第10話

 高価そうなアンティークが飾られた、都内のオーセンティックバーに案内された。


 薄暗い店内には心地よいジャズが流れており、カウンターの奥にはずらりと唾を呑むような酒が陳列されている。熟練の技を感じさせる老齢のバーテンダーが奥でグラスを拭き、店内の各所では小綺麗な服で着飾った客が酒を嗜んでいた。


 普段通っている居酒屋とは明らかに雰囲気の異なる本格的なバーに、普段着の畑野は今すぐに帰りたかった。しかし、先にカウンターに腰を下ろした楼海はくすりと笑う。


「マナーはお気になさらず。こう見えてカジュアルなお店ですから」


 楼海はそう告げながらマスターにちらりと視線を投げる。


 老齢の男性は上品に笑って、次いで腰を下ろす畑野を見た。


「いらっしゃいませ、お客様。つかぬことを伺いますが……楼海のお知り合いで?」


 彼女の素性を知っているのか、と驚きつつも畑野は頷く。すると彼はいっそう愉快そうに肩を揺らすと、瞳をちらりと壁に投げる。釣られるように畑野がそちらを見れば、そこには絵が飾られていた。酒を飲み交わす人々の絵だ。


 そして、つい先刻に幾つもの絵画を見てきた畑野は、直感でその作者を理解する。


「楼海はここのオーナーです。彼女が招いたのであれば、何をするも自由でしょう」


 都心の一画、随分と立派なホテルの中で開かれているこのオーセンティックバーのオーナー。とんでもないことを言うものだと言葉を失いながら彼を見て、次に畑野はその視線を楼海に投げた。彼女は篠宮と対照的な、上品な笑みを覗かせた。


「そういう訳です。肩の力を抜いてください――もちろん、今晩は奢りです」


 海外で個展を開く稀代の水彩画家は、やはりスケールの違う人物であった。


 畑野はとんでもない人間と出会ってしまったものだと、数奇なエンカウントに溜息をこぼした。それからマスターに「高くて美味い酒」と大雑把なオーダーを投げる。


 彼は気分を害した様子も無く、むしろ愉快そうに「承知いたしました」と淀みない手つきで準備を始めた。そんな様を楽しそうに眺めていた楼海に、畑野は視線を投げる。


 鮮やかな黒髪と美貌、柔らかそうな唇に澄んだ夜空を彷彿とさせる黒瞳。篠宮との血縁を確信できるような、瓜二つの絶世の美貌。あの日、新藤のスマートフォンで見た彼女が目の前に居る事実を再認識した。


「それで、楼海さん。貴重な終電とプライベートタイムを削いでまで私を呼び止めた用件をお伺いしても? タイムイズマネーは他人の時間には適用されないもので」

「いやですね、畑野さん。敬語なんてよしてください。先程のように楼海と」


 楼海は食ったような笑みを微かに浮かべてる。彼女の貼り付けたような笑みの向こう側にある本性を少し垣間見たような気がして、畑野も肩の力を抜いた。


「分かった、楼海。お互いの目的は合致してるだろうから、仲良く行きましょう」

「ええ、勿論です。しかし私の言葉遣いは癖のようなものなので、ご容赦を」


 彼女は悪びれる様子も無くにこやかに告げると、「――さて」と微かに表情を変化させる。少しだけ真剣味を増した表情で本題を切り出した。


「順を追って話します。まずご存知の通り、私は貴女の知る『篠宮』の姉であり、同時に水彩画家の『楼海』を雅号に持つ者です。現在は国内の美術館で個展を開催しておりまして、私の後援者が主体となって進めています」


 そこまでは知っている。篠宮に姉が存在することも、その姉が凄まじい人物であることも。目の前の彼女がその人物に他ならないことも理解している。


 分からないのは、彼女が何故自分の前に姿を現したのか、だ。


「先刻、後援者から妹が個展に訪れたと連絡がありました」

「……わざわざ連絡? 監視でもしているの?」


 普通はそんな連絡をこんな時間帯にするとは思えない。彼女から指示があったか、家がそうしているか。どちらにせよ普通ではないその対応に畑野が眉を顰めれば、彼女は微かに首を横に振る。


