第11話

 日も暮れた夜。照明を点けるのも億劫で真っ暗な室内。


 畑野は頬杖を突きながらノートパソコンのディスプレイを眺める。


 文章の最後尾で点滅する棒線をぼんやりと見詰め、篠宮や楼海といった事柄をいったん頭の片隅に追いやって、公募に向けて執筆中の小説と向き合う。


 『主人公』は才能に恵まれない女子サッカーのフォワードであった。


 小学校からの幼馴染である天才ストライカーと共に二本柱として活躍をしていたのも束の間、歳月を重ねるにつれて幼馴染との実力差が顕著になっていく。『幼馴染』が休む日にも血反吐を吐くような思いで体力づくりや研究に没頭し続けるも、差は開く一方。


 もはや誰に期待をされることもなく、努力も報われず、劣等感に苛まれながらサッカーを続ける『主人公』。同じフォワードでありながら『幼馴染』との得点数は天と地ほども離れ、サポート役、引き立て役とまで呼ばれながら、様々な挫折や葛藤を繰り返した彼女が行き着く果ては――『努力が報われてハッピーエンド』などという寝言のようなプロットを削除し、畑野は先の展開を熟考する。


 溜息と共に背もたれに背を投げ、ギシ、と椅子が揺れる。


 込めるメッセージは変わらない。『努力の意義』だ。


 終わり方も主人公が報われるハッピーエンドでなくてはならない。それは『そうであることが正しい』、『より良い』などということではなく、ただ、どうしようもなく理不尽なくらいビターエンドに溢れかえった現実から目を背けた先でくらい、幸せな結末が訪れてもいいだろうという思考のもとであった。


 だから、ここでは『報われない努力をし続けた主人公』が『どのように報われるか』に着目する必要がある。そして、その点に注目するにあたって、畑野が掘り下げるべき項目は何だろうか。畑野はタッチパッドを操作してメモ帳を開き、キーボードを叩く。


 『主人公は何を求めていた?』と叩き終え、煩雑な思考を簡潔に纏めた一文を畑野は見詰める。そして、改行を入れた後に『求めるものがあったから頑張れた。主人公が報われるとしたら、それが成就するときだけ』と追記する。


 バラバラだった糸を編むように纏まっていく思考を文字の上に見る。


 少しずつ思考が固まってきて、畑野はのめり込むようにキーボードを叩く。


 そして、報われない努力をする主人公の姿が文字の奥で具体化するような気配があった。ぼんやりと、脳に靄が掛かって現実世界の知覚が鈍く、代わりに意識が文字の奥の世界に行く感覚を覚える――そして、華々しいシュートを決めてチームメイトに囲まれる『幼馴染』の陰で、彼女のアシストしかできなかった『主人公』を見た。


 そして、そこにとある知人の面影を見出した直後だった。


 ――ブー、ブー、と耳障りな振動音が響いて集中力が途切れる。急ブレーキを踏んだような、目覚ましで目を覚ましたような不快感と共に、畑野は卓上のスマートフォンを見た。先日に連絡先を交換した楼海かと思ったが、そこに表示されている発信者名は、自身のスマートフォン上では見慣れぬ、けれどもよく知った人物だった。


「……新藤?」


 彼から連絡が来るのは随分と珍しい。畑野は集中を乱された不快感を、珍しい人物からの連絡に対する驚きと興味に代え、照明を点けながら着信に応じた。


「もしもし――」








「篠宮さん、飲んでるー?」


 名前は――飯田だか飯塚だか、たしかそういった名前だったか。話しかけてきた人物の顏から名前を思い出しながら、篠宮は笑みを作って「はい」と頷いた。


 喧騒が飛び交う居酒屋の一角、いつものように文芸同好会の面々は飲み会を開いていた。愚痴や談笑を交わす者、酒や食べ物を楽しむ者。思い思いの時間を過ごす者達の中には、意中の人物にアプローチを仕掛ける者も居る。


 どうしてか、あまりこの雰囲気に没頭できず、ぼんやりとカクテルの液面を眺める篠宮だったが、そんな異変に気付く者は少ない。彼女を狙っている男子諸君はどうにか気を引こうと声を掛け続け、そんな様を疎ましそうに女性陣が眺めていた。


 前まではこの光景を渇望している自分が居たのに、篠宮はどうしてか満たされない心を内側に感じていた。そして、同時に――今まではそれで心が満たされている気になっていただけで、ただ自分が錯覚していただけだということを理解する。


 以前までは意識の外側に居ただけのとある女性を探すように店内を見回すが、退部した彼女の姿は当然見当たらない。乾いた心が潤うような、楽しかった水族館の出来事を思い出す度に、退屈と空しさが込み上げてきた。


