込んだ。畑野は自身の下腹部が疼くような感覚と共にそれを眺め続け、やがて、満足したらしい彼女が唇を離すのを見届けた。
彼女はパジャマの袖で畑野の指先に付着した唾液を拭き取り、今度は小指を立てて持つと、それを噛み始める。甘く疼くような痛みを覚えながら、畑野は尋ねた。
「そうやって色んな人を誘惑してきたわけだ」
「先輩は誘惑されてくれないんですか?」
篠宮は眠気と性欲の中間の表情で畑野を見詰め、空いた手でパジャマの第二ボタンを外す。月明かりだけが差し込む寝室でも視認できる、綺麗な肌と胸の膨らみ。畑野の視線を浴びながら、彼女は第三ボタンに指を掛け、外し、その奥の突起を覗かせる。
畑野は心の奥底から湧き出る欲求から目を逸らさずに答えた。
「誘惑され過ぎておかしくなりそう。今すぐ篠宮を滅茶苦茶にしたい」
思わず笑ってしまうくらい正直に感想を伝えると、篠宮も少しだけ可笑しそうに笑った。クスクス、と静かに笑った篠宮は、畑野を真っ直ぐに見詰めた。深い夜、月と星の浮かぶ空を思わせる綺麗な黒瞳が畑野の心の奥底までを覗き込むようだった。
彼女は熱い吐息と共に畑野の手に手を重ね、甘い声で囁く。
「いいんですよ。おかしくなって」
ドクン、と心臓が強く跳ねる。今すぐ彼女の服を剥いで、その肢体を味わい尽くしてしまいたい衝動に駆られた。下腹部が淡く疼き、蠢く。借りた下着を汚した件は、また後日弁償する形で詫びなければならないだろう。なるほど、先達はこうして彼女に誘惑をされて、彼女が望む形で彼女の承認欲求を満たしてきたのだろう。
しかし、だ――そういう形で満たされることを否定していた自分が、この誘惑に負けて手を出す訳にはいかないだろう。少なくとも彼女の抱える問題を払拭するまでは、性欲だとか悪感情だとか、そういうものではない感情で彼女と向き合いたいのだ。
畑野は瞳を瞑って呼吸を整えると、そっと篠宮の顏に手を伸ばす。
そして、彼女の頬にかかった髪を払い、その柔らかい頬をそのまま撫でた。
「おやすみ」
彼女を見つめ返してそう告げると、篠宮は途端に不貞腐れたように頬を膨らませる。子供らしく可愛らしい反応を最後に、畑野はそっと瞳を瞑った。
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