「いえ、そういう訳では。ただ、私は篠宮の人間として彼女の動向を把握しておく必要がありました。ここ最近、彼女が何をしているのか誰も把握できていなかったので」


 彼女が心配だったという言葉が聞ければ満足だったが、どうやら楼海の意思はそんな方向に向いていないようだった。畑野は彼女の言葉に眉を動かし、彼女の顏を見る。


 そんな畑野の視線を受け止めた楼海は、微かに頬を緩めた。


「何か?」

「……いや」


 杞憂だろう。篠宮の話では、楼海という人間は彼女の味方だった。


 篠宮という芸術家の家系において彼女の立場を守り、娘として愛さない父親を叱責し、筆を捨てようとした彼女に手を差し伸べた善人だ。先程の言葉は体裁を取り繕ったものか何かで、彼女も心の底では篠宮を心配している筈だ。


「それで、アンタは連絡を受けて篠宮の動向を確認しに来た、と。ところが今は私をバーに招いて談笑に耽っている。どういう方針の変化? そもそも、私に何の用?」

「私が彼女と顔を合わせても何も変わらないし何も生まれません。ただ、家柄という責務を背負った姉と、それに追い出された妹が確執を深めるばかりでしょう。私は一向に構いませんが……いくら出来損ないでも血の繋がった妹ですから。それよりは、妹の知り合いらしき人から近況を聞くべきだと思いまして」


 畑野は自分の耳が信じられず、目を見開いて彼女の顏を凝視した。


「……出来損ない?」


 何事でもないように平然と、血の繋がった実妹を出来損ないと呼んだ眼前の芸術家を信じられず、血液が沸騰するような怒りが沸く。やはり、先程の言葉は表面上通りの意味だったのではないか。彼女は、篠宮に姉としての情を抱いていない。


 篠宮の言葉から、彼女は妹想いの立派な人物だと思っていた。だが、篠宮の勘違いか楼海が演技に長けていたのか。篠宮が語るほどの立派な人物などではない。


 楼海は差し出された酒に口を付け、冷めた瞳で口元だけを緩め、畑野を見た。


「ああ、出来損ないというのは……その前に、彼女の家柄の話をしましょうか」


 畑野は今すぐにでも激昂しそうな感情を懸命に宥め、力が入る拳を丁寧に机に押し付けて心を落ち着かせる。今ここで、彼女に掴みかかったところで何の成果も無く、もしも本当に篠宮のことを想うなら、この怒りを抑えて彼女から必要な情報を取るべきだ。


「『篠宮』が芸術家の家系で、彼女もアンタと同じで筆を握っていたというのは聞いた。父親から画家としての名義を変えて挑戦しろと言われたり、誰にも評価されずに描き続けるのが辛かったって、そういうふざけた環境だったっていうことも彼女から聞いている」


 怒りを懸命に腹の内に隠し、平静を務めて畑野はそう語る。それを聞いた楼海は意外そうに眉を上げると、「おや」と驚いているのかいないのか、判断に難い声色と言葉で驚いて見せた。


「驚きました。そこまで愚妹から聞いていたとは」


 神経を逆撫でするように篠宮を貶す楼海に、この人格破綻者の胸倉を掴んでやりたい衝動に駆られながらもそれを懸命に抑え込む。唇を噛み、拳を握って、本当に彼女の為になるのはどんな行動かを言い聞かせるように頭で繰り返す。


 しかし、畑野はどうしても目の前の彼女が信じられずに口を開いた。


「今日、水族館に彼女と行った。昔、絵を描くのが嫌いになりそうだった時、アンタが水族館に連れて行って励ましてくれたって語っていた……! どれだけ周囲に追い詰められても、たった一つでも拠り所があったんだって私は安心した」