 そんな中、かつて篠宮と言い争った女子、胸を誇張するような服を着飾った佐々木が志島の顔を覗き込むように話しかける。


「志島君、出版の企画は順調なんだって? 新藤君から聞いたよ、おめでとう!」

「ん? ああ、うん。ありがとう――でも、まだまだ。出版や受賞が目的になってしまっては、そこで止まるだけだ。まだ、先を目指すよ」


 話しかけられた志島は愛想よく笑い、佐々木はそんな反応に気分を良くしたように篠宮を一瞥した。そして、浮かない顔をする彼女に勝ち誇ったように笑う。


 そんな佐々木の視線に気付いた志島は同様に篠宮を見ると、ぼんやりとしている彼女に気付き、それを案じるような顔をした。志島はそんな彼女に話しかけようとするも、口を開いた直後、割り込むように飯塚が口を開く。


「篠宮さん! 俺達今日、二次会とか考えてるんだけどさ。よかったらどうかな?」


 下卑た欲望を表情に、それを隠そうともせず篠宮を誘う飯塚。


 明らかに『その後』を期待するような口ぶりで、その本心に気付かない者は誰一人として居なかっただろう。呆れたような、軽蔑するような視線がいくつか突き刺さる中で、篠宮の頭に不意に浮かんできたのはまったく無関係の畑野だった。


 『言いたくないなら聞かないけど、もし吐き出して楽になれることがあるなら、私が聞く』――容姿などの表面上のものだけではない、その内面を覗き込むような瞳で真っ直ぐに告げてくれた彼女の言葉を思い出し、胸が締め付けられるように痛んだ。


 篠宮は苦悩を殺すように固い笑みを取り繕い、胸に手を当てる。


 しかし、それでも。先日彼女に伝えた通り、何も変わらない。


 何も変わらないのだ。篠宮という落伍者は、こういう生き方で自分の心を満たしていくしかないのだ。そういう生き方しか知らないから、そういう風に生きるのだ。そう自分に言い聞かせて穏やかな笑みを作ると、飯塚にも笑みを向けた。とはいえ、彼の欲望を受け止めるだけでは少々退屈だから、もっと大勢の人を、たとえば志島や新藤を巻き込んで、もっと大勢の人の嫉妬を買った方が心地よいに決まっている。


 そう自分に言い聞かせながら、手始めに、篠宮は隣に座る新藤を誘おうと彼を見た。


 その瞬間、胸中を見透かすような新藤の視線が篠宮を貫く。


「具合でも悪いのか?」


 ハイボールを片手に篠宮を見た彼の言葉が、胸に重く圧し掛かる。


 篠宮は微かに笑みを強張らせた。


 誰にも気づかれていないと楽観視していたのだが、異変に気付かれていたようだ。具合が悪いわけではないが、どうにも頭から離れない言葉と、胸から離れない人が居る。けれどもここで頷けば、きっと飯塚が持ち込んできた話がご破算になって、この心の虚空は満たされないままになってしまう。


 ――違う。と、理性と本能が口を揃えて建前を否定した。


 違うだろう。分かっているのだ。こんな劣情や悪感情に包まれたところで、ほんの僅かも心が満たされる筈が無い。こんな欲望にまみれた感情では、駄目だ。本当は――心の奥底では、また、彼女と何を気負うことも無く談笑をしながら出掛けたいのだ。


 でも、それを認めることはきっと、今まで自分が積み重ね、歩んできたものの全てを否定することと同義だ。だから篠宮は、真実から目を背けようとする。


 それでも乾いた心は正直に、『水』を求めた。


「少し……だけ」


 篠宮は思わず、この煩わしい全てから逃げ出すための言葉を発する。


 吐き出した本音を遅れて自覚して、篠宮は口を覆いそうになった。


 それを聞いた新藤は、自分から尋ねたことでありながら、それを篠宮が素直に認めたという事実に驚いたような表情を見せる。二人のやり取りを聞いていた飯塚が「だ、大丈夫? 家まで送ろうか?」と身を乗り出そうとするが、そんな彼の身体を篠宮の体躯越しに押し返し、新藤がため息混じりにポケットからスマートフォンを取り出した。


「タクシー呼んでやるから、今日はもう帰れ。飯塚もさっさと諦めろよ」


 釘を刺すように新藤が彼を見れば、飯塚は委縮したように「お、おう」と縮こまる。そんな光景を眺めていた志島は満足そうに笑うと、後を任せるように視線を逸らした。


 つい先日までは自分が渇望していた、劣情と悪感情の入り乱れる催し事が無くなった事実に篠宮は肩を落とそうとした。しかし、どう自分を誤魔化そうとしたって、心に沸き上がる感情が安堵だったから、篠宮は懸命に自分の心から目を背けた。