 声に熱が籠り始めるが、周囲の客の迷惑にならないよう、声量だけは努めて抑える。


 彼女に何を求めることもせず、ただ、自分が篠宮から聞いた話をそのままぶつけた。心の片隅で、どうか何かの間違いであってほしいと縋るように語る。彼女までもが篠宮の敵だったなら、一体彼女は、誰に何を望まれて生きてきたというのだ。


 畑野の絞り出すような言葉を聞いた楼海は、微かに瞳を瞑って口を開く。


「昔から、要領が良い奴だって言われてました。誰にどうすれば、この人は自分に利益ある人間になるだろうかと考えるのが得意だったんです。恐らくそうやって、出来損ないにも意味を見出そうとしていたんでしょうが……」


 そこまで語った楼海は、へらっと笑って見せた。


「そんなことありましたっけ? よく覚えていません」


 固く歯噛みして、畑野はドクドクと怒りに任せて流れる血流を知覚する。暴力的な人間だとは思っていなかったが、目の前の彼女を殴り飛ばしたくて仕方が無かった。篠宮が一体、どんな気持ちで『楼海』という天才に感謝をして、憧れて、嫉妬して、目を背けたのか。実の妹の苦しみを、実の姉が知らずして姉妹と言えるのか。


 握り拳を作ろうとする右手で己の胸元を鷲掴み、畑野はそれでも、一縷の望みを手離したくなくて言葉を絞り出す。


「今日……アンタがこうやって私を呼んだのは、篠宮を――妹を、少なからず大切にしているからだと思った。家族を心配しているからだと思った」


 楼海の宵闇のように真っ黒な瞳を見詰め、その心の内を見透かそうとする。


 しかし、楼海は愉悦を抑えきれない調子で吹き出して笑った。


「結果を残せずに逃げ出した負け犬に、情なんて湧きませんよ」


 頭の中で何かが千切れるような音がして、畑野は目を剥くように見開く。


 歯をきつく食い縛って、椅子を蹴るように立って拳を強く握った。


 片手で胸倉を掴んで、握った拳でその憎い頬を殴ってやりたい衝動に駆られるが、暴力は何を解決することもできず、ただ自分の憂さ晴らしにしかならないと思いとどまる。


 伸ばしかけた左手を止め、畑野は呼気を荒くさせながら楼海を見る。


 彼女は見定めるような冷めた瞳で畑野を見詰めていた。


 一触即発の空気に店中が静まり返る中、畑野は自制心を懸命に働かせる。瞳を瞑って深呼吸を繰り返し、伸ばした手を引っ込めた。それから、感情のままに吐き捨てる。


「アイツは確かに逃げた。誰にも認められないことに苦しんで戦うことを辞めた。その生き様は負け犬のそれと変わらないし、今の破滅的な生き様はきっとそれ以下かもしれない。だけど! アイツは――どれだけ妬んでも家族から受け取った優しさは忘れないし、捻くれてるけど性根は優しい。どれだけ憎くても、家族を罵ることはしなかった!」


 楼海という水彩画家は天才かもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。


 彼女がどんな立場で何を想おうが、畑野と篠宮の関係には何の影響もない。


「アンタの家系から見たら、芸術家になれずに天才の足を引っ張る出来損ないかもしれない。でも、私からしたら生意気なだけの大切な後輩なのよ。血が繋がっている程度の奴に、私の友人を貶される筋合いは無い」


 感情のままに吐き捨て、畑野は楼海を真っ直ぐに見詰める。


 昂った感情が呼吸を荒くさせ、言い切った畑野は深呼吸をして息を整える。


 楼海は一息に語った畑野を感情の読めない表情で静かに見つめ続け、事態を静観していたマスターは髭に覆われた口元を微かに緩めた。


 ジャズが沈黙の隙間を縫うように流れる店内で、畑野と楼海は見つめ合う。


 畑野は言いたいことを言い終え、ポケットに手を突っ込みながら出口へ足を向けた。


「気分が悪いから帰る。二度と私に顔を見せるな」


 迷惑料くらいは払ってもよかったかもしれないが、少なくとも今この心境で丁寧に財布から札を取り出す気にもなれなかった。今度、店主には改めて詫びに来よう。


 何も言わぬ楼海の横顔を一瞥してから出口へ歩き出す畑野。その足が二歩ほど動いたところで、ジャズに紛れるように、安堵の宿った声が畑野の鼓膜を叩いた。




「よかった」




 そんな声に、畑野は思わず足を止める。


 先程まで無言を貫いていた彼女が、ようやく発したその言葉はどんな意味を持っているのか理解できなかったのだ。しかし、立ち止まって少しだけ頭を働かせたところで、少しずつ理解が追い付く。


 下がった眉尻と緩んだ彼女の横顔を見て、畑野は一つの可能性を思い浮かべた。そして、その可能性を肯定するように楼海が言葉を続ける。


「……そう言ってくれる人が、あの子の傍に居て」


 その声は、『姉』のものだった。安堵と、嬉しさと、寂寥感と。幾つもの感情を複雑に編み込んだ、確かな愛情が無ければ発することのできない、少しだけ泣きそうに震える、本心からの声。話を続けるための虚偽や演技ではないことを理屈ではなく感情で理解し、畑野は言葉に詰まる。


 つまり、なんだ。彼女が発していた言葉の数々は、畑野という『妹に近付く害虫』がどんな人間かを見定めるためのものだったわけだ。思い返してみれば、彼女は出会ってからずっと、畑野を量るような瞳ばかりを向けてきていた。


 何よりも、あの篠宮が悪い人間だと語らなかったのだ。彼女の語った思い出の数々を考えれば、口汚く妹を貶すよりかは、妹の為に第三者を推し量る方がよほど解釈通りだ。


 畑野はポケットに入れていた手を抜き、非常に不服そうな顔で後ろ髪を掻いた。


「……試したわね」

「笑って済ませようとする人に妹は任せられません――が、不躾な真似はお詫びします。可愛い子ですから、変な人に騙されていないか心配でした。申し訳ございません」


 帰ろうと歩き出した身ではあるが、このまま去るのも気分が悪い。


 彼女の謝罪を受け止め、畑野はもう一度だけ席に着くことにした。


 成り行きを眺めていた客達は、一段落ついたのを見計らって再び談笑に戻ろうとする。楼海はマスターをちらりと見た後、客達を振り返る。


「お騒がせしてすみません。今晩は私が持ちますので、お好きなものをお好きなだけ飲んでください」


 楼海がそう告げると、戸惑いながらも嬉しそうな声が各所から上がった。やれやれ、と言いたげにマスターが肩を竦めるが、オーナーの自腹であれば彼も文句は言えまい。「さて」と気を取り直した楼海が畑野を見る。


「妹に近付くことを許可しましょう、畑野さん」

「なんでアンタの許可が必要なのよ。この大根役者が」

「姉ですからね。血縁の方が濃いに決まってます」


 こう見えて、先程の言葉は不服だったのだろう。篠宮を思い出させる不満そうな表情で張り合ってくる彼女だったが、生憎と今の心の距離は畑野の方が近い。「はいはい」と強者の余裕を見せてやれば、初めて楼海の余裕そうな表情が妬ましそうに崩れた。


 しかし、彼女は咳払いをして話を戻す。


「しかし……まあ、安心しました。変な人が寄り付いていなければそれで満足でしたが、あの子を大切に思ってくれる人が傍に居るようで何よりです。『私からしたら生意気なだけの大切な後輩なのよ』とは、私なら素面じゃ言えません」


 感情任せに吐き捨てた言葉を冷静に繰り返されると、少しの羞恥が遅れてやってくる。畑野は形容しがたい絶妙な表情で楼海を睨む。


「……根に持つタイプね、アンタ」

「『血が繋がっている程度の奴』ですから」

「悪かったとは言わないわよ。実際、私の方が距離が近い」


 あの言葉の数々は楼海の嘘が原因だ。自分に詫びる理由は無いだろうと、彼女を小馬鹿にしつつ開き直れば、楼海は頬杖を突きながら唇を尖らせた。不満ながらも何も言い返せずにもどかしそうな彼女は、少しだけ人間味があった。