「ああ、もしもし。俺だ――ちょいと迎えが必要でな」


 タクシー運転手の知り合いでも居るのだろうか。随分と親しげな調子で電話をする新藤を尻目に、篠宮は残り僅かなカクテルをちびちびと飲んだ。


 それから三十分としない内に、新藤のスマートフォンが震える。届いた文面を見た新藤が「早いな」と愉快そうに笑った。彼は篠宮へと視線を投げる。


「篠宮、迎えが来た。気を付けて帰れよ」

「あ、は、はい!」


 タクシーが来たというのなら、あまり居酒屋の前に待たせる訳にはいかないだろうと、篠宮は手荷物を持つ。名残惜しそうな男子諸君の視線を背に、何かと気を遣ってくれた新藤に「ありがとうございました」と一言だけ添え、代金を手渡した後に席を離れた。


 少しだけ軽い足取りで足早に店の外へと向かう。


 この後はどうしようか。少しお酒は入っているが、泥酔とまではいかない。帰ったところで何をすることもないので、どこかで時間を潰そうか――そんなことを考える頭の片隅には想い焦がれるように焼き付いた誰かの姿があって、篠宮はふと、ポケットに手を伸ばして彼女の番号を呼び出したくなる。


 しかし、彼女と同じ時間を過ごす度に変化していく自分の感情が怖くて、今までの自分を否定したくなった篠宮は、取り出そうとした寸前で思いとどまる。


 今日は帰って寝よう。そして、自分の心を整理するのだ。


 そんなことを考えながら居酒屋の戸を開けると、晩秋の香りが吹き込んできた。


 肺一杯に心地よい寒さの空気を吸い込んだ篠宮は、新藤が呼んでくれたというタクシーを探す。しかし、軽く周囲を見回してもそれらしきものは停まっておらず、「あれ」と小さく呟きながら店の外に出て戸を閉め、覗き込むように辺りを見回した。


 そして、不意に知った声が鼓膜を打つ。


「……なによ、元気そうじゃない」


 途端、心が大きく揺れるような感覚を覚えた。


 篠宮は目を丸く見開きながら声の方――店の戸の脇に立っていた人物を見た。居酒屋の曇りガラスからこぼれる橙色の照明を浴びて映える黒髪と、心を見るような深い黒の瞳。急いで来たのか、ほんの少しだけ息が乱れていた。


 新藤がタクシーとして呼んだ相手が彼女であること、どうして彼女を呼んだのか。そんな様々な疑問を差し置いて、真っ先に感じたのは締め付けられるような胸の痛みだった。


「先、輩」


 茫然と立ち尽くし、見開いた瞳で想い焦がれた人物を見詰める。


 最後に一緒に美術館へ行ってから三日。会えなかった期間に肥大化した感情が篠宮の心を蝕んでいく。疼くように痛む心を抱き締めるように胸に手を当て、熱くなる頬を初冬に近付きつつある冷気で冷ます。


 畑野は店内に居るだろう新藤の方を睨む。


「あの野郎、アンタが凄く体調悪そうだから迎えに来いって。――具合は?」

「だ、大丈夫です! 全然、その……元気です」


 先程とは打って変わって、感情のまま、思うまま素直に答えた。


 その返答を聞いた畑野は安堵したような表情を見せ、それから少しだけ怪訝そうな顔をする。もしも本当に元気なのだとしたら、何故自分はこうして一人で出てきたのか、新藤は迎えを呼んだのか。そんな疑問が浮かんだのかもしれないが、篠宮の気まずそうな表情を見て、彼女は追及することを止めた。


 それから、彼女は仕方が無いと言うように小さく笑った。


「心配だから送らせなさい。電車でいいでしょ?」


 色々な感情が複雑に入り乱れて、紡ごうとした返答が喉から出てこない。


 来てくれたことに対する喜びと、是非送ってほしいという心の奥底の本音。今までの彼女に対する素っ気ない言動を踏襲した小馬鹿にするような言葉。色々と言いたいことが溢れすぎて、今、下手に口を開いたら変なことを言ってしまいそうだった。


 篠宮は少しだけ考えた後、無言で手を伸ばし、畑野の腕を抱くようにして組む。


 驚いたような畑野の視線を受け、篠宮は耳まで赤く染めて俯いた。


 そんな篠宮をしばらく眺めていた畑野は、微かに頬を緩めると、彼女の行動を誰にでもなく弁明するように「暗いし、寒いからね」と呟く。今日はよく冷える。それに、足元も暗い。しかし、こうして寄り添い合っていれば、きっと温かくて安心できる。


 駅までの道中、二人はまるで恋人のように腕を組んで歩いた。

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