 彼女は手元のグラスを持って揺らす。揺れる氷を眺めながら口を開いた。


「あの子は、元気ですか? 怪我や病気は大丈夫でしょうか。お腹を出して寝る子ですから、風邪をひいていなければいいのですが」

「同好会に所属していた頃はそれなりに顔を合わせていたけど、そういう話は聞かなかった。何だかんだでリスクヘッジが上手い奴だから、揉め事も上手い具合に躱してる」

「同好会に所属していたんですか?」


 楼海は淡い期待を瞳にトピックを抜き取るが、畑野は期待を切り捨てる。


「美術じゃなくて文芸同好会だけどね。殆ど合コンサークルになってるし、あの子は同好会のお姫様。私はもう辞めたから内情は知らないけど、まあ変わってないでしょ」


 そう語ると、楼海は「そうですか」と寂しそうに肩を落とした。


 畑野は置かれたグラスに手を伸ばし、柑橘の味わい深い酒を飲む。そんな様を眺めていた楼海は、ふと思い出したように口を開いた。


「あの子、昔はよく、ノートの隅にフグの落書きをしていたんです」


 言葉に、畑野は先刻の水族館での出来事を思い出す。そして、楼海が篠宮の好みを覚えている事実を嬉しく思いながら頷いた。


「……そういえば好きって言ってたわね」

「今も描いているんでしょうか?」


 遠い過去を思い出すような瞳でグラスの液面を見詰め、ぽつりとこぼす。


 その瞳には、久しく会話をしていない妹への愛と寂寥感が宿っていた。問われた畑野は、さて、と考え込むものの、彼女がノートをとっている姿を見たことが無いのだから何とも言えまい。ひょいと肩を竦めた。


「同じ講義は取ってないのよ。気になるなら直接聞けば?」


 突き放すような物言いになってしまったが、楼海の確かな愛情を見抜いた今、畑野には篠宮と再会するべきだという思いがある。


 早いところ、彼女には心の拠り所を作ってほしいのだ。


 しかし、楼海はそんな畑野の意図を理解した上で寂しそうに笑う。


「会えるなら、今日、畑野さんを呼んだりしていません」

「……」


 会えない。遠回しに彼女がそう告げた理由を考えれば、答えはすぐに出てくる。


 お互いの感情は後ろ向きではないが、親愛の中に劣等感と負い目が宿っているのだ。楼海はともかく、篠宮は今も劣等感に苛まれ孤独の中で愛情を渇望している。しかし、彼女から愛情を悉く奪った、『持つ者』の向ける愛情では彼女は満たされないだろう。


 楼海はほんの少しだけ、弱ったような笑みを見せた。


「駄目なんですよ。私じゃ何もできないんです……何も変わらない。分かるでしょう?」


 それはきっと、幾つもの挑戦と挫折に裏付けられた確証だ。


 篠宮が楼海から愛情を受け取ったところで、彼女の誰かに認められたいという願望は満たされない。天才たる『姉』からの慈悲では、凡骨たる『妹』は何も報われまい。全てを持って行った人間の声も想いも届かないだろう。


 皮肉にも、この世で誰よりも彼女を愛していた人間が、彼女に向けられた全ての関心を奪い去って行った。畑野は考え込んで絡まり始めた思考の糸をほどくようにアルコールを流し込み、グラスをカウンターに置く。思い詰めた表情で口を開く。


「そうね」


 静かに肯定の言葉を紡げば、楼海は報われたような表情を見せた。


 篠宮という一人の人間の為に行動する『芸術家』ではない『姉』としての自分の在り方を初めて誰かに認めてもらったのだ。肘を突いてグラスを持ち上げ、楼海は琥珀の液にアンティークのランプを透かして見る。


「彼女に会いたいというのは私の我儘で、その一方的な感情は彼女を傷付けるだけ。だから今日は、顔を見られればそれで十分でした――そして、畑野さんという素敵な人が妹の傍に居てくれて、今、とても安心しています」


 楼海は「ただ」と難しそうな表情で続けた。


「今日のことは彼女には内緒にしてください」

「隠し事をしろと?」

「嘘も方便ですし、誤解を避ける為です。私と貴女の接触を彼女が知ったら、彼女は私の干渉を嫌って距離を置きかねない。それに、今後の貴女の行動も私の差し金だと邪推するかもしれません――お二人が積み重ねた時間も、縮めた距離も、私という第三者の介入で狂うべきじゃありません。その近くに、私は『居なかった』」


 畑野としては、嘘を吐きたくない。


 だが、彼女の言うことも一理がある。


 篠宮という人間はそれほどまでに己の血筋に縛られている。逃げるために、忘れるために自暴自棄な生き方をしているが、裏を返せばそれは、いつまでも過去に囚われているということだ。少なくとも、畑野が二人で楼海と話したといえば、心中穏やかじゃないだろう。畑野は後ろ髪を掻いて思案しながら、楼海を見た。


 楼海も苦い表情で、絞り出すように語っていた。


「……隠し事がバレたら、余計に傷付ける」

「――私の、我儘です。一人暮らしを始めてまで私達から離れた、そんな彼女の意思を無視してその友人と接触した。そうやって再び彼女を傷付けるのが怖いんです」


 思い詰めたような表情で語る楼海に、もはや芸術家としての顏は見えなかった。


 この決断がどちらに転ぶかは分からないが、もはや否定はできなかった。


 少なくとも彼女の思いは理解できる。畑野は篠宮の友人だが、だからこそ彼女が望まずとも、彼女の為になる行動を選ぶ。そして今日、篠宮という人物を通して知り合った、楼海という知人の意思も汲む。


「……分かった」


 そう応じれば、楼海は安堵したような笑みを見せた。しかし、と畑野は首を振る。


「でもこれは、アンタだけの我儘じゃない。それを聞き入れて実行した私の我儘でもある。だから、何かがあった時にアンタばかりが追い詰められる必要は無い――共犯だから、いざという時は手を貸すし、手を貸しなさい」


 畑野が真っ直ぐに瞳を見詰めて語れば、楼海は面食らったような表情で押し黙る。


 数秒して相好を崩した彼女は、その言葉を噛み締めるように瞳を瞑った。


「あの子が気を許す訳です。変な人ですね」

「お生憎、常識人と名高いわ」

「御冗談を。常識はあの子を笑顔にできませんから」


 つい先刻にも似たような会話を彼女とした。そんなことを思い出して改めて、目の前の篠宮に瓜二つな女性が彼女の姉なのだと再認識した。可笑しくて笑っていれば、彼女も、今日、初めて心の底からの笑みを見せた。


「共犯。素敵な響きです――もしも何かお困りのことがあれば、お構いなく私に」


 楼海はそう言いながらスマートフォンをポケットから取り出す。その意図をすぐに汲んだ畑野は、手早くスマートフォンを取り出して彼女と連絡先を交換しようとした。しかし、手際よく開かれた彼女のスマートフォンの壁紙が目に留まる。


「ん」


 そこに映っているのが篠宮にそっくりな幼い少女であることに気付いた畑野は、思わず反応をする。畑野の視線に気付いた楼海は、「ああ、これですか?」と、懐かしむような声色と表情で、畑野が見やすいように端末を回す。


 そこに映されていたのは、水彩絵の具で描いたフグの絵を誇らしそうに見せる少女だ。服は絵の具で汚れて、頬には黄色の絵の具がべったりと付着していた。けれども少女は撮影者に満面の笑みを向けており、楼海はそれを愛おしそうに撫でる。


「この頃が、いちばん楽しかった」


 誰に宛てるでもなく紡がれた楼海の想いの言葉を、畑野は抱き締めるように「そっか」と呟いた。被写体が誰であるかなんて確かめるまでもなくて、彼女がこの写真を壁紙に設定している理由も聞くまでもなかった。


 随分と低い画素数が、想いを積み重ねてきた歳月を裏付けているようだ。


 それから電話番号やメールアドレス、メッセージアプリの連絡先を交換し終えて、畑野は登録名を『楼海』に変更してからスマートフォンをポケットに戻す。


「今日はありがとうございました。妹が元気な顔を見られれば満足でしたが――親しい人から近況を聞くことができて、思いがけぬ協力者もできました」

「私も、一時はぶっ飛ばしてやろうとは思ったけど……アイツを大切に思っているのは嘘じゃなさそうだから許す。アンタがアイツに避けられていることも、近付きたくない理由も分かった。何ができるのか、何をしたいのかも自分自身でわかっちゃいないけど、できる限りのことはするって約束する」


 友人なのだから。胸中でそう付け加え、畑野は残っていた酒を一息に飲み干す。高価な酒を勿体ない飲み方ではあったが、どうにもこういう場は性に合わない。苦笑をするマスターに軽く詫びながら帰り支度を整えれば、楼海も身支度を始めた。


「家族でありながら第三者に頭を下げることくらいしかできず、情けない限りですが――それでも、どうか、お願いいたします。妹を支えてあげてください」


 楼海は身支度を整えて立つと、深く畑野に頭を下げた。


「大切な、家族なんです」


 絞り出すように続けられた楼海の言葉を、畑野は噛み締める。


 彼女は妹の傍に自分のような人間が居てよかったと語ったが、それは畑野も同じことだ。篠宮に、楼海のような家族が居て救われた。誰にも望まれずに生きてきた訳ではないのだ。皮肉にも彼女から全ての注目や愛情を奪っていった張本人ではあるが、それでも、篠宮に対して抱いている家族としての愛情は本物だ。


 畑野は楼海の言葉を受け止め、飲み込み、頷いた。


「よかった」


 そう語れば、楼海は怪訝そうに顔を上げた。


「そう言ってくれる家族が、アイツにも居て」


 そう続けると、楼海はくすりと笑みをこぼした。








 タクシー乗り場にて。アルコールに火照った身体で白い吐息をこぼしながら、二人並んで遠い空の星を眺める。畑野はふと、気になったことを隣の楼海に尋ねた。


「そういえば、あの子の絵はアンタから見て上手いの?」


 手に白い吐息をかけて温めていた楼海は、動きを止めて畑野を見た。


 手を擦って温めつつ、彼女は「……ふむ」と思案する。


「『姉』としての私に尋ねていますか?」

「一応、そっちも聞いておく」

「世界一の天才です。あの子より上手い芸術家を知りません」

「オーケー、『芸術家の楼海』に尋ねていいかしら」


 分かり切っていた回答に満足した畑野が正答を促すと、至って真面目な表情で豪語していた彼女は、肩を竦めつつ畑野から視線を逸らす。少し悩んで、再びこちらを見た。


「それを聞いて、如何なさいますか?」


 鋭い質問をするものだ。恐らく彼女は、徒に絵のことで彼女を追い詰めかねない可能性を危惧している。だが、悪用をするつもりはない。ぼんやりと星を眺めながら、畑野は瞬く星を吹き飛ばすように吐息をかけた。


「私はあの子に何をしてほしいのか、何をさせたいのか。自分自身を理解できていない。ただ、誰かに認めてもらうことに必死になりながら生きる姿を見ていられなくて、何でもいいから、何かをしたい――何をするかは分からないけど、何をするにもあの子を知らないといけないから、知らないことを知りたいだけ」


 一切を包み隠さずに打ち明けると、楼海はその返答を噛み締める。


 万が一が無いようにそれを吟味した楼海は、やがて、畑野を見て口を開いた。